第三十五話 夜回り
朝。
澪はまた来た。
「おはようさん。朝ごはんやで」
障子が開く。
雪弥は火鉢の前に座っていた。
咲は布団の中で、
雪弥の羽織を握ったまま眠っている。
澪は包みを置く。
握り飯。
味噌汁。
焼いた干し魚。
雪弥は澪を見る。
「……昨日の説明は」
澪はにこっと笑う。
「食べてからにしよか」
「……逃げた」
「味噌汁冷める方が大事件や」
雪弥は黙った。
澪は勝ったような顔で、
咲のそばへ座る。
咲はゆっくり目を開けた。
「……澪」
「おはよう、咲さん」
澪の声が一気に柔らかくなる。
そして。
咲の髪を見た瞬間、
澪の目が変わった。
「……あかん」
雪弥が眉をひそめる。
「……なに」
澪は咲の黒髪をそっと持ち上げた。
「これはあかん」
「……なにが」
「綺麗すぎる」
澪の声が少し上ずる。
「黒くて、細くて、指通りもええし……
こんなん放っといたら罰当たるわ」
咲はぼんやり首を傾げる。
「……かみ?」
「そう。髪」
澪は真剣だった。
「今日は結う。
絶対かわいくする」
雪弥は味噌汁を見た。
「……ご飯は」
「後」
「冷める」
「咲さんの髪の方が先や」
「……味噌汁は大事件じゃないの」
澪がぴたりと止まる。
それから、
悔しそうに雪弥を見る。
「口数少ないくせに、
変なとこだけ刺してくるなぁ」
咲が小さく笑った。
ほんの少し。
それだけで、
部屋の空気が柔らかくなる。
澪は櫛を取り出し、
咲の髪を丁寧に梳き始めた。
指先が、
やたら嬉しそうだった。
「ほんま綺麗やわ……
これは長屋の宝やね」
雪弥が言う。
「……咲は物じゃない」
「分かってるわ。
でも髪は宝や」
「……澪、顔が変」
「黙って食べてなさい」
雪弥は黙って握り飯を食べた。
咲は髪を梳かれながら、
気持ちよさそうに目を細めている。
少しだけ、
昔の咲に近かった。
昼過ぎ。
澪は咲の髪を綺麗に結び終えた。
柔らかくまとめられた黒髪。
白い髪紐。
壊れた表情のままでも、
咲はどこか儚く見えた。
澪は満足そうに頷く。
「完璧や」
咲は雪弥を見る。
「……雪弥」
雪弥は少し黙る。
それから。
「……似合ってる」
咲は小さく笑った。
澪はにやにやしている。
雪弥が見る。
「……なに」
「いやぁ、別に?」
「……変な顔」
「失礼な子やなぁ」
その夜。
澪はいつもより遅く来た。
薄藍の着物ではなく、
暗い色の着物。
白い襷もない。
腰には小さな札入れ。
いつもの世話焼きの顔ではなかった。
「雪弥」
雪弥は咲のそばに座っていた。
「……なに」
「少しだけ付き合って」
雪弥の目が細くなる。
「咲は」
澪は部屋の四隅を見る。
そこには、
小さな札が貼られていた。
「結界、張ってある。
長くは離れへん。
長屋の周りを見るだけや」
雪弥は咲を見る。
咲は眠っている。
結われた髪が、
火鉢の光を受けて静かに揺れていた。
「……すぐ戻る」
澪は頷く。
「うん」
夜の京は、
昼より静かだった。
でも。
静かな分だけ、
血の匂いが濃かった。
閉じた店。
伏せられた提灯。
遠くの怒声。
どこかで走る足音。
澪は歩きながら、
声を低くした。
「京ではな、
人斬りと界骸の区別がつかへん時がある」
雪弥は黙っている。
「人が斬ったのか。
界骸が喰うたのか。
それとも、禍津が遊んだのか」
澪は足を止める。
路地の壁に、
黒い煤のようなものが残っていた。
血ではない。
でも、
生き物の匂いがした。
雪弥はそれを見る。
「……戻るやつ」
澪が少し驚いた顔をする。
「分かるん?」
雪弥は頷かない。
ただ、
煤を見ていた。
「……死んでない匂いがする」
澪は少しだけ目を細める。
「ほんま、
嫌な鼻してはるなぁ」
「……褒めてる?」
「半分な」
その時。
通りの向こうから、
数人の浪士が歩いてきた。
浅葱色ではない。
まだ揃いの羽織ではない。
けれど。
町人たちは道を空ける。
壬生浪士組。
後に新撰組と呼ばれる者たち。
隊士の一人が、
澪を見る。
「黒羽織か」
澪は軽く笑った。
「夜回りご苦労さん」
「そっちこそ。
変なもの連れてるな」
男の視線が雪弥へ向く。
雪弥は目を逸らさない。
男は少し笑った。
「その目。
京じゃ目立つぞ」
雪弥は短く答える。
「……そっちも」
一瞬、
空気が止まる。
澪が額を押さえた。
「もう。
あんたは黙ってた方がええ時もあるんよ」
隊士は声を出して笑った。
「面白いガキだな」
男たちはそのまま通り過ぎていく。
澪は小さく息を吐いた。
「怖いもん知らずやねぇ」
「……怖い」
澪が雪弥を見る。
雪弥は通りの奥を見ていた。
「でも、見ない方が怖い」
澪は少しだけ黙った。
それから、
いつものように笑う。
「ほんま、可愛げない子やわ」
長屋へ戻ると、
咲は眠っていた。
乱れた髪もなく。
静かな寝息。
雪弥はそのそばへ座る。
澪は障子の前で立ち止まった。
「京ではな、
知らん方が楽なことの方が多いんよ」
雪弥は咲を見る。
「……でも、
知らないと守れない」
澪は何も言わなかった。
火鉢の火が、
小さく揺れていた。




