第三十二話 隣の娘
朝の長屋は、
白河よりずっと騒がしかった。
井戸の音。
洗濯物を叩く音。
女たちの笑い声。
遠くでは、
また誰かが怒鳴っている。
雪弥は桶を持って、
井戸から戻ってきた。
長屋の廊下を歩いていると。
「ちょっと」
女の声。
雪弥が振り向く。
一人の娘が立っていた。
黒髪を後ろでゆるく束ね、
薄藍の着物に白い襷。
年は十六、七くらい。
柔らかい目をしている。
でも、
どこか気の強そうな雰囲気もあった。
娘は雪弥の桶を見る。
「それだけ?」
「……?」
「水。
足りひんやろ」
「……足りる」
「足りひん」
即答だった。
雪弥は少しだけ黙る。
娘は気にせず、
井戸へ桶を入れた。
「昨日越してきた子やろ?」
「……ん」
「うち、
澪いうの。
隣や」
水を汲みながら、
澪はちらっと雪弥を見る。
「ほんま、
子供だけやったんやね」
雪弥は何も答えない。
部屋へ戻ると、
咲は布団へ座ったまま、
ぼんやり障子を見ていた。
雪弥を見ると、
少しだけ表情が緩む。
「……雪弥」
「……いる」
その後ろから、
澪がひょこっと顔を出した。
「お邪魔しますえ」
雪弥が振り向く。
澪は平然としていた。
「隣なんやし、
ええやろ?」
そう言いながら、
勝手に部屋へ入ってくる。
咲は澪を見る。
少しだけ首を傾げた。
澪は咲の前へしゃがむ。
「この子、
咲さん?」
咲はぼんやり頷く。
澪はその黒髪を見る。
「綺麗やねぇ」
咲は何も言わない。
でも。
澪には怯えなかった。
澪は部屋を見回す。
火鉢。
少ない荷物。
干しきれていない布団。
それから、
雪弥を見る。
「あんた、
ちゃんと食べてはる?」
「……食べてる」
「嘘や」
また即答だった。
澪は持ってきた包みを開く。
握り飯。
漬物。
少しの煮物。
「食べ」
雪弥は動かない。
澪はため息を吐いた。
「遠慮せんでええ」
咲へ握り飯を差し出す。
「咲さんも」
咲はそれを見る。
それから、
雪弥を見る。
雪弥が小さく頷くと、
咲は片手で受け取った。
少し崩れる。
澪は自然に、
その手を支えた。
「ゆっくりでええよ」
咲はぼんやり澪を見る。
澪は柔らかく笑った。
「髪、
結んだげよか?」
咲は少しだけ笑う。
「……うん」
澪は器用に、
咲の髪を梳き始めた。
黒髪が静かに揺れる。
咲は嫌がらない。
むしろ、
少し落ち着いているようだった。
雪弥は壁際で、
その様子を見ている。
澪が背中越しに言った。
「そんな警戒せんでも、
取って食べたりせぇへんよ」
「……警戒してない」
「してる」
咲が小さく笑った。
それだけで、
部屋の空気が少し柔らかくなる。
昼過ぎ。
澪は布団を干し、
火鉢へ炭を足し、
咲の着物を整えていた。
雪弥は何度か、
「自分でやる」と言いかけた。
でも。
澪の方が手際がいい。
結局、
何も言えなかった。
澪は火鉢へ炭を入れながら、
ぽつりと呟く。
「最近、
人がよう消えるんよ」
雪弥が見る。
澪は火を見たまま続けた。
「夜になったら帰ってこん」
「人斬りとか、
攘夷とか、
皆好き勝手言うけど」
少しの沈黙。
「兄ぃも、
まだ帰ってへん」
部屋が静かになる。
でも。
澪はすぐ笑った。
「まぁ、
そのうち帰ってくるやろ」
明るい声だった。
だけど。
その笑顔は、
少しだけ無理をしていた。
雪弥は黙って火鉢を見る。
赤い火が、
静かに揺れていた。




