第三十七話 消えない煤
朝。
澪は今日も来た。
「おはようさん。朝ごはんやで」
障子が開く。
握り飯。
味噌汁。
漬物。
昨日も同じだった。
その前も、
たぶん同じだった。
雪弥は火鉢の前で、
包みをじっと見た。
「……また同じ」
澪は平然としている。
「朝はこれがええんよ」
「……毎日?」
「毎日」
即答だった。
雪弥は少し黙る。
咲は布団の上で、
ぼんやり澪を見ていた。
今日は少しだけ顔色が悪い。
それでも澪は、
同じように握り飯と味噌汁と漬物を並べた。
それが優しさなのか。
癖なのか。
儀式なのか。
雪弥には分からなかった。
澪は咲のそばへ座る。
「咲さん、
おはよう」
咲はゆっくり瞬きをした。
「……澪」
「はい、澪です」
澪は嬉しそうに笑う。
そして。
咲の髪を見た瞬間、
また目が変わった。
「……あかん」
雪弥は味噌汁を持ったまま、
小さく息を吐く。
「……また?」
「またやない。
これは毎朝の務めや」
澪は櫛を取り出した。
咲は首を傾げる。
「……かみ?」
「そう。髪」
澪は咲の黒髪をそっと持ち上げる。
その顔が、
少しだけ興奮していた。
「昨日より艶出てる気ぃする……」
雪弥は眉を寄せる。
「……毎日変わるの?」
「変わる」
「……ほんと?」
「髪は生きてるんや」
雪弥は少し考えた。
それから。
「……澪、時々こわい」
澪の手が止まる。
「今のは聞き捨てならんなぁ」
「……本当のこと」
「ほんま一言多い子やねぇ」
咲が小さく笑った。
ほんの少し。
でも、
澪はそれを見逃さなかった。
「咲さん、今笑った?」
咲はぼんやりしている。
「……?」
澪は胸を押さえた。
「あかん。
今の顔、めっちゃ可愛かった」
雪弥は静かに言う。
「……ご飯冷める」
「分かってるわ」
「……分かってない」
「今日はやけに喋るなぁ」
雪弥は少しむすっとして、
握り飯をかじった。
澪は咲の髪を丁寧に梳く。
指先が嬉しそうだった。
咲は目を細めている。
壊れたままでも。
その時間だけは、
少しだけ穏やかだった。
食事が終わる頃。
雪弥はふと思い出したように言った。
「……白炎って、なに」
澪の手が止まった。
部屋の空気が、
少しだけ変わる。
咲は気づかない。
火鉢の火をぼんやり見ている。
澪は櫛を置いた。
「誰に聞いたん?」
「澪が言った」
「……うちか」
「界骸は、
白炎じゃないと消えないって」
澪は困ったように笑った。
でも、
いつもの軽さはなかった。
「うちからは、
まだ言えへん」
雪弥は眉を寄せる。
「……なんで」
「決まりやから」
「……ずるい」
澪は少しだけ目を丸くした。
それから、
小さく笑う。
「大人はだいたいずるいんよ」
「……澪も?」
「うちも」
雪弥は黙った。
納得していない顔だった。
澪はその顔を見て、
少しだけ声を柔らかくする。
「ただな」
雪弥が見る。
「斬ることと、
終わらせることは違う」
「……同じじゃないの」
「違う」
澪は火鉢を見る。
赤い火が揺れている。
「界骸は斬れる。
燃やせる。
封じることもできる」
少しの沈黙。
「でも、
終わらせられるとは限らへん」
雪弥は何も言わなかった。
昼過ぎ。
澪は雪弥を外へ連れ出した。
咲は結界の中で眠っている。
髪は綺麗に結われたまま。
雪弥は何度も振り返った。
澪が言う。
「すぐ戻る」
「……ん」
「心配なんは分かるけどな」
「……別に」
「顔に出てる」
「……出てない」
「出てる」
雪弥は少し不満そうに前を向いた。
二人が向かったのは、
昨日の裏通りだった。
壬生に近い場所。
昼間なのに薄暗い。
壁には血の跡。
地面には黒い煤。
昨日見たものと同じだった。
いや。
違う。
雪弥は目を細める。
煤が、
少し増えていた。
黒い粉のようなものが、
地面に薄く広がっている。
その一部が、
小さく蠢いていた。
まるで。
息をしているみたいに。
雪弥が低く呟く。
「……終わってなかった」
澪はしゃがみ込む。
懐から札を出す。
「せや。
これが界骸の厄介なところや」
札を煤の上へ置く。
澪の指が印を結ぶ。
その瞬間。
札が白く光った。
黒い煤が、
地面へ縫い付けられるように動きを止める。
ぎち、と。
小さな音がした。
生き物みたいな音。
雪弥は黙って見ている。
澪の顔は、
いつもの澪ではなかった。
柔らかい京娘の顔ではない。
刻議衆の顔。
静かで、
迷いがない。
「……澪は強い」
雪弥が言った。
澪は少しだけ笑う。
「急に褒めるやん」
「……褒めてるか分からない」
「そこは褒めたことにしとき」
澪はもう一枚札を出す。
煤の周囲へ貼る。
黒いものは、
少しずつ動きを止めていった。
でも。
消えない。
そこに残っている。
雪弥は見続けた。
「……澪でも消せないんだ」
澪は頷く。
「うちは封じるだけ」
「……じゃあ、また戻る」
「封じが弱まればな」
雪弥は煤を見る。
小さく。
本当に小さく。
唇を噛んだ。
「……しつこい」
澪は思わず笑いそうになった。
でも、
笑わなかった。
雪弥の顔が、
本気だったから。
その時。
背後から声がした。
「覚えておきなさい」
澪の肩がわずかに動く。
雪弥が振り向く。
黒羽織。
篠宮朔夜が立っていた。
墨色の着物。
きっちり結われた黒髪。
白い肌。
切れ長の目。
今日も、
その目には温度がなかった。
朔夜は煤を見る。
それから雪弥へ視線を移す。
「斬ることと、
終わらせることは違います」
雪弥は黙る。
「昨日見た壬生の剣は、
人を止める剣です」
朔夜は淡々と言った。
「でも界骸は違う。
止めても戻る。
焼いても残る。
刻を喰って、
また形になる」
雪弥の目が細くなる。
「……だから白炎?」
朔夜は少しだけ目を伏せた。
「ええ」
「……白炎って、なに」
「あなたが知らないなら、
まだ知る時ではありません」
雪弥は少しむっとする。
「……みんなずるい」
澪が小さく笑いかける。
でも、
朔夜の視線が澪へ向いた瞬間、
その笑いは止まった。
朔夜は澪を見る。
煤を見る時より、
ずっと長く。
まるで。
何かを確かめるように。
澪は肩をすくめた。
「そんな見んといてください。
穴空きそうやわ」
朔夜は表情を変えない。
「穴で済むなら、
優しい方です」
澪の笑みが少し固まる。
「怖いこと言わはる」
朔夜は澪の髪を見る。
襟元。
首筋。
それから、
澪の指先を見る。
咲の髪を結った手。
飯を持ってくる手。
札を操る手。
朔夜は静かに言った。
「あなたは優しすぎる」
澪は笑う。
「それ、怒ってます?」
「惜しいと思っています」
「何が?」
朔夜の目が、
わずかに細くなる。
「壊れるなら、
今が一番綺麗でしょうね」
風が止まった。
澪は一瞬だけ、
言葉を失った。
雪弥も朔夜を見る。
意味は分からない。
でも。
嫌な感じがした。
澪はすぐに笑った。
いつもの顔へ戻すみたいに。
「篠宮さんは、
ほんま冗談が下手やねぇ」
朔夜は答えない。
冗談ではないからだ。
澪は煤へ視線を戻す。
「封じは済みました。
しばらくは戻らへんはずです」
朔夜は頷く。
「結構です」
それから雪弥を見る。
黒い瞳。
その奥。
ほんの一瞬だけ、
白い火が揺れたように見えた。
朔夜は何も言わない。
ただ、
静かに見ていた。
雪弥は不快そうに眉を寄せる。
「……なに」
「いえ」
朔夜は背を向けた。
「まだです」
それだけ言って、
黒羽織は路地の奥へ消えていった。
残された澪は、
小さく息を吐く。
雪弥は聞いた。
「……澪」
「ん?」
「さっきの、
冗談?」
澪は少し黙った。
それから、
いつものように笑う。
「半分くらいな」
「……半分は?」
澪は答えなかった。
代わりに、
雪弥の頭を軽く叩く。
「子供は知らんでええこともある」
雪弥はむっとする。
「……またそれ」
「またや」
「……ずるい」
「せや。大人やからな」
帰り道。
雪弥はいつもより静かだった。
澪も、
少しだけ口数が少なかった。
長屋へ戻ると、
咲は眠っていた。
結われた髪が、
少しだけほどけている。
雪弥はそばへ座る。
火鉢の火が揺れていた。
赤い火。
その奥に、
一瞬だけ白いものが混じった気がした。
雪弥はじっと見る。
でも、
すぐに消える。
咲が眠ったまま、
小さく呟いた。
「……雪弥」
雪弥は静かに答える。
「……いる」
咲は安心したように眠り続ける。
雪弥は火鉢を見る。
そして、
小さく言った。
「……終わらせる」
火鉢の火が、
静かに揺れていた。




