第三十四話 澪
澪は、何事もなかったみたいに来た。
朝。
長屋の障子が開く。
「おはようさん。起きてはる?」
雪弥は火鉢の前に座っていた。
咲は布団の中で眠っている。
澪は包みを置く。
握り飯。
漬物。
湯気の立つ味噌汁。
昨日、井戸端で界骸を札で縫い止めた女と、
同じ人物には見えなかった。
雪弥は澪を見る。
「……昨日の」
澪はにこっと笑った。
「昨日の?」
「札」
「ああ」
澪は何でもないことみたいに言った。
「お守りみたいなもんや」
雪弥は少しだけ眉を寄せる。
「……嘘だ」
澪は目を丸くした。
それから、
困ったように笑う。
「あんた、ほんま可愛げないなぁ」
雪弥は答えない。
澪は咲のそばへ座る。
「咲さん、髪ほどけてるなぁ」
眠っている咲の髪を、
指でそっと整える。
その手つきは優しかった。
けれど。
雪弥は見逃さなかった。
澪の指先が、
咲の左肩の傷口を確かめるように、
ほんの少しだけ止まったことを。
咲の欠けた左肩。
失われた右足。
包帯の奥には、
黒い筋が残っている。
界骸に喰われた痕。
澪は表情を変えず、
咲の髪を結び直した。
雪弥が聞く。
「……進んでるの」
澪の手が止まる。
「誰に聞いたん?」
「見れば分かる」
澪は少しだけ黙った。
それから、
小さく息を吐く。
「少しだけや」
「……治せる?」
「うちには無理」
雪弥の目が細くなる。
澪は咲の髪紐を結びながら続けた。
「でも、遅らせることはできる」
雪弥は澪を見る。
「……澪は、何なの」
澪は振り向かない。
「隣の澪や」
「それだけじゃない」
澪は笑った。
でも、
その笑みは少し弱かった。
「……ほんま、よう見てはるなぁ」
その時だった。
廊下の向こうが静かになった。
長屋の女たちの話し声。
井戸の音。
子供の泣き声。
それらが、
すっと遠のいたみたいに消える。
雪弥は顔を上げる。
澪も同時に立ち上がった。
障子の向こう。
黒い影が立つ。
「澪」
女の声だった。
澪の顔から、
笑みが消える。
「……篠宮さん」
障子が開く。
黒羽織の女が立っていた。
黒髪をきっちり結い、
墨色の着物の上から、
黒い羽織を重ねている。
袖口には細い銀糸の紋。
腰には細身の短刀。
白い肌。
切れ長の目。
美しい女だった。
けれど、
その目には温度がなかった。
女は部屋へ入る。
澪は頭を下げない。
ただ、
少しだけ背筋を伸ばした。
雪弥はそれを見ていた。
澪は、
この女の下ではない。
少なくとも、
ただの使い走りではない。
黒羽織の女は咲を見る。
眠る咲。
欠けた身体。
黒く侵食された傷。
女は淡々と言った。
「進行していますね」
雪弥の手が山刀へ伸びる。
「……誰」
女は雪弥を見る。
その目が、
雪弥の瞳を真っ直ぐ捉えた。
「篠宮朔夜」
静かな声だった。
「刻議衆の者です」
雪弥は黙る。
朔夜は咲のそばへ膝をついた。
咲の傷に触れようとする。
その前に、
雪弥が手を掴んだ。
「……咲に、
変なことするな」
部屋の空気が冷える。
澪が息を呑む。
朔夜は表情を変えない。
「触れなければ、診られません」
雪弥は朔夜を睨む。
「……まだ、信じてない」
「賢明です」
朔夜は淡々と答えた。
「ですが、このままでは咲さんの侵食は進みます」
雪弥の指に力が入る。
朔夜は続けた。
「界骸に喰われた者の多くは死ぬ。生き残ったとしても、人ではなくなる。彼女はまだ、咲という形を保っている」
朔夜の視線が雪弥へ移る。
「あなたの近くにいるからでしょう」
雪弥は黙った。
咲が小さく身じろぎする。
「……雪弥」
眠ったまま、
咲が呟いた。
雪弥は朔夜の手を離す。
「……だったら、
早く見て」
朔夜は咲の傷を見る。
指先で包帯の端を少しだけめくる。
黒い筋が、
皮膚の下で細く蠢いていた。
朔夜は眉一つ動かさない。
「澪」
「はい」
澪の声が変わっていた。
いつもの柔らかい京言葉ではない。
短く、硬い。
朔夜は言う。
「今夜から結界を二重に。薬も変えます」
「分かりました」
雪弥は澪を見る。
澪は視線を逸らさなかった。
朔夜は立ち上がる。
そして、
雪弥の目を見た。
黒い瞳。
その奥。
一瞬だけ、
白い火が揺れたように見えた。
朔夜の目が、
わずかに細くなる。
「……まだ灯ってはいない」
雪弥が聞く。
「……何のこと」
朔夜は答えない。
代わりに、
淡々と言った。
「あなたには、いずれ働いてもらいます」
「……なにをすればいい」
「界骸を斬ることです」
雪弥は少しだけ眉を寄せる。
「斬っても戻る」
「ええ」
朔夜は頷く。
「だから、あなたが必要になる」
雪弥は何も言わない。
朔夜はそれ以上説明しなかった。
黒羽織を翻し、
障子へ向かう。
出ていく前に、
澪へ視線だけ向けた。
「勝手な情は、判断を鈍らせます」
澪は笑わなかった。
「分かってます」
「なら結構」
朔夜は去った。
長屋の音が戻ってくる。
井戸の音。
話し声。
遠くの怒鳴り声。
何もなかったみたいに。
でも部屋の空気だけは、
まだ冷たかった。
雪弥は澪を見る。
「……澪も、
あいつら側なの」
澪は少し黙る。
それから、
いつもの顔に戻ろうとするみたいに笑った。
「側、いうほど簡単やないけどな」
「……最初から、知ってたの」
澪は咲を見る。
眠っている咲の髪を、
そっと直した。
「全部は知らへん」
「……でも、見てた」
澪は否定しなかった。
火鉢の火が、
小さく揺れる。
雪弥は黙っている。
澪は静かに言った。
「ただ見張ってるだけやったら、
毎朝ご飯なんか持って来ぉへんよ」
少しだけ、
声が柔らかく戻っていた。
雪弥は答えなかった。
咲の寝息だけが、
静かに部屋へ残っていた。




