第三十九話 兄ぃ
白い火は、
もう消えていた。
路地には、
雨の匂いがした。
降ってはいない。
でも、
空が低い。
三枝朔太郎は、
石畳の上に倒れていた。
顔は、
人間のままだった。
優しそうな兄の顔。
澪はその横に座っていた。
動かない。
泣き声もない。
ただ、
膝の上に朔太郎の頭を乗せていた。
雪弥は少し離れた場所で倒れている。
右目の下には、
血の跡が残っていた。
澪は、
朔太郎の髪を撫でる。
一度。
二度。
それから、
小さく言った。
「……兄ぃ、遅いわ」
声は、
ひどく静かだった。
昔。
澪は泣き虫だった。
今みたいに、
人の世話を焼く娘ではなかった。
よく転んだ。
よく泣いた。
夜道も嫌いだった。
「兄ぃ」
小さな澪は、
いつも朔太郎の袖を掴んでいた。
朔太郎は笑う。
「また泣いてるんか」
「泣いてへん」
「泣いてる顔や」
「泣いてへんもん」
澪がむきになると、
朔太郎は困ったように笑って、
頭を撫でた。
「ほな、
泣いてへんことにしとこか」
そう言われると、
澪は余計に泣きそうになった。
朔太郎は、
よく澪の髪を結ってくれた。
上手いわけではない。
少し曲がる。
少し緩い。
でも、
指は優しかった。
「澪の髪は綺麗やな」
朔太郎がそう言うたび、
澪はむっとした顔をした。
「からかってるん?」
「からかってへん」
「兄ぃ、すぐそういうこと言う」
「ほんまのことやからな」
澪はそっぽを向く。
でも、
その日は一日中、
髪を触られるのが少し嬉しかった。
朝は、
いつも同じだった。
握り飯。
味噌汁。
漬物。
貧しかったから、
それくらいしかない。
でも朔太郎は、
いつも澪の前に多めに置いた。
「兄ぃの分は?」
「ある」
「嘘や」
「あるって」
澪が睨むと、
朔太郎は少し困った顔をした。
それから、
握り飯を半分に割る。
「ほな半分こ」
「最初からそうして」
「澪は厳しいなぁ」
「兄ぃが嘘つくからや」
朔太郎は笑った。
その顔を、
澪はずっと覚えている。
ある夜。
京の裏通りで、
人が消えた。
最初は、
ただの人斬りだと言われていた。
でも違った。
暗い路地に、
黒いものがいた。
人ではない。
獣でもない。
澪は声も出せなかった。
朔太郎が澪を庇った。
震えていた。
でも、
前に立った。
「澪、
後ろ下がっとき」
「兄ぃ」
「ええから」
黒いものが動いた。
その瞬間。
白い紙が飛んだ。
札だった。
黒いものが壁へ縫い付けられる。
ぎゃあ、と、
変な声がした。
そして。
黒羽織の女が現れた。
今より少し若い。
けれど、
目は同じだった。
冷たくて、
綺麗で。
人を見る目ではなかった。
「生きていますか」
女は淡々と言った。
朔太郎は澪を抱えたまま、
必死に頷いた。
澪は震えていた。
女は澪を見た。
じっと。
長く。
「……綺麗な子ですね」
朔太郎の身体が強張る。
女は少しだけ笑った。
「壊れやすそうです」
その言葉の意味を、
幼い澪は分からなかった。
でも、
朔太郎は分かったらしい。
澪を抱く手に、
力が入った。
女の名は、
篠宮朔夜。
刻議衆の者だった。
それから、
兄妹の暮らしは変わった。
朔太郎は言った。
「澪を守れるなら、
何でもええ」
澪は泣きながら聞いていた。
「兄ぃも守る」
「澪が?」
「守る」
「ほな、
強うならなあかんな」
「なる」
朔太郎は笑った。
「じゃあ一緒や」
刻議衆は、
優しい場所ではなかった。
札。
結界。
呪い。
界骸。
禍津。
知らなかったものを、
次々に見せられた。
澪は何度も吐いた。
何度も泣いた。
でも、
朔太郎がいた。
朔太郎は任務から帰ると、
いつも疲れた顔で座った。
澪はその前に、
朝飯を置く。
握り飯。
味噌汁。
漬物。
毎回同じ。
朔太郎はそれを見て、
笑った。
「澪の朝飯は、
いつも同じやな」
澪はむっとする。
「同じ方が落ち着くやろ」
「まあな」
朔太郎は握り飯を食べる。
「帰ってきた感じするわ」
その一言が、
澪は嬉しかった。
だから、
次の朝も同じものを作った。
その次も。
そのまた次も。
兄ぃが帰ってきた時に、
同じ朝であるように。
ある朝。
朔太郎は帰ってこなかった。
澪は握り飯を作った。
味噌汁も。
漬物も。
いつも通りに並べた。
でも、
兄は来なかった。
昼になっても。
夜になっても。
次の朝も、
澪は同じものを作った。
その次の朝も。
誰かが言った。
「もう帰ってこぉへんかもしれん」
澪は笑った。
「兄ぃは帰ってくる」
そう言って、
また握り飯を握った。
味噌汁を作った。
漬物を添えた。
同じ朝を、
何度も作った。
帰ってこない兄のために。
そして今。
澪の前には、
朔太郎がいた。
やっと帰ってきた兄。
でも。
もう何も言わない。
澪は、
朔太郎の髪を撫でた。
昔とは逆だった。
今度は、
澪が兄の髪を整えている。
「兄ぃ」
声が震える。
「おかえり」
その言葉だけ言って。
澪はようやく、
顔を歪めた。
でも、
泣き声は出なかった。
京の空は低いままだった。
雨はまだ、
降らなかった。




