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第三十六話 迷いなき刃

朝。


澪は、いつも通り来た。


「おはようさん。朝ごはんやで」


障子が開く。


握り飯。


味噌汁。


焼いた干し魚。


それから、

昨日より少し多めの漬物。


澪は部屋に入るなり、

雪弥を見た。


「雪弥」


「……なに」


「あんた昨日、

 壬生の人らに喧嘩売りかけてたやろ」


雪弥は火鉢の前で、

握り飯を持ったまま止まった。


「……売ってない」


「売ってた」


「……見ただけ」


「京ではな、

 ああいう目ぇ合わせるのを、

 喧嘩売る言うんよ」


雪弥は少し黙る。


それから、

小さく呟いた。


「……見るくらいいいだろ」


「よくない」


「……京、面倒くさい」


澪はため息を吐いた。


「面倒くさい街に来たんやから、

 覚えとき」


雪弥はむすっとした顔で、

握り飯をかじった。


咲は布団の上で、

ぼんやり二人を見ていた。


今日は少しだけ落ち着いている。


結界と薬が効いているのか、

呼吸も静かだった。


澪は咲の顔を見ると、

すぐに表情を緩めた。


「咲さん、

 おはよう」


咲はゆっくり瞬きをする。


「……澪」


「はい、澪です」


澪は嬉しそうに咲のそばへ座る。


そして。


咲の髪を見た瞬間、

澪の目が変わった。


「……あかん」


雪弥が眉をひそめる。


「……今度はなに」


澪は咲の黒髪をそっと持ち上げた。


「これはあかん」


「……だから、なにが」


「綺麗すぎる」


澪の声が少し上ずる。


「黒くて、細くて、指通りもええし……

 こんなん放っといたら罰当たるわ」


咲はぼんやり首を傾げる。


「……かみ?」


「そう。髪」


澪は真剣だった。


「今日は結う。

 絶対かわいくする」


雪弥は味噌汁を見た。


「……ご飯は」


「後」


「冷める」


「咲さんの髪の方が先や」


雪弥は少しだけ目を細める。


「……味噌汁冷めるの、

 大事件じゃなかったの」


澪がぴたりと止まる。


それから、

悔しそうに雪弥を見る。


「口数少ないくせに、

 そういう時だけよう喋るなぁ」


「……澪が言った」


「覚えんでええことだけ覚えてる」


咲が小さく笑った。


ほんの少し。


それだけで、

部屋の空気が柔らかくなる。


澪は櫛を取り出し、

咲の髪を丁寧に梳き始めた。


指先が、

やたら嬉しそうだった。


「ほんま綺麗やわ……

 これは長屋の宝やね」


雪弥が言う。


「……咲は物じゃない」


「分かってるわ。

 でも髪は宝や」


「……澪、顔が変」


「黙って食べてなさい」


雪弥は少し不満そうにしながら、

握り飯を食べた。


咲は髪を梳かれながら、

気持ちよさそうに目を細めている。


少しだけ、

昔の咲に近かった。


澪は咲の髪を丁寧に結った。


柔らかくまとめられた黒髪。


白い紐。


澪は満足そうに頷く。


「完璧や」


咲は雪弥を見る。


「……雪弥」


雪弥は少し黙った。


それから。


「……似合ってる」


咲は小さく笑った。


澪はにやにやしている。


雪弥が見る。


「……なに」


「いやぁ、別に?」


「……変な顔してる」


「失礼な子やなぁ」


澪は頬を膨らませた。


雪弥は味噌汁を飲む。


澪がじっと見る。


「ちゃんと噛んでる?」


「……噛んでる」


「ほんま?」


「……五回くらい」


「自慢げに言う数やない」


「……じゃあ何回」


「せめて十回」


雪弥は少し考えた。


それから、

握り飯を口へ入れて、

真面目に噛み始める。


一回。


二回。


三回。


澪は笑いを堪えた。


「数えんでええ」


雪弥はむっとした。


「……十回って言った」


「そういう素直さは可愛いんやけどなぁ」


「……可愛くない」


「子供はみんなそう言う」


「……子供じゃない」


澪はにこっと笑った。


「ああ、はいはい」


雪弥は少しだけ不機嫌そうに、

また味噌汁を飲んだ。


昼を過ぎた頃。


澪の顔つきが変わった。


「雪弥」


「……なに」


「ちょっと付き合って」


雪弥は咲を見る。


咲は布団の上で、

火鉢をぼんやり眺めていた。


澪はすぐに言う。


「咲さんは結界の中におる。

 長くは離れへん」


雪弥は黙る。


澪は続けた。


「昨日の夜回りで見た痕。

 もう一回、確認しときたい」


「……界骸?」


「かもしれんし、

 ちゃうかもしれん」


雪弥は山刀を取る。


咲が袖を掴む。


「……雪弥」


雪弥は咲を見る。


「……すぐ戻る」


咲はしばらく雪弥を見ていた。


それから、

小さく頷いた。


外へ出ると、

京の空は曇っていた。


雪はない。


でも風は冷たい。


澪は前を歩く。


朝の世話焼きの顔ではない。


背筋が伸びている。


足音が軽い。


人混みの中でも、

ほとんど気配が揺れない。


雪弥はそれを見ていた。


「……澪」


「ん?」


「歩き方、変」


澪は少し笑う。


「女はいろんな顔持ってるんよ」


「……面倒くさい」


澪が振り返る。


「今のは聞き捨てならんなぁ」


雪弥は小さく言う。


「……澪が先に言った」


「言ってへん」


「……似たようなこと言った」


「ほんま、変なとこだけ子供みたいに言い返すなぁ」


「……子供じゃない」


「はいはい」


「……はいはい、嫌い」


澪は吹き出した。


「そこはちゃんと嫌なんや」


二人が向かったのは、

壬生に近い裏通りだった。


昼なのに薄暗い。


店は閉まっている。


壁には古い血の跡。


道の端には、

黒い煤のようなものが残っていた。


澪はしゃがみ込む。


指先で煤をすくう。


「これは界骸の痕や」


雪弥も見る。


黒い。


でも、

ただの灰じゃない。


少しだけ蠢いているように見えた。


「……戻るやつ」


澪は頷く。


「せや。

 白炎やないと、完全には消えへん」


雪弥は黙った。


白炎。


まだ自分には分からない。


でも、

その言葉を聞くたびに、

目の奥が少しだけ熱くなる。


その時。


路地の奥から怒鳴り声がした。


「離せ!」


男の声。


澪が立ち上がる。


雪弥も顔を上げた。


見ると、

数人の壬生浪士たちが、

一人の男を取り囲んでいた。


捕まっている男は、

刀を抜きかけている。


顔は青い。


目だけが血走っていた。


「俺は攘夷のために――!」


男が叫ぶ。


その前に、

若い隊士が一歩出た。


柔らかく笑っている。


細い目。


まだ若い。


声も穏やかだった。


「その話、

 刀抜く前にしてくれたらよかったんですけどねぇ」


男が斬りかかる。


雪弥は見た。


速い。


でも。


若い隊士は、

もっと速かった。


一歩。


ほんの一歩だけ身体をずらす。


次の瞬間。


刀が抜かれていた。


音が遅れて聞こえる。


男の刀が弾かれ、

膝が崩れた。


血が落ちる。


男は何が起きたのか、

分かっていない顔をしていた。


若い隊士は、

血を払って笑う。


「危なかったですねぇ」


全然、

危なくなかった。


雪弥は黙ってそれを見ていた。


界骸とは違う。


禍津とも違う。


でも。


人を斬ることに、

迷いがなかった。


それが、

ひどく気持ち悪かった。


澪が小さく言う。


「あれが、京の人間や」


雪弥は答えない。


若い隊士が、

ふとこちらを見た。


目が合う。


隊士は少し笑う。


「君、今の見えてました?」


雪弥は黙る。


澪が一歩前へ出ようとする。


でも雪弥は、

短く答えた。


「……見えた」


隊士の笑みが深くなる。


「へぇ」


数秒。


空気が止まる。


雪弥は目を逸らさない。


隊士は楽しそうだった。


「面白い子ですね」


それだけ言って、

隊士は仲間たちと去っていった。


名前は聞こえなかった。


でも。


周囲の町人たちは、

道を開けていた。


まるで、

人ではないものが通るみたいに。


澪は息を吐く。


「近づきすぎたらあかんよ」


雪弥はまだ、

隊士たちの背中を見ている。


「……人を斬るのに、

 迷ってなかった」


「京では、

 それが強さになる時がある」


雪弥は少し黙った。


それから。


「……嫌な強さだ」


澪は何も言わなかった。


帰り道。


澪はいつもの調子に戻っていた。


「ほんま、

 あんたは怖いもん知らずやね」


雪弥は少しだけ考える。


「……怖いよ」


澪が横を見る。


雪弥は前を向いたまま続けた。


「でも、

 見ない方がもっと怖い」


澪は少しだけ黙った。


それから、

わざと明るく言った。


「そういうこと言うから、

 可愛げないんよ」


雪弥は澪を見る。


「……澪も危ない」


「うちは優しいお姉さんや」


「……自分で言うの、変」


「変ちゃう」


「……変だよ」


澪はむっとした。


「ほんま一言多い子やなぁ」


「……澪は十言くらい多い」


澪は足を止めた。


「雪弥」


「……なに」


「それ、

 誰に覚えたん?」


雪弥は少し黙る。


「……咲」


澪は一瞬きょとんとした。


それから笑った。


「なら許す」


長屋へ戻ると、

咲は眠っていた。


髪は朝のまま、

綺麗に結ばれている。


雪弥はそのそばに座る。


咲の髪が少し乱れていた。


雪弥は指先で直そうとして、

途中で止まる。


うまくできない。


澪が後ろから言う。


「明日また直したげる」


雪弥は少しだけ黙る。


「……ん」


澪は嬉しそうに笑った。


火鉢の火が、

静かに揺れていた。

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