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第四十話 白炎

雪弥が目を開けた時。


最初に見えたのは、

火鉢の火だった。


赤いはずの火。


でも。


右目だけ、

少しぼやけている。


火の輪郭が滲む。


部屋の端も、

少し欠けて見えた。


雪弥は瞬きをする。


変わらない。


右目の奥が、

まだ痛かった。


焼けるような痛みではない。


もっと奥。


頭の中を、

細い針で刺されているみたいだった。


「……っ」


雪弥が身じろぎすると、

袖が引かれた。


咲がいた。


布団のそばで、

雪弥の袖を握っている。


髪は少し乱れていた。


澪が結ってくれた髪。


咲は雪弥を見て、

ぼんやり笑った。


「……いた」


雪弥は少し黙る。


「……いる」


それだけ言うと、

咲は安心したみたいに、

袖を握ったまま目を閉じた。


部屋は静かだった。


いつもなら、

朝には澪が来る。


障子を開けて。


握り飯と味噌汁と漬物を置いて。


咲の髪を見て、

少し変な顔をする。


でも、

今日は来ていなかった。


雪弥は起き上がろうとした。


身体が重い。


腹が痛む。


肩も痛い。


それより。


右目の奥が、

ずっと疼いている。


障子の向こうから、

女の声がした。


「起きましたか」


篠宮朔夜だった。


黒羽織の女は、

部屋の隅に座っていた。


いつからいたのか分からない。


墨色の着物。


乱れのない黒髪。


冷たい目。


朔夜は雪弥を見ている。


「右目は」


雪弥は眉を寄せる。


「……見える」


「左と同じように?」


雪弥は黙った。


同じではない。


朔夜はそれだけで分かったようだった。


「白炎を使った代償です」


「……代償」


「使うたびに、

 失われます」


火鉢の火が揺れた。


雪弥は自分の右目に触れる。


乾いた血が、

指先についた。


「……目が?」


「まずは」


朔夜の声は淡々としていた。


「目に宿せば、視力が削れる」


雪弥は朔夜を見る。


右目だけ、

輪郭がぼやける。


朔夜は続けた。


「腕に宿せば、

 腕の感覚が鈍る。

 握力も、動きも、少しずつ失う」


静かな声。


「脚に宿せば、

 速く動ける。

 人の限界を越えるでしょう」


少しの間。


「その代わり、

 脚は壊れていく」


雪弥は何も言わない。


咲の寝息だけが、

小さく聞こえていた。


朔夜は火鉢を見る。


「白炎は、

 救う力ではありません」


「……じゃあ、なに」


「終わらせる力です」


その言葉は、

部屋の中へ冷たく落ちた。


雪弥は右目を押さえた。


まだ痛い。


でも。


あの時。


朔太郎の中にいたものは、

消えた。


煤も残さず。


戻らなかった。


雪弥は小さく言う。


「……使えば、

 壊れるの」


「ええ」


朔夜は迷わず頷いた。


「使わなければ、

 誰かが壊れます」


雪弥は咲を見る。


左腕のない身体。


右足のない身体。


壊れたまま眠る顔。


何も言えなかった。


朔夜は立ち上がる。


「澪は今日は来ません」


雪弥の目が動く。


「……澪は」


「朔太郎の葬りをしています」


淡々とした声。


でも。


ほんの少しだけ、

冷たさが濃くなった。


「近づかない方がいいでしょう」


「……なんで」


朔夜はすぐには答えなかった。


障子の外を見る。


「今の澪は、

 綺麗ではありませんから」


雪弥は眉をひそめる。


意味が分からない。


でも、

嫌な言い方だった。


朔夜はそれ以上言わず、

障子を開けた。


出ていく前に、

一度だけ振り向く。


「目を酷使しないことです」


「……どうすればいい」


「閉じていなさい」


「……それだけ?」


「それだけです」


朔夜は去った。


本当に、

それだけ言って。


部屋に残ったのは、

火鉢の音と、

咲の寝息だけだった。


夜。


雪弥は眠れなかった。


咲は眠っている。


右目はまだ痛む。


閉じていても、

奥に白いものが残っている気がした。


雪弥は静かに立ち上がる。


咲の手を、

そっと布団へ戻す。


「……すぐ戻る」


聞こえていない。


それでも言った。


外へ出ると、

京の夜は湿っていた。


昼間降らなかった雨が、

地面の匂いだけを濃くしている。


井戸のそばに、

誰かが座っていた。


女だった。


片膝を立てて、

井戸の水面を覗き込んでいる。


黒い着物の裾が、

土に触れている。


汚れるのも濡れるのも、

どうでもいいみたいだった。


細い身体。


なのに、

着物の合わせ目だけが妙に窮屈そうで。


長い髪が、

肩から流れている。


紫苑だった。


雪弥は立ち止まる。


紫苑は振り向かない。


水面を見たまま、

眠そうに言った。


「目、

 少し削れたね」


雪弥の右目が疼く。


「……見てたの」


「見てたよ」


「……いつから」


「わりと前から」


紫苑はようやく顔を上げた。


紫の瞳が、

夜の中でぼんやり光っている。


笑っているのか、

眠いだけなのか分からない顔。


雪弥は低く聞く。


「……知ってたの」


「白炎のこと?」


「ん」


「知ってた」


雪弥は拳を握る。


「……なんで言わなかった」


紫苑は首を傾げる。


「言ったら使えた?」


雪弥は黙った。


紫苑は井戸の縁に座ったまま、

足を揺らす。


「白炎はね、

 便利な力じゃないよ」


軽い声。


でも、

目は笑っていない。


「目に宿せば、

 目が死ぬ」


雪弥の右目が、

また痛む。


「腕に宿せば、

 腕が死ぬ」


紫苑は続ける。


「脚に宿せば、

 脚が死ぬ」


夜風が吹いた。


井戸の水面が揺れる。


「代わりに、

 界骸は終わる」


雪弥は小さく言う。


「……じゃあ、

 使うたびに壊れる」


「うん」


紫苑は頷いた。


「でも使わないと、

 誰かが壊れる」


朔夜と同じことを言った。


でも、

紫苑の方が少しだけ嫌だった。


まるで、

何度も見てきたみたいな言い方だったから。


雪弥は聞いた。


「……咲は治るの」


紫苑の足が止まった。


ほんの一瞬。


それから、

また揺れる。


「治る、とは違うかな」


雪弥の目が細くなる。


「……じゃあ」


「でも、

 まだ終わってない」


紫苑は井戸から降りた。


音がしなかった。


近づいてくる。


雪弥のそばを通り過ぎる時、

雪と花と血が混ざったような匂いがした。


でも。


やっぱり読めない。


この女だけは、

匂いの奥がない。


紫苑は雪弥の右目を覗き込む。


近い。


雪弥は少しだけ身を引いた。


紫苑は楽しそうに目を細める。


「やっと、

 目が開いたね」


「……見えにくくなった」


「そういうものだよ」


「……嫌な言い方」


「嫌な力だもん」


紫苑は笑った。


小さく。


ひどく軽く。


それから、

雪弥の胸のあたりを指で軽く叩いた。


「覚えときな」


「白炎は、

 君の願いを叶える火じゃない」


雪弥は黙る。


「君が終わらせたいものを、

 終わらせるだけ」


その言葉だけ残して、

紫苑は井戸の向こうへ歩いていく。


雪弥が一歩踏み出す。


「……紫苑」


紫苑は振り返らない。


「なに」


「俺は、

 どうなる」


少しの沈黙。


夜の京が、

遠くでざわめいている。


紫苑は肩越しに、

ほんの少しだけ笑った。


「たぶん、

 最後まで残るよ」


「君の身体以外は」


風が吹いた。


黒い着物の裾が揺れる。


次の瞬間。


紫苑は、

もういなかった。


井戸の水面だけが、

静かに揺れている。


雪弥は右目を押さえた。


痛い。


でも、

見えている。


まだ。


長屋へ戻ると、

咲は眠っていた。


袖を探すみたいに、

手を少し動かしている。


雪弥はそばに座る。


自分の袖を、

咲の手の中へ入れた。


咲は安心したように、

小さく息を吐く。


火鉢の火は赤い。


その奥に、

白は見えなかった。


雪弥は右目を閉じる。


暗い。


少しだけ、

前より暗かった。

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