エピローグ
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ライブ翌日の朝、都会の喧騒から隔絶された場所で、希は初めて「静寂」という名の祝福を受けていた。
カーテンの隙間から差し込む光は、ステージの眩い照明とは違う。柔らかく、どこまでも優しい春の陽だまりだ。希は窓辺に立ち、クリニックの庭を見下ろす。そこには、あの日から大切に育ててきたチョコレートコスモスが、季節外れの一輪を静かに咲かせていた。
「おはよう」
背後から、恭介の声がした。白衣を羽織った彼は、手慣れた手つきでコーヒーカップを二つ、診察室のデスクに置く。希は振り返り、その顔を見て自然と笑みがこぼれた。
もう、カメラに合わせた完璧な笑顔を作る必要はない。メイクも、衣装も、ファンを熱狂させるための仮面も、昨夜のステージにすべて置いてきた。
「……おはよう、恭介さん」
希はデスクの椅子に腰掛け、コーヒーの温もりに指先を添える。
引退会見を終え、すべてが終わったはずなのに、彼女の心は驚くほど軽やかだった。この場所は、かつて彼女が「救い」を求めて迷い込んだ小さな避難所。けれど今は、ここが彼女の日常という名の戦場であり、何よりも安心できる聖域になっていた。
午前中の診察が終わり、午後の受付時間までの束の間の休息。
希は慣れた手つきで、待合室の雑誌を整理し、季節の花を活け直す。アイドル時代の経験は、思いがけない形でここで生きていた。彼女がさりげなく置くクッションの配置や、患者の不安を和らげる柔らかなトーンの挨拶一つひとつが、クリニックに新しい彩りを加えていく。
ふと、待合室に誰もいない静かな瞬間が訪れた。
「のぞみ」
恭介が、診察室の入り口から彼女を呼んだ。
ファンが絶叫する名前でも、プロデューサーが設計図のように指示する名前でもない。ただ、昔からずっとそこにあった、彼女自身の名前。
「――なあに、恭介さん」
その響きが、心の奥深くまで溶けていく。
彼女はゆっくりと歩み寄り、彼と並んで窓の外を見た。街は今日も忙しなく動いているけれど、二人の間には春風のように穏やかな時間が流れている。
ステージを降りた少女は、もうどこにも行かない。
ここで、彼と一緒に、昨日よりも少しだけ丁寧な明日を重ねていくだけだ。
窓辺のチョコレートコスモスが、風に揺れてかすかに甘い香りを漂わせる。
それは、十年前の雨の日から始まった二人の物語が、ようやく一番美しい場所に辿り着いたことを告げる、ささやかな合図のように思えた。
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