第十三話 黒い海
嘉永六年。
黒船来航
白河にも、
その噂は届いた。
「黒い船が江戸へ来たらしい」
「煙を吐いて海を走るんだと」
「異国の化け物だ」
町人たちは不安そうに話している。
武士たちも落ち着かない。
店先。
茶屋。
宿場。
どこへ行っても、
その話ばかりだった。
朝倉源蔵は酒を飲みながら、
嫌そうに顔をしかめる。
「海の向こうから厄介事かよ」
咲は笑った。
「見てみたいけどねぇ」
「お前は怖いもん知らねぇな」
「父ちゃんが怖がりなだけじゃん」
「誰がだ」
そんなやり取りを、
雪弥は静かに聞いていた。
六つになった雪弥は、
昔よりずっと喋らなくなっていた。
囲炉裏の火を見ながら、
ぼんやり考えていることが増えた。
咲が頬をつつく。
「雪弥は?
黒船見たい?」
雪弥は少し考える。
それから。
「……黒いなら、
臭そう」
咲が吹き出した。
「なにそれ」
源蔵も鼻で笑う。
でも。
その夜だった。
山が静かだった。
静かすぎた。
虫も。
鳥も。
獣も。
何の音もしない。
源蔵は囲炉裏の前で、
ゆっくり顔を上げる。
「……変だな」
壁へ立て掛けた猟銃を取る。
咲も空気の違いを感じていた。
「また?」
源蔵は答えない。
戸を開ける。
冷たい夜風。
雪の匂い。
そして。
その奥。
嫌な臭いが混じっていた。
鉄みたいな。
腐った肉みたいな。
雪弥が小さく顔を上げる。
その匂いだけは、
すぐ分かった。
胸の奥がざわつく。
怖い。
でも。
どこか知っている。
遠くの山で、
獣の絶叫が響いた。
ぎゃあああああっ――。
咲の肩が震える。
源蔵は猟銃を掴み、
夜の山へ消えていった。
雪弥は障子の隙間から、
山を見る。
暗い。
白い。
その奥。
黒い何かが動いていた。
人みたいな形。
でも。
人じゃない。
雪弥は小さく呟く。
「……また来た」
その頃からだった。
白河で、
人が消えることが増えたのは。
――安政五年。
安政の大獄
世の中が荒れ始める。
幕府。
攘夷。
異国。
難しい話を、
大人たちは毎日していた。
雪弥は八つになっていた。
源蔵に連れられ、
山へ入ることも増える。
獣道。
風の流れ。
血の匂い。
雪弥は覚えるのが早かった。
「お前、
鼻が良すぎるな」
源蔵が少し気味悪そうに言う。
雪弥は無表情のまま、
山奥を見る。
「……いる」
その先には、
腹を裂かれた鹿が転がっていた。
普通の獣じゃない。
源蔵も分かっていた。
でも。
もう口には出さなかった。
咲は相変わらず、
よく笑っていた。
でも。
雪の日だけは、
時々夜中に起きる。
あの日の夢を見るから。
それでも朝になると、
必ず笑った。
雪弥の前では。
――万延元年。
桜田門外の変
雪の日。
大老・井伊直弼が暗殺された。
その噂は、
数日遅れて白河へ届く。
「江戸で大物が斬られたらしい」
「もう滅茶苦茶だ」
その夜。
白河では吹雪になった。
山が鳴る。
風が唸る。
そして。
界骸が増えた。
十になった雪弥は、
吹雪の山をじっと見ていた。
黒い影。
ひとつじゃない。
増えている。
雪弥は小さく呟く。
「……また増えた」
咲が不安そうに見る。
「雪弥?」
雪弥は答えない。
ただ。
山を見続けていた。
――文久二年。
生麦事件
世の中はさらに荒れていく。
浪人が増えた。
人斬りの噂も増えた。
十二になった雪弥は、
もう子供じゃなかった。
山刀を振るう姿は、
源蔵より鋭い時すらある。
でも。
感情だけは薄かった。
咲が笑いながら言う。
「雪弥って、
ほんと愛想ないよねぇ」
雪弥は薪を割りながら、
淡々と返す。
「……咲が喋りすぎ」
「ひどっ」
咲が笑う。
雪弥は何も言わない。
でも。
少しだけ口元が緩んでいた。
その冬。
京で、
ある集団の噂が広がり始める。
壬生浪士組。
後の――
新選組結成
白河にも、
その名が届こうとしていた。
そして。
山の奥。
黒い影が、
雪弥を見て笑った。
「始まるぞ、刻守」




