第三十八話 宿骸
朝。
澪は来なかった。
いつもなら、
もう障子が開いている。
「おはようさん」
そう言って、
握り飯と味噌汁と漬物を置いていく。
毎朝同じ。
咲の具合が良い日も。
悪い日も。
雨でも、
晴れでも。
少し気味が悪いくらい、
同じ。
でも今日は、
何もなかった。
火鉢の火だけが、
小さく鳴っている。
雪弥は障子を見ていた。
咲は布団の上で、
ぼんやり座っている。
昨日、澪が結った髪は、
少し崩れていた。
咲が小さく言う。
「……澪」
雪弥は答えなかった。
胸の奥が、
少しだけざわつく。
外が騒がしくなったのは、
それからしばらくしてだった。
長屋の女たちの声。
足音。
誰かが澪の名を呼んでいる。
雪弥は立ち上がる。
障子を開けた。
廊下の向こうに、
澪がいた。
立っていた。
けれど、
いつもの澪ではなかった。
顔色が悪い。
唇が少し乾いている。
それでも手には、
いつもの包みを持っていた。
握り飯。
味噌汁。
漬物。
今日も同じだった。
澪は笑おうとした。
「おはようさん」
声がかすれていた。
雪弥は黙って見ている。
澪は部屋へ入り、
いつものように包みを置いた。
それから咲の髪を見る。
いつもなら、
そこで目を輝かせる。
でも今日は、
そうならなかった。
咲が澪を見上げる。
「……澪」
澪はようやく、
少しだけ笑った。
「うん。
澪やで」
咲の髪へ手を伸ばす。
その指が震えていた。
雪弥が言う。
「……なにかあったの」
澪は答えない。
咲の髪を直そうとして、
うまく指が通らない。
何度かやり直す。
それでも駄目だった。
澪は手を止めた。
「兄ぃを」
小さな声だった。
「見た人が、おるって」
火鉢がぱちりと鳴った。
雪弥は何も言わない。
澪は俯いたまま続ける。
「三枝朔太郎。
うちの兄ぃ」
そこで一度、
息を吸った。
「壬生の裏の方で見たって」
咲は意味が分からない顔で、
澪を見ている。
澪は急に、
いつもの顔を作ろうとした。
「ご飯、食べ。
冷めるし」
雪弥は動かない。
「……澪は行くの」
「行く」
「……ひとりで?」
澪は少しだけ黙る。
「ひとりで行ける」
「……嘘だ」
澪は笑った。
今にも崩れそうな笑い方だった。
「今日はよう刺してくるなぁ」
雪弥は山刀を取った。
澪がすぐに言う。
「雪弥はええ」
「……行く」
「これは、うちの――」
「澪、手震えてる」
澪は自分の手を見た。
本当に震えていた。
腹が立ったみたいに、
その手を握りしめる。
咲が雪弥の袖を掴んだ。
「……雪弥」
雪弥は咲を見る。
咲の背には、
源蔵の猟銃がある。
旅の間ずっと、
咲が手放さなかったもの。
雪弥は少し迷った。
それから、
猟銃へ手を伸ばす。
「……借りる」
咲は猟銃を見る。
雪弥を見る。
意味は分かっていないかもしれない。
でも、
小さく頷いた。
雪弥は猟銃を背負った。
腰には山刀。
澪はそれを見て、
何か言いかけた。
結局、
何も言わなかった。
外へ出ると、
京の空は低かった。
雨が降りそうで、
降らない。
嫌な空だった。
路地を抜ける。
人の声。
酒の匂い。
煙。
血。
その全部が混ざって、
京は今日も普通の顔をしていた。
澪は早足だった。
いつもの澪なら、
途中で何か言う。
「歩くの早い」
とか。
「ちゃんと前見て」
とか。
今日は何も言わない。
壬生の裏。
人通りの少ない道。
古い蔵の前で、
澪の足が止まった。
男が立っていた。
細身の男だった。
薄い着物。
少し伸びた髪。
柔らかい目。
澪と似た目をしていた。
男は澪を見て、
笑った。
「澪」
澪の肩が落ちた。
力が抜けたみたいに。
「……兄ぃ」
三枝朔太郎は、
昔のままの顔でそこにいた。
優しそうだった。
ちゃんと人間に見えた。
雪弥は動かなかった。
おかしい。
匂いがない。
汗も。
土も。
飯も。
人間ならあるはずの匂いが、
何もない。
そこに立っているのに。
空っぽだった。
朔太郎が雪弥を見る。
「君が雪弥くん?」
声も普通だった。
優しい。
澪が一歩、前に出る。
「兄ぃ。
どこ行ってたん」
朔太郎は困ったように笑う。
「迷ってた」
「みんな心配してたんやで」
「うん。
ごめんな」
澪の目が赤くなる。
雪弥は言った。
「……近づかない方がいい」
澪が振り向く。
「雪弥」
「その人、違う」
澪の顔が固まった。
「何言うてるの」
「匂いがない」
朔太郎が笑った。
笑ったまま、
雪弥を見た。
「鼻、ええんやね」
次の瞬間。
朔太郎が踏み込んだ。
走ったわけじゃない。
跳んだわけでもない。
ただ一歩、
前へ出ただけだった。
なのに、
もう雪弥の前にいた。
雪弥は首を引いた。
朔太郎の指先が、
喉の皮膚をかすめる。
熱い。
少し遅れて、
血が流れた。
朔太郎の手はそのまま、
背後の木壁に触れていた。
ばき、と音がする。
ただ触れただけに見えた。
でも。
木の壁に、
指の跡が深く残っていた。
澪が叫んだ。
「兄ぃ!」
朔太郎は澪を見た。
「怖がらんでええよ」
本当に優しい声だった。
「兄ぃやで」
澪は動けない。
雪弥は山刀を抜く。
「……澪、下がって」
澪は首を振った。
小さく。
何度も。
「でも」
声が震える。
「兄ぃや」
朔太郎は澪へ歩く。
歩き方は普通だった。
普通すぎて、
余計に気持ち悪かった。
「帰ろ、澪」
「どこへ」
「痛くないところ」
朔太郎は笑った。
「怖くないところ」
澪の唇が震える。
「兄ぃ……」
雪弥は猟銃を構えた。
源蔵の猟銃。
咲がずっと背負っていたもの。
人へ向けるのは初めてだった。
朔太郎が横目で見る。
「それ、人に向けたらあかんよ」
雪弥は答えない。
指を引き金へ掛ける。
朔太郎が少しだけ笑う。
「撃てるん?」
その声が、
雪弥の中へ入ってくる。
人間の声。
兄の声。
澪が叫ぶ。
「待って!」
雪弥の指が止まった。
その一瞬で。
朔太郎が消えた。
いや。
消えたように見えただけだった。
次の瞬間、
腹に衝撃が来た。
拳だった。
ただの拳。
でも、
身体の中が潰れたみたいに痛い。
雪弥の身体が飛んだ。
地面に転がる。
猟銃が石畳を滑った。
息ができない。
朔太郎はもう、
澪の前にいた。
「澪」
手を伸ばす。
「大きなったな」
澪は泣いていた。
声は出ていない。
朔太郎の指が、
澪の頬に触れる。
優しく撫でる。
次に、
首へ下りる。
雪弥はそれを見た。
朔太郎の手に、
力が入った。
ほんの少し。
それだけで、
澪の喉が詰まった音を立てる。
「……やめろ」
声が出た。
低く。
自分の声じゃないみたいだった。
朔太郎は振り返る。
「君には関係ない」
雪弥は立ち上がる。
腹が痛い。
喉も熱い。
でも立つ。
「……ある」
「澪は僕の妹や」
「……澪は澪だ」
朔太郎の顔から、
笑みが少し消えた。
ほんの少しだけ。
「邪魔やな」
また踏み込まれる。
雪弥は山刀で受けた。
がきんっ。
朔太郎の拳だった。
刀を殴った。
それだけで、
腕が痺れる。
人の骨が出せる音じゃない。
雪弥の足が滑る。
朔太郎は笑い直す。
「斬るんか?」
雪弥は答えない。
「この顔を?」
朔太郎は自分の頬を指で叩いた。
「澪の兄ぃやで」
澪が息を呑む。
雪弥の手が止まる。
斬れない。
嫌だった。
人の形をしている。
名前がある。
澪が呼んだ。
兄ぃと。
でも影が違う。
朔太郎の足元の影だけが、
遅れて揺れていた。
人の形をしていない。
朔太郎が囁く。
「ほら」
その声が耳元にあった。
「斬れへん」
雪弥は反応だけで山刀を上げた。
がんっ。
また拳。
重い。
刃ごと腕が跳ね上がる。
肩が外れそうに痛む。
朔太郎は優しい顔のまま、
首を傾げた。
「痛かった?」
雪弥は歯を食いしばる。
その時。
ばんっ。
銃声。
朔太郎の肩が弾けた。
雪弥が撃っていた。
いつ拾ったのか、
自分でもよく分からなかった。
猟銃の煙が、
手元から上がっている。
朔太郎は数歩だけ下がった。
でも倒れない。
肩から血が流れる。
普通の赤い血。
けれど、
痛がらない。
傷口の奥で、
黒いものが一瞬だけ動いた。
すぐに肉が寄る。
塞がっていく。
雪弥の息が止まる。
朔太郎は悲しそうに笑った。
「撃ったんや」
声は優しい。
「人に」
澪がふらつく。
「兄ぃ……」
朔太郎は澪を見る。
「ええよ。
許したる」
その声が優しいほど、
気味が悪かった。
雪弥が間に入った。
山刀を握る。
手が痛い。
でも離さない。
朔太郎は首を傾げる。
「まだやるん?」
雪弥は短く言った。
「……終わらせる」
「無理や」
朔太郎が笑う。
「君、子供やん」
雪弥は踏み込んだ。
山刀が胸を斬った。
手応えがあった。
人を斬る感触。
嫌な柔らかさ。
湿った重さ。
雪弥の胃が、
ぐっと縮む。
でも朔太郎は倒れない。
胸の傷が黒く蠢く。
塞がっていく。
「ほらな」
朔太郎が笑った。
「戻る」
雪弥の目の奥が熱くなった。
火鉢を見た時の、
あの熱。
でも今は違う。
目の奥から、
頭の芯まで焼かれる。
痛い。
熱い。
なのに寒い。
澪が何か叫んだ。
聞こえない。
朔太郎が一歩下がる。
初めて、
顔が歪んだ。
「それは、あかん」
雪弥は自分の目を押さえたくなった。
でも手が動かない。
黒い瞳の奥。
そこに白い火が灯る。
小さく。
静かに。
山刀の刃へ、
白い炎が走った。
火なのに、
音がない。
熱もない。
なのに。
触れたら全部終わると分かる。
右目から、
血が流れた。
涙みたいに。
澪が息を呑む。
「白炎……」
雪弥には分からない。
何が起きているのか、
分からない。
ただ、
今なら終わる。
それだけだった。
朔太郎が澪を見る。
「澪」
その声は、
さっきまでより少し幼く聞こえた。
本物みたいで。
余計に嫌だった。
澪は動けない。
朔太郎が笑おうとする。
「助け――」
雪弥の刃が走った。
白い火が、
朔太郎の胸を抜けた。
身体は燃えなかった。
着物も燃えない。
肌も焼けない。
けれど。
中にいた何かだけが、
引き剥がされた。
黒い影。
人の形じゃない。
それが白炎に触れた瞬間、
声もなく消えた。
煤も残らなかった。
朔太郎の身体が、
ゆっくり倒れる。
今度は倒れた。
普通の人間みたいに。
血が少しずつ広がる。
澪は膝をついた。
「兄ぃ」
声が出ていない。
口だけが動いていた。
雪弥は立ったままだった。
山刀を握っている。
手が震えている。
右目から血が落ちる。
一滴。
また一滴。
澪は朔太郎を抱き起こした。
泣いているのに、
泣き声がなかった。
雪弥は何か言おうとした。
でも何も出なかった。
ごめんも。
違うも。
何も。
ただ、
腹の奥が気持ち悪かった。
人を斬った。
それだけが残った。
膝の力が抜ける。
視界が傾く。
倒れる前に、
澪の声が聞こえた。
「……雪弥」
怒っているのか。
泣いているのか。
分からなかった。
白い火は、
もうどこにもなかった。




