三 次期当主として
「はぁ……」
学院に通う若々しい身とは思えない程の深いため息が部屋にこだまする。
ため息の主は、窓の外に広がる夕空をぼんやりと眺めながら、早くも来年度の学院生活に思いを馳せている。
だが、そのひと時を無情にも打ち破るノックの音が扉の方から響き渡る。
「エリカ様。お休みのところ申し訳ありませんが、速やかに決裁を頂きたい案件がございます」
一気に現実に引き戻されたエリカは、うんざりとした表情を隠そうともせずに扉を開ける。
そこには、代官にして叔母でもあるクレア・エヴァンスが満面の笑みでエリカを待ち構えていた。
「さあ、どうぞこちらへ」
「クレア叔母様の裁量で進めて頂いても良いのですよ?」
「いえいえ、滅相もない!私はあくまで代官ですから」
確かに領主たる貴族がその場にいるのに、代官が動いていては波風が立つ。それは貴族社会の常識ではあるものの、まだ学生でスタンフォード家当主の座にも就いていない身からすると、例外になるのではないかと思いたくなるのも無理はない。
しかしエリカが次期当主であるのは厳然たる事実なので、アルフレッドの代わりにスタンフォード領へと赴いている以上、彼女がしっかりと動く必要があった。
ちなみに、そのこともあって、身内とはいえクレアにもくだけた口調で話すことはアルフレッドからきつく禁止されている。だが、そのことにショックを受けたのはクレアの方だったというのはまた別の話である。
エリカは心の中で滂沱の涙を流しながら、クレアと共に執務室へと向かう。
執務室は質素な内装で、その点はエリカも気に入っているのだが、今はそれが無機質なものに見えて仕方ない。
そこに彩りを添えているのは、机の上に丁寧に並べられた書類の束で、エリカはそれを見るだけでげんなりとする。
「それで、決裁が欲しい案件というのは?」
「あちらでございます」
分かっていたとはいえ、改めて明言されると心に来るものがある。だが、駄々をこねても始まらないのでエリカは渋々と、執務室に備えられた立派な椅子に腰掛ける。
その姿を見守るクレアはどこか感慨深い様子だった。
「ご立派になられて……」
「いえ、まだお父様が当主ですからね?あくまでわたくしは代行としてこの場にいるだけですから」
アルフレッドは未だに療養という名目で動きを封じられている。エリカが御前試合とその後の模範試合で華々しい成果を上げたものの、スタンフォード家を快く思っていない貴族はまだまだ多く、その派閥が難癖をつけているのが現状だった。
冒険者ギルドの一件では、はっきり言ってエリカの方が身体的ダメージも大きかったのだが、白魔術により完全に回復しているからこそ模擬戦などにも参加することができている。
しかし精神的ダメージについては未知数だというのが難癖の主な内容で、それを大義名分に療養を勧め続けているのが反スタンフォード家の派閥だった。
その為に、次期当主であるエリカが積極的に動いているわけだが、だからといっていきなり政務を取れる程の心構えがあるわけではない。
というよりは気分が今一つ乗らないというのが正しい。
エリカが書類に目を通し始めたのを確認すると、クレアは内容を話し始める。
「キャロル商会と名乗る行商人がウィングボローに自分の商店を出したいと許可を求めております」
「当家とブロードベント商会との付き合いがあるのを承知の上ですか?」
「はい。扱うものが異なるので商圏を荒らすことはないと申しております」
「ウィングボローを選んだ理由については?」
「他の村や都市から少しだけ距離がある不便な場所だからこそ、そこに住む人達の支えになりたいとのことです」
「正直、眉唾ですね。その心意気自体を疑うわけではありませんが、余りにも時期が悪い。それにシーダーラインが近くにあるのも気になります」
エリカの言葉にクレアは心持ち頬を緩める。それを見て取ったエリカは気付かない振りをしつつ、自分が試されていることを敏感に感じ取っていた。
シーダーラインはスタンフォード家が抱える港湾都市の一つで、冒険者ギルドの一件の際にはジャベリンシップが出港した場所でもある。
それ故に、軍事的重要度が更に高まったこの場所に対する懸念事項は、その大小を問わず看過できなかった。
「キャロル商会の要望は却下とします。加えて、その行商人の動向を注視しておいてください。RCISにも報告をしておいてください」
「承知致しました」
もはや嬉しさの笑みを隠そうとしないクレアにエリカは心の中で深くため息をつく。
領地を訪れてからというもの、エリカはクレアに当主としての力量を試されている気がしてならなかった。
次期当主としてそれは避けて通れないことだが、気分が良いものかと問われれば話はまた別である。
「他に急を要する決裁が必要なことはございます?」
「いえ、以上でございます」
「では、少し早いですが夕食にしませんか?今日はことのほか疲れましたわ」
「エリカ様。うら若き乙女がそのようなことを口に出すのは宜しくありませんよ」
クレアがたしなめるのを聞いてエリカは失言に気付く。もっとも、彼女が言おうとしているのは礼儀作法や慎み深さのことではない。
「食事の前に軽く身体を動かしましょう。体力をつけないと政務を執ることは敵いませんから」
クレアは根っからの軍人気質なのである。春先にも他領から流れてきた盗賊団をことごとく討ち果たしたばかりで、その勇猛さに磨きをかけている。
そんな彼女だから、エリカが御前試合で優勝し、かつ模範試合でも唯一相手を打ち負かした事実を放っておくこともなく、訓練や稽古などと称してはエリカと一手願おうと画策していた。
「いえ、今日は気分がすぐれませんわ。代わりにブラッドリーさんとお手合わせ願うのは如何ですか?」
クレアの真意をとっくの昔に見抜いているエリカは、護衛として同行してきたキャサリンを引き合いに出す。彼女には悪いが生贄になってもらおうと考えるあたり、良くも悪くもエリカは貴族らしくなってきているのだが、当の本人はまだそのことに気付いていない。
「ブラッドリー殿なら、部下の育成に力を貸してくださっているところです」
「そう……」
だがエリカの企みは失敗に終わる。キャサリンがまだ頑張っているのに自分だけ先に食事をとるわけにはいかなかった。かと言ってこのまま引き下がれば、クレアと手合わせすることにもなりかねない。
「それならその様子を見学しましょうか。皆さんの状態を把握しておくのも立派な務めの一つですから」
「まあ、そうですね……」
今度はクレアがどこか残念そうな表情を浮かべつつ、エリカに賛同の意を示した。
二人は互いに乾いた笑みを浮かべながら、キャサリン達の元へと向かう。
領主館を出ると、山の向こうに広がる空がわずかに薄暗くなってきているのが目に映る。ほんのりと涼しさをもった風の中に草いきれを感じながら、エリカは心持ちゆっくりと歩いて行く。
しかしどれだけ時間を稼ごうとも五分程の距離はあっという間に縮まり、エリカとクレアはすぐに村の一つへと辿り着く。
村の中央にある広場では、キャサリンが兵士の一人と向かい合って剣をぶつけあっているところだった。その周りでは兵士達が整列して様子を見守っている。ちょうど訓練の最中だったらしく、エリカ達は邪魔にならないよう木陰に身を潜めた。
「まだまだ!」
「その意気や良し!だが、左側ががら空きだ!」
キャサリンの一撃が兵士の左わき腹を打った。いくら刃をつぶしてあるとはいえ、重量は普通の剣と変わらない。その打撃に兵士は遂に膝をついた。
「筋は良いが、すぐに隙をつこうとするのはまだやめておけ。もう少し技量を積んでからにしないと、さっきのように誘われて終わりだ」
「はい……」
兵士は何とか立ち上がると、無念そうに頷いた。そこまで見届けるとエリカは彼女達の方へと向かう。
「お疲れ様です、皆さん」
「エリカ様!」
キャサリンがすぐに一礼すると、周りの兵士達もそれに倣った。
「ブラッドリーさん。皆さんに稽古をつけてくださってありがとうございます」
「もったいないお言葉です、エリカ様」
キャサリンが神妙な顔で返すものだから、エリカは思わず吹き出しそうになったが、周りの手前グッと堪えると、何事もなかったかのように兵士達の方へと向き直る。
「皆さんも遅くまでの修練、お疲れ様です。皆さんのおかげで領内の治安は守られています。ありがとう」
エリカからすれば心からの言葉だが、言われる側は未だに慣れていない。
階級制度の常で、身分が上の者が、自分よりも下の者に丁寧に接することはまずない。命令口調は当たり前で、何かを褒めることはあっても、労いやいたわりの言葉をかけることはあり得ないことと言ってもおかしくなかった。もしそのような言葉をかけようものなら、言われた側は何か逆鱗に触れるようなことをしでかしてしまったのかと疑心暗鬼になってもおかしくない。
スタンフォード家はそういった世界に生きる者の中でも例外にあたる存在で、身分が下の者に対しても丁寧に接している。だが、その中でも身分の垣根をまるで感じさせないエリカの姿勢は非常に異質だった。
だからこそ兵士達はとりわけ忠誠心が強く、次期当主に対して全幅の信頼を置いている。
「ブラッドリーさんもお疲れのことでしょう。辺りも薄暗くなってきましたし、そろそろ休まれては如何かしら?」
「ありがとうございます」
エリカの言葉にキャサリンは答えるが、クレアがずいと一歩前に出るとキャサリンに一礼する。
「その前に一度だけご指南頂きたい!」
「クレア叔母様。ブラッドリーさんもお疲れでしょうから、余り無理はおっしゃらないで……」
「ですが、余りにも羨ましくて……。私ももっと研鑽を積みたいのです」
実を言えば、クレアは毎日のようにキャサリンと手合わせしている。
一度、クレアとの手合わせが大変でないかを聞いたことがあるが、キャサリンによれば近衛兵団団長になる為に修練を重ねていた頃を思い出すらしく、それが楽しいとのことだった。
きっとキャサリンにとって、クレアを初めとする兵士達との交流は気分転換にもなっているのだろう。
エリカの手前、即答しないキャサリンだが、その瞳は明らかにクレアとの訓練を望んでいる。それを見て取ったエリカは安心してクレアを任せることにした。
元よりクレアをキャサリンに押し付けようという心づもりだったので、抵抗感や罪悪感などはあまりない。だが、そのせいで夕食が遅くなってしまうのは許せないので、釘を刺しておくことは忘れない。
「では、一度だけですよ。皆さんも夕食の支度などがあるでしょうから、訓練はこの時点で終了とします。
もちろん、二人の試合を見るのは自由ですが、訓練や試合と称して新たに一戦を臨むのは禁止します。当然、クレア叔母様もブラッドリーさんもです。よろしいですわね?」
「はっ!」
兵士達は即答するが、肝心の二人は返事をしなかった。
「クレア叔母様?」
「……はい」
「ブラッドリーさん?」
「承知しました」
エリカは軽く睨みを利かせると、椅子代わりに置かれている切り株の一つに腰掛けた。兵士の一人が慌てて水などを用意しようとするが、エリカはそれを丁重に断ると、二人の様子を見守る。
「エリカ様は身体を動かさないのですか?」
「クレア叔母様。今日はあなた達の訓練で終了です。わたくしはそれを確かに見届ける為にここにいるということを念頭に置いてくださいな」
そう言うとエリカは、二人が戦々恐々としつつも訓練の準備に移るのを見届ける。
程なくして剣がぶつかり合う音が辺りに響く。
だが、その様子をエリカは見ていなかった。彼女の頭の中は既に、この後の夕食の内容を想像することで彩られている。
ようやく夕闇が広がり始めた夏のことである。




