第十七話 遠雷
文久二年。
生麦事件
の噂は、
白河にも届いていた。
「薩摩の侍が異国人を斬ったらしい」
「幕府ももう終わりだ」
「戦になるぞ」
町の空気は荒れていた。
浪人は増え。
侍たちは苛立ち。
夜になると、
戸を閉める音が早くなる。
白河へ流れてくる人間も増えた。
怪我人。
脱藩浪士。
仕事を失った武士。
そして。
人ではないものも。
朝倉家。
雪弥は縁側で山刀を研いでいた。
しゃり、しゃり――。
一定の音。
感情の薄い横顔。
十三になった雪弥は、
もう子供には見えなかった。
細身なのに、
妙に鋭い。
山で育った獣みたいな空気がある。
咲は洗濯物を畳みながら、
ちらちら雪弥を見る。
「雪弥」
「……なに」
「最近、
また背伸びた?」
雪弥は少し考える。
「……分からない」
「分かるでしょ普通」
雪弥は答えない。
山刀を研ぐ手を止めない。
咲は少し笑う。
昔からそうだった。
雪弥は、
自分のことに興味が薄い。
でも。
周りの変化には敏感だった。
特に。
匂い。
雪弥がふと顔を上げる。
「……酒臭い」
庭先を通った浪人だった。
昼間から酒を飲んでいる。
咲が苦笑する。
「ほんと鼻いいよね」
雪弥は黙る。
風の匂いを嗅いでいた。
雪。
土。
血。
最近は、
その匂いが増えている。
山もおかしかった。
獣が減った。
鳥が鳴かない。
夜になると、
何かが歩く音がする。
でも足音が変だ。
人間みたいで、
人間じゃない。
その夜。
咲は囲炉裏の前で、
針仕事をしていた。
雪弥はその隣で、
静かに本を読んでいる。
外は雪。
静かな夜だった。
咲がぽつりと言う。
「父ちゃんいたら、
今頃なんて言ってたかな」
雪弥は少し考える。
囲炉裏の火を見る。
それから。
「……『嫌な時代になる』」
咲が小さく笑った。
「うわ。
言いそう」
雪弥は黙る。
囲炉裏の火が、
静かに揺れていた。
咲はその横顔を見つめる。
昔は、
もっと小さかった。
泣き虫で。
自分の袖を掴んでばかりだった。
でも今は違う。
肩も広くなった。
声も低い。
時々。
雪弥が自分を見る目に、
妙に落ち着かなくなることがある。
その時。
外で風が鳴った。
ごう――。
低い音。
雪弥の視線が止まる。
咲も顔を上げた。
風じゃない。
獣でもない。
何かいる。
雪弥はゆっくり立ち上がる。
山刀を掴む。
咲が不安そうに見る。
「雪弥……?」
雪弥は障子の向こうを見たまま、
小さく呟いた。
「……近い」
次の瞬間。
外から。
人間の悲鳴が響いた。




