七 大切な人を取り戻す為の戦い
エリカは大きく深呼吸する。胸に沁みる空気と香りが、半年以上前の戦いの記憶を呼び起こす。
あの時、キャサリンは近衛兵団団長として国王を守り抜いた。その時の勇敢な一人の女性は今もまだ、確かにいるのだろうか。
エリカは剣を抜く。キャサリンは右手に剣をだらりと持つだけだった。
その隙だらけの姿勢も試合開始の合図が鳴ると一転、雰囲気がガラリと変わる。まるで肉食動物を思わせる獰猛さと俊敏さでエリカの元へとやってくると、剣を横薙ぎにする。
「ちょっと!」
エリカはそれを後退することで躱したが、その斬撃には一切の手加減が感じられなかった。
キャサリンは二撃目、三撃目と休みなく攻撃を放ってくるが、近衛兵団の団長を務めていただけのこともあり、その攻撃の種類はバリエーションに富んでいた。
だが、エリカもそれらに着実に対応していく。刃引きしている剣とはいえキャサリンの手にかかれば、充分に致死性の高い武器となる。
それをエリカはよく防いだ。キャサリンの誘いにも乗らず、見つけた小さな隙にも手を出さず、ひたすら防御の為に剣を振るう。
だが、元々の実力と経験値の差は決して埋められない。
よく攻撃を防いでいるとはいえ、エリカの身体には様々な傷が早くもつき始める。その度にエリカは小さく鈍い痛みに苦しめられた。
それらの痛みはエリカの体力をじわりと奪い去っていく。体力が落ちれば足は動かなくなり、腕も上がらなくなる。
「少しくらい手加減しなさいよ!」
思わず愚痴をこぼすエリカにキャサリンは斬撃で答える。どうやら頑なに言葉を交わそうとしないつもりらしい。
エリカは舌打ちすると危険を冒して後ろへ下がり、キャサリンから少しでも距離を取ろうとする。だが、その隙を見逃すほど、今のキャサリンは甘くなかった。
エリカの後退に合わせるように前進すると、キャサリンは剣を今まで以上に軽やかに振るう。
「もう、大怪我で済まなくなるでしょうが!」
繰り出される数々の斬撃を必死に躱し、受け流しつつ、エリカは必死に訴えかける。だが、キャサリンは彼女の言葉に何も答えようとしない。
一瞬で距離を詰めると、キャサリンはエリカの腹部にひざ蹴りを繰り出した。鈍い痛みに動きが止まる彼女をキャサリンは更に蹴り飛ばす。
力なくエリカは地面を転がるしかなかった。
「それまで!もう良いであろう!ブラッドリー殿!」
審判長が声を上げる。その右手は腰の剣に伸びる寸前だった。
「お待ちを!わたくしはまだ降参しておりません!」
審判長に負けじとエリカが声を張り上げる。そして自身の腹部に手をかざし、治癒魔法をかけた。
じんわりと痛みが引いていくのを感じながら、エリカは一つの思いを抱いていた。
それは伯爵夫人にも忠告され、自分自身でも訣別することを誓ったもの。だが、エリカは敢えてそこに意識を向ける。大切な人を取り戻す為に。
エリカはゆっくりと立ち上がると、そっと目を閉じた。
目の前の隙を見逃すキャサリンではない。瞬時に間合いを詰めるとエリカに斬りかかろうとする。
その手が途中で止まる。
キャサリンはすぐに後退すると、間合い以上にエリカから距離を取った。だが、エリカはその間、一切動いていない。後退したのは、彼女の近くに立ち入ってはならないと本能が警告を告げたからだ。
「……いい加減にしなさいな」
エリカが言葉を発する。それは今までとは違う冷たい声だった。
ゆっくりと見開かれた彼女の両目は、キャサリンの目を真っ直ぐに見つめている。
次の瞬間にはエリカがキャサリンの前に立っている。瞬間移動でもしたのかと思いたくなる程の加速を風魔法で自身に付与したエリカは、その勢いをもって剣を振り払う。
風魔法の恩恵を受けているとはいえその力は凄まじく、彼女の剣を受け止めようとしたキャサリンは耐え切れずに後方へとよろける。
安全な場所から戦いの様子を見守っていた者達は、全員が自分の目に映る光景を信じることができなかった。
今まで押されていたはずのエリカが、途端にキャサリンを追い詰め始めた。攻守が完全に逆転した戦いに、彼らはただ呆然とするしかない。
それ程の脅威に真正面から正対しているキャサリンは、背中の辺りに悪寒を覚える。その感覚は不思議と懐かしさを覚えるものだった。
懐かしさを覚えてからは、様々な感情がまるで走馬燈のように去来していく。それらは全て、ここ最近自分が忘れていたものだとキャサリンは自覚する。
思えばギルドの一件以降、ひたすら人との関わりを拒絶し、以前にも増して魔物領へ踏み込んでは、目に付く魔物全てを討ち果たしてきた。
最初は純粋な復讐心に駆られていたのを覚えている。だが、いつしかそれは単純な作業へとなり、最後には何も感じない機械的な動作へと移り変わっていた。
柔らかな風が辺りを吹き抜ける。肌に触れるその感覚がくすぐったい程に明確なのは何故だろうか。
頬を伝ってきた汗が唇に触れるのが分かる。途端にしょっぱい味が口の中に広がっていく。
段々と気付くことが増えていく。
思えば魔物の臓物の臭いや腐った臭いを感じなくなったのはいつからだろう。こんなにも遠くの小さな物音を聞き取れるようになったのは?
エリカの一挙手一投足がくっきりと目に映る。どうして彼女の瞳はどこか悲しげなのだろう。
何かを振り払おうとするかのように、キャサリンは思いっきり首を左右に振る。そして剣を正眼に構える。
その全身からは猛々しいまでの殺気に近いものが少しずつ薄れていき、代わりに静かな闘気がほんのりと顔を覗かせていく。
だが、まだ充分ではない。
キャサリンは再び、一見すると隙だらけな構えに戻ると、野獣のような獰猛さをもってエリカに肉薄する。その目はまだ仄かに薄暗い。
だが、振るわれた剣を躱すことも、受け流すこともせず、エリカは自身の剣で受け止めた。
激しい鍔迫り合いが繰り広げられる。
刃を引いているはずなのに、少しでも剣が滑ればそれだけで相手の身体を深々と切り裂きそうな勢いで、二人は一歩も引かずに睨み合う。
またキャサリンがひざ蹴りを繰り出そうとする。だが、エリカもそれに合わせるように左足を繰り出す。
防がれたキャサリンは、今度は左ひじをエリカの顔面に向かって打ち放つ。
それを防ぐ為にはエリカは右手を使わねばならないが、そうすると鍔迫り合いが崩れ、不利な体勢でキャサリンの追撃に立ち向かわねばならなくなる。一方で、ひじ打ちをもろに受ければ顔に傷がつく。
すがすがしいまでに卑怯な手だが、生きるか死ぬかの戦場では非常に有効な一手だった。
しかしエリカはそれを単純明快な方法でねじ伏せる。
至近距離からエリカは風魔法を放った。自身への加速に利用するほどの威力を持った強風がキャサリンを襲う。
その勢いに押されたキャサリンは体勢を崩す。その瞬間、エリカは左手で彼女の顔に平手打ちを放った。
パーンと乾いた音がこだまする。
憑き物が落ちたかのように呆然とするキャサリンにエリカはグイと顔を近付けて、ゆっくりと話し掛ける。
「何があったの?何に苦しんでいるの?」
「……」
キャサリンは何も答えなかったが、その眼差しがどこか悲しさを湛えていく。
「話して。こんなの本来のあなたじゃない」
「……話したところであなたに何ができるの?」
キャサリンが初めて口を開く。だが、出てきた言葉は辛辣なものだった。
「私のせいで多くの仲間が死んだ。帝国の犬なんかに同情し、心を開いたせいで」
「キャサリン。それでもあなたはけりをつけた。あなたがとどめを刺したの。あれを終わらせたのは他でもないあなたなの」
「それでも事実は変わらないわ。真っ先に死なないといけない私が生き残り、何の罪もない仲間達が死んでいった。それなのに私は英雄扱い。模範試合まで任されて……」
キャサリンは唇を噛んだ。強く噛み過ぎて血がポタポタと地面にこぼれ落ちていく。
「ねえ、エリカ。私はどうしたら良いの?」
そう言って顔を上げたキャサリンは涙を流しつつ、笑っていた。その姿を見てエリカは咄嗟に後ろへ下がる。
先程までエリカがいたところにキャサリンの剣が振るわれていた。エリカは油断なく剣を構える。
目の前にいるキャサリンは壊れる寸前だ。耐え切れない程の後悔の念に飲み込まれて、完全に自分を見失ってしまっている。
エリカは、自分と同じ転生者である彼女がそんな風に苦しむ姿をこれ以上見たくなかった。
前世の記憶を持つことは必ずしも良いことばかりではない。自分の知っている事柄が全く理解されず、通用しないことなど当然のことだからだ。
それ故に、誰にも理解されない孤独を抱え続けて別の世界を生きることになる。そんな中に現れた同じ境遇者。親友とも想い人とも違う、決してありきたりな言葉では説明できない関係性の間柄。
そんな彼女が今は苦しみ続けて、目も当てられない状況に陥っている。だが、エリカはふと思う。いつの日か、自身も己を見失ってしまう時が来るのだろうかと。
もしもそんな時が来てしまったら。私を引っぱたいてでも止めてくれるのはあなたしかいないのよ。キャサリン。
エリカはまた目を閉じる。今度はさっきよりもう少しだけ深いところへ意識を向けていく。仄暗い居心地の良さを段々と感じながらも、エリカはそれに囚われないように細心の注意を払う。
風を切って鋭い斬撃が襲いかかってくる。
それを剣で受け止めた瞬間、エリカは鍔迫り合いになる前に剣を強く押し込んだ。その勢いに押されたキャサリンに容赦なくエリカは追撃を浴びせていく。彼女の目はまだ開かれていない。
戦いの高揚感は程よく、エリカの全身を包み込んでいく。
自分でも驚くほどの剣捌きを見せつつ、エリカはキャサリンを圧倒していった。
エリカは目を開く。その瞬間、キャサリンが見せたごく小さな隙をついて、彼女の手から剣を絡め取る。
宙を舞う剣は、ゆっくりと二人から離れた位置へ落ちていった。
「ふふ」
武器を失った自分の両手を見ながらキャサリンが笑い声をあげる。そして力なく両膝をつくと、大きく溜息をついた。そんな彼女をエリカは静かに見ている。
「目を閉じている相手に手も足もでないなんて。やっぱりさすがだね、エリカは」
「……そんなことないよ。キャサリンが目を覚まさなかったから勝っただけのことだよ」
「……ふふ」
「さあ、これで終わりだよ。全部、終わったの」
そう言うとエリカは手を差し伸べる。だが、キャサリンはその手を取らなかった。そして小さな声でぽつりとつぶやく。
「ダメよ……。私には帰る場所なんてない」
その言葉はエリカの心に強く響いた。
キャサリンは王都の件で近衛兵団という居場所を失った。それでも冒険者として新たな人生を歩み始めることができたのは非常に幸運なことだった。
それなのに冒険者ギルドという居場所も失ってしまった。もうそこには、彼女が知っているかつての仲間はいない。
うつむくキャサリンが小さく肩を震わせる。
「そう……。気持ちは分かるよ」
それ以上でもそれ以下でもなく。エリカは静かに共感の念を伝える。
しかし、それが彼女の琴線に触れたのだろう。キャサリンは地面に両手を打ち据えて、むせび泣き始めた。
そんな彼女を支えたい一心で、エリカはキャサリンを抱き締めようとする。だが、近付こうとした瞬間に放たれた言葉が彼女の歩みを止める。
「……死にたい」
キャサリンの思いがけない告白にエリカは息を呑む。それまでの彼女の苛烈な戦い振りの意味が分かったからだ。
激しい慟哭の感情に打ちのめされつつ、それでも剣を振るい続けた彼女は既に限界に達していたのだ。
無意識のうちに贖罪としての死を渇望する彼女は、この模範試合にも戦場の作法を持ち込むことで自分のことを誰かに討たせようとしていたのだ。
生きるか死ぬかの戦いになれば、試合相手の手にかかる可能性もある。仮にそうでなかったとしても、御前試合の中でそのような不作法を働けばたちどころに王族を守る近衛兵達の手によって誅せられるだろう。
そこまでの計算をしていた訳ではないことはエリカも重々承知している。だが、それを無意識にさせてしまう程に自身のことを追い詰めていることは、今までのキャサリンの振る舞いから明らかだった。
だからこそエリカは軽く息を吐くと、一歩前に踏み出した。
そして自身の剣をうつむいたままのキャサリンの眼前に差し出した。
「分かったわ。じゃあ、終わらせてあげる」
そう言うと、エリカは剣の腹でキャサリンの顎の辺りを軽く叩いた。
それは最大限の侮辱行為だった。武器を失って降伏した相手にそのような振る舞いをしても良いのは、余程のやむにやまれぬ振る舞いをその相手がしでかした時だけである。また、仮にそうであったとしても周りからは白い目で見られる程に忌避される行為だった。
それをエリカはためらうことなく行う。これにはさすがにキャサリンも驚きの表情でエリカを見上げた。
「何、勝手に顔を上げてるの。死を望むなら、それらしく地面でも見てなさい」
「ふざけな……」
「ふざけてるのはそっち。仲間を死なせたから自分も死にたいって気持ちは分かるけどさ、やり方がみっともないのよ。本当に後悔してるなら、さっさと自分で自分の首をかき切れば良かったのよ。
それなのに模範試合を利用して、誰かに殺してもらおうだなんて虫が良過ぎる。そういった振る舞いが、死んだ仲間のことをいつまでも冒涜しているってことに気付けないような奴に礼儀正しく振る舞う必要なんてある?」
冷たく言い放つと、エリカはまた剣の腹でキャサリンの顎の辺りを軽く叩く。その豹変ぶりにキャサリンの顔色が段々と青ざめていく。
だが、心のどこかでキャサリンはエリカの言葉が正論であることも理解していた。確かに彼女の言う通り、自分は虫が良過ぎる考え方をしていた。そんな自分に敬意を表される資格などない。
「さあ、仲間に謝りなさい。最期くらいしっかりとするのがせめてもの手向けでしょう」
エリカの言葉にキャサリンは再びうつむく。どうしようもなく溢れてくる涙を手で拭いたかったが、これ以上無様な姿を晒すのはいよいよ死なせてしまった仲間達に対する冒涜だと思って、その気持ちをグッと堪える。
エリカが剣を引き、一旦うなじの辺りに剣を置く。そして大きく振りかぶったのが気配で分かる。
「いけません!」
審判長が叫び、何人かが走り寄ってくる足音が聞こえてくる。だが、それ以上に大きな音をキャサリンは聞いた。
いくら刃引きしているとはいえ、硬いものが首元に振り下ろされれば致命傷になる。
ビュンとうなりを上げて、剣が振り下ろされた。
だが、その剣先はキャサリンの顔の横すれすれに振り下ろされていた。少し視線を左にずらせば、鈍い光が反射して目に眩しい。
「……ねえ、キャサリン。あなたは今ここで死んだの。良いわね?それでもまだ死にたいのなら、ここぞと思う時に投げ出しなさい。そしてそれは今じゃないはずよ」
「……」
うつむくままのキャサリンの表情をエリカは見ることができない。ただ、彼女の両肩が少しずつ震えていき、やがて声を詰まらせていく。
そんなキャサリンをエリカは優しく抱き締めた。キャサリンが顔をうずめる彼女の胸元が段々と濡れそぼっていく。
エリカは彼女の背中を静かになで続けた。今は何も気にせず、思いっきり泣けばいい。
「スタンフォード殿」
いつの間にか近くにいた審判長がそっと声をかける。その手にはハンカチーフがあり、それを静かに差し出す。
エリカはそれを受け取ると、黙って頭を下げた。審判長も頷き返すと、周りにいる近衛兵達と共に距離を取っていく。
今更になってエリカの全身が悲鳴を上げ始める。肉体的にも色々と無理をしたツケが回ってきているし、捨てようと思っていたどす黒い感情の近くに身を沈めた精神的な疲労も姿を見せつつある。
だが、今はそれが心地良かった。
キャサリンを取り戻せただけでなく、自分自身も内なる闇の部分を乗り越えることができたのだから。




