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第二十九話 黒羽織

京の朝は早かった。


まだ薄暗いのに、

外ではもう人の声がしている。


荷車。


怒鳴り声。


下駄の音。


眠らない都だった。


雪弥は静かに目を開ける。


隣では、

咲が眠っている。


雪弥の羽織を掴んだまま。


離れないように。


雪弥はそっと、

その手を外した。


すると。


咲の眉が少し動く。


「……ゆき」


眠ったまま呟く声。


雪弥は小さく息を吐いた。


「……いる」


それだけで、

咲はまた静かになる。


火鉢の火が揺れていた。


雪弥はぼんやりそれを見る。


赤い炎。


でも。


どこか落ち着かなかった。


昼。


宿の親父は露骨に機嫌が悪かった。


「今日までだぞ」


雪弥は黙って頷く。


金はもうほとんど残っていない。


外へ出ようとした時。


咲が小さく声を漏らす。


「あ……」


雪弥が振り向く。


咲の右脚。


包帯の奥。


黒い筋みたいなものが、

少し広がっていた。


呪いだった。


咲はぼんやりそれを見ている。


痛みは感じているはずなのに、

もう上手く理解できていない。


宿の老婆が顔をしかめた。


「……その傷、

 普通じゃないねぇ」


雪弥は低く聞く。


「……どうしたら治る」


老婆は少し迷った。


それから。


小さい声で言う。


「黒羽織なら、

 何か知ってるかもしれないよ」


親父が嫌そうに舌打ちした。


「やめとけ」


「気味悪ぃ連中だ」


「幕府の犬か、

 陰陽師か知らねぇが」


雪弥は黙る。


咲が雪弥の服を握った。


「……ゆき」


不安そうだった。


雪弥はその手を軽く握り返す。


夕方。


雪弥は壬生を歩いていた。


黒羽織について、

何人かへ聞いてみた。


でも。


「知らねぇ」


「見たことある気はする」


「関わるな」


返ってくるのは、

そんな言葉ばかりだった。


まるで噂だった。


人なのかどうかも、

よく分からない。


日が沈み始める。


咲は雪弥の背中で、

静かに呼吸していた。


でも。


時々小さく震える。


呪いが進んでいる。


雪弥は足を止めた。


その時。


「白河の刻守ですね」


後ろから声がした。


雪弥の空気が変わる。


振り向く。


黒い羽織。


三十代くらいの男。


細い目。


静かな顔。


そこに立っていた。


まるで最初から、

見ていたみたいに。


雪弥は黙って山刀へ手を掛ける。


男は気にした様子もない。


視線だけが、

咲の脚へ落ちる。


「……呪いですね」


咲が雪弥へしがみつく。


男はそれを静かに見ていた。


「進行が早い」


雪弥は低く聞く。


「……治せるの」


男は少し沈黙した。


それから。


「完全には」


静かな声だった。


風が吹く。


京の灯が揺れる。


男は続けた。


「ですが、

 遅らせる方法ならあります」


雪弥は黙る。


男もそれ以上は近づかない。


ただ。


静かに雪弥を見ていた。


その時。


男の視線が、

雪弥の目へ止まる。


黒い瞳。


でも。


その奥で一瞬だけ、

白い火が揺れた気がした。


本当に一瞬だった。


男の目が、

少しだけ細くなる。


でも。


何も言わない。


京の空は、

静かに赤く染まっていた。

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