表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/41

第三十四話 澪

澪は、何事もなかったみたいに来た。


朝。


長屋の障子が開く。


「おはようさん。起きてはる?」


雪弥は火鉢の前に座っていた。


咲は布団の中で眠っている。


澪は包みを置く。


握り飯。


漬物。


湯気の立つ味噌汁。


昨日、井戸端で界骸を札で縫い止めた女と、

同じ人物には見えなかった。


雪弥は澪を見る。


「……昨日の」


澪はにこっと笑った。


「昨日の?」


「札」


「ああ」


澪は何でもないことみたいに言った。


「お守りみたいなもんや」


雪弥は少しだけ眉を寄せる。


「……嘘だ」


澪は目を丸くした。


それから、

困ったように笑う。


「あんた、ほんま可愛げないなぁ」


雪弥は答えない。


澪は咲のそばへ座る。


「咲さん、髪ほどけてるなぁ」


眠っている咲の髪を、

指でそっと整える。


その手つきは優しかった。


けれど。


雪弥は見逃さなかった。


澪の指先が、

咲の左肩の傷口を確かめるように、

ほんの少しだけ止まったことを。


咲の欠けた左肩。


失われた右足。


包帯の奥には、

黒い筋が残っている。


界骸に喰われた痕。


澪は表情を変えず、

咲の髪を結び直した。


雪弥が聞く。


「……進んでるの」


澪の手が止まる。


「誰に聞いたん?」


「見れば分かる」


澪は少しだけ黙った。


それから、

小さく息を吐く。


「少しだけや」


「……治せる?」


「うちには無理」


雪弥の目が細くなる。


澪は咲の髪紐を結びながら続けた。


「でも、遅らせることはできる」


雪弥は澪を見る。


「……澪は、何なの」


澪は振り向かない。


「隣の澪や」


「それだけじゃない」


澪は笑った。


でも、

その笑みは少し弱かった。


「……ほんま、よう見てはるなぁ」


その時だった。


廊下の向こうが静かになった。


長屋の女たちの話し声。


井戸の音。


子供の泣き声。


それらが、

すっと遠のいたみたいに消える。


雪弥は顔を上げる。


澪も同時に立ち上がった。


障子の向こう。


黒い影が立つ。


「澪」


女の声だった。


澪の顔から、

笑みが消える。


「……篠宮さん」


障子が開く。


黒羽織の女が立っていた。


黒髪をきっちり結い、

墨色の着物の上から、

黒い羽織を重ねている。


袖口には細い銀糸の紋。


腰には細身の短刀。


白い肌。


切れ長の目。


美しい女だった。


けれど、

その目には温度がなかった。


女は部屋へ入る。


澪は頭を下げない。


ただ、

少しだけ背筋を伸ばした。


雪弥はそれを見ていた。


澪は、

この女の下ではない。


少なくとも、

ただの使い走りではない。


黒羽織の女は咲を見る。


眠る咲。


欠けた身体。


黒く侵食された傷。


女は淡々と言った。


「進行していますね」


雪弥の手が山刀へ伸びる。


「……誰」


女は雪弥を見る。


その目が、

雪弥の瞳を真っ直ぐ捉えた。


「篠宮朔夜」


静かな声だった。


「刻議衆の者です」


雪弥は黙る。


朔夜は咲のそばへ膝をついた。


咲の傷に触れようとする。


その前に、

雪弥が手を掴んだ。


「……咲に、

 変なことするな」


部屋の空気が冷える。


澪が息を呑む。


朔夜は表情を変えない。


「触れなければ、診られません」


雪弥は朔夜を睨む。


「……まだ、信じてない」


「賢明です」


朔夜は淡々と答えた。


「ですが、このままでは咲さんの侵食は進みます」


雪弥の指に力が入る。


朔夜は続けた。


「界骸に喰われた者の多くは死ぬ。生き残ったとしても、人ではなくなる。彼女はまだ、咲という形を保っている」


朔夜の視線が雪弥へ移る。


「あなたの近くにいるからでしょう」


雪弥は黙った。


咲が小さく身じろぎする。


「……雪弥」


眠ったまま、

咲が呟いた。


雪弥は朔夜の手を離す。


「……だったら、

 早く見て」


朔夜は咲の傷を見る。


指先で包帯の端を少しだけめくる。


黒い筋が、

皮膚の下で細く蠢いていた。


朔夜は眉一つ動かさない。


「澪」


「はい」


澪の声が変わっていた。


いつもの柔らかい京言葉ではない。


短く、硬い。


朔夜は言う。


「今夜から結界を二重に。薬も変えます」


「分かりました」


雪弥は澪を見る。


澪は視線を逸らさなかった。


朔夜は立ち上がる。


そして、

雪弥の目を見た。


黒い瞳。


その奥。


一瞬だけ、

白い火が揺れたように見えた。


朔夜の目が、

わずかに細くなる。


「……まだ灯ってはいない」


雪弥が聞く。


「……何のこと」


朔夜は答えない。


代わりに、

淡々と言った。


「あなたには、いずれ働いてもらいます」


「……なにをすればいい」


「界骸を斬ることです」


雪弥は少しだけ眉を寄せる。


「斬っても戻る」


「ええ」


朔夜は頷く。


「だから、あなたが必要になる」


雪弥は何も言わない。


朔夜はそれ以上説明しなかった。


黒羽織を翻し、

障子へ向かう。


出ていく前に、

澪へ視線だけ向けた。


「勝手な情は、判断を鈍らせます」


澪は笑わなかった。


「分かってます」


「なら結構」


朔夜は去った。


長屋の音が戻ってくる。


井戸の音。


話し声。


遠くの怒鳴り声。


何もなかったみたいに。


でも部屋の空気だけは、

まだ冷たかった。


雪弥は澪を見る。


「……澪も、

 あいつら側なの」


澪は少し黙る。


それから、

いつもの顔に戻ろうとするみたいに笑った。


「側、いうほど簡単やないけどな」


「……最初から、知ってたの」


澪は咲を見る。


眠っている咲の髪を、

そっと直した。


「全部は知らへん」


「……でも、見てた」


澪は否定しなかった。


火鉢の火が、

小さく揺れる。


雪弥は黙っている。


澪は静かに言った。


「ただ見張ってるだけやったら、

 毎朝ご飯なんか持って来ぉへんよ」


少しだけ、

声が柔らかく戻っていた。


雪弥は答えなかった。


咲の寝息だけが、

静かに部屋へ残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ