二 スタンフォード家の有閑な一日
相変わらず目覚めは悪いが、今日のエリカはひと工夫取り入れてみることにした。
ベッド脇に立つと、エビ反りに近いところまで身体を伸ばしたり腕をぐるぐると回したりして全身のコリをほぐす。そしてそのままベッドに倒れ込んだ。
うつ伏せから倒れたものの、柔らかなクッションが優しく支えてくれたことでエリカはふわふわな感触を楽しむことができた。
しばらくすると自分の部屋まで誰かがやってくる足音が聞こえてきた。その足音の主は扉をノックするとエリカに呼び掛ける。
「お嬢様。もうすぐ朝食の時間です。ご準備のお手伝いに参りました」
「ありがとう。でも、もう準備は終わるから先に居間へ向かっておいて頂戴」
「かしこまりました」
メイド長のアリスが立ち去っていくのをエリカはフカフカのクッションに埋もれながら聞いていた。
しばらくの間ゴロゴロとしていると、どこか急ぎ足の足音が駆け寄ってくる。そして扉の前に立つと遠慮がちにノックしてくる。
「エリカお嬢様。アリスでございます。どこかお加減でも?」
「ああ、ごめんなさい。ちょっと手間取っちゃっただけだから」
そう答えるエリカの姿は既にベッドからなく、大急ぎでクローゼットに入って支度を整える。そしてわざと制服を途中まで着替えると、扉の向こうで待つアリスに呼び掛ける。
「ごめんなさい。やっぱり手伝って頂戴。わたくしとしたことが寝ぼけてしまいました」
「失礼致します」
中に入ってきたアリスはクローゼットで半分以上制服に着替えていたエリカに目を瞠る。
「お嬢様。今日は休日ですが……」
「そうなのよ。なのにわたくしったら勘違いしちゃって……。そこのドレスを取って頂戴」
「かしこまりました」
少し釈然としない様子だが、アリスはキビキビとエリカの準備を手伝う。その際、エリカがはしたなくも制服を乱暴に脱ぎ捨てたのを見て、アリスは思わず眉をひそめた。
「あの……。お嬢様……」
「大丈夫。後で綺麗に畳むから。さあ、後ろをお願い」
アリスの手からドレスをひったくると、素早くそれに身を包んで後ろ髪を両手で上げる。アリスはこの粗暴とも呼べる振る舞いに驚きを隠せずにいるが、それでもメイドとしての務めを完璧にこなした。
準備が整ったエリカはアリスと共に居間へと向かう。そこには既に両親の姿があり、カーティスが壁際に控えていた。
「遅くなってごめんなさい。寝ぼけちゃって制服に着替えちゃってたの」
「ああ……。えー、そうなのか。それは大変だったな」
およそ貴族としての言葉遣いとは程遠いエリカの言い回しにドギマギしつつ、アルフレッドは何とか言葉を返す。
「何はともあれおはよう、エリカ」
「おはようございます、お父様、お母様」
エリカは挨拶を返す。
朝食はいつものベーコンエッグにトマトとマッシュルームのソテー、ロールパンに紅茶といった品揃えだった。
王都の件で家族一人一人に褒賞金を与えられているので、少しくらい豪華な食事を摂っても良いのだが、それでも全くブレないところが両親らしい。とはいえ、エリカ自身も褒賞金を手に入れてから行った贅沢と言えば昨日のパンのまとめ買いだけで、およそ贅沢とは呼べない可愛らしい出費に過ぎなかった。
エリカがベーコンエッグを味わっているとアステリアが溜息をつく。
「はあ。昨日食べたパンが忘れられないわ。ねえ、あなた?」
「ん?ああ、確かに。いつもよりも食べ応えがあったな」
「ねえ、エリカ。来週の金曜日も買ってきてくれないかしら?」
「大丈夫よ。何だったらこの後に買ってこようか?」
自然に答えるエリカだが、アステリアは唖然とした表情で彼女を見つめていた。カーティスも心なしか顔を青ざめさせている。
そんな雰囲気の中でエリカは平常心を保っていた。別に貴族言葉を無理して使っていた訳ではないが、家では少しくらい元々の言葉遣いを意識的に使っていっても良いかと思い始めている。
その方がエリカにとっては「家族らしい」からだが、この思いを理解してもらうのには時間がかかるとも思っている。もし叱られたら、その時は素直に元の言葉遣いに戻すつもりだった。
そんな気まずさとも言うべき沈黙を最初に破ったのはアルフレッドだった。
「エリカが良いというならお願いしようかな」
その言葉にアステリアは唖然とした表情をそのままアルフレッドに向けるが、一瞬視線を交わすと、どこか諦めが入った様子でエリカに向き直る。
「そうね。お願いできるかしら?」
「ええ。任せて」
エリカは満面の笑みで応じた。
秋の終わり頃にオズワルドが気を回してくれたおかげで、両親との仲直りが少しずつ進んでいる。
だが、その過程でこうしてエリカが一歩踏み込んだことをするのは初めてだった。そして両親の反応を見るにそれをとりあえずは受け入れてくれたらしい。
「ありがとう」
素直にその言葉が出てくる。それを聞いた両親はまた視線を交わすが、すぐに二人とも笑顔になった。
朝食を食べ終えたエリカは二人に、護衛役としてアリスを借りても良いか尋ねる。
「それは構わないけど、どうしてアリスを?」
「この前約束したから。ほら、王都散策の時に」
「そう言えばそうだったわね。あなた、別に構わないでしょう?」
「ああ。もちろんだよ」
そう返すとアルフレッドは控えていたカーティスにアリスを呼んでくるようにお願いする。
程なくしてアリスがやってくる。平然さを装っているがその表情の柔らかさから、既にカーティスから事のあらましは聞いているようだった。
「という訳だから娘を宜しくね」
「はい。お嬢様は私が必ずお守り致します」
アステリアの言葉にアリスが力強く頷いた。
ちなみにスタンフォード家の邸宅から学院通りまでは馬車を使わなくても余り時間がかからない距離になっている。
という訳でエリカは歩いてミランダの店まで向かうことにした。
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その選択にはさすがにアルフレッドも眉をひそめたものの、反対はしなかった。
二人を見送った後、アステリアはアルフレッドを見つめる。
「あなた。元の関係に戻そうとする努力は大切だけど、だからって何でも受け入れたら良い訳じゃないわよ」
「もちろんだよ。だが、あの聞き分けの良い子がこうして自分を出すようになったのが嬉しくてね」
「まあ、確かにそうね。きっと今まで色々なことを我慢したり考えたりしていたんでしょう。だからと言って……」
「私は一度あの子を信じられなくなってしまった。大きな過ちだった。その愚は繰り返さない。
あの子は聡明だ。大丈夫だよ」
「……そうね。何があってもあの子を信じるって決めたものね」
アステリアとアルフレッドは居間へと戻ってゆく。その後ろ姿を見送りながらカーティスはそっと目頭を押さえた。
エリカのことを案じ、大切にしているのはカーティス始め使用人達も同じだった。
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昨日歩いたばかりの学院通りだが、賑わいぶりはあまり変わらない。
その中でも温かいスープを振る舞う屋台の前には長蛇の列ができていた。立ち昇る湯気に交じって様々な野菜と肉の香りが辺りに漂っている。
エリカは付き従うアリスをちらりと見やる。お互いに外套は羽織っているが、それでも肌寒いのは変わらない。
「ねえ、アリス。ちょっと寄り道しましょう」
「え、いや。お嬢様。さすがにそれは……」
引き留めようとするアリスだったが、それに構わずエリカは列に並ぶ。護衛役としては思うところもあったが、ニコニコ顔のエリカを見ていると、自分の杓子定規な対応のせいでその笑みを閉ざさせてしまいたくなく思う。
主達は最近になってようやく以前のように笑顔を見せるようになった。主達に仕える者としてそれは何よりの褒美で、何よりも守り抜かねばならないものだった。
振る舞うものがスープだからか、行列は意外と早く掻き消えていく。五分も経たないうちにエリカ達の番が回ってきた。
「スープを二つお願いします」
「ええ、どうぞ」
エリカから代金を受け取ると、店主は大鍋から木のお椀にスープを注ぎ、それらを差し出した。
エリカ達は屋台の隣にある、ちょっとした広場のようなスペースに向かう。そこにはベンチなどがなかったが、エリカは何も気にすることなく立ったままスープを味わう。
その余りにも自然な仕草は彼女が貴族であることを忘れさせ、周りの人達に見事に溶け込んでいるが、羽織っている外套とその下から見えるドレスが彼女の身分をひそやかに、それでいてはっきりと主張していた。
「美味しいね」
「はい、お嬢様。美味しゅうございます」
吹きすさぶ風は冷たいが、主との思いがけない間食のひとときは暖かい。
スープを飲み終えた二人はミランダの店へと向かう。といっても、少し先にある交差点を右に曲がるとすぐに看板が見えてくる。
何より先程の屋台に負けず劣らず行列ができているので、その列に並べば自動的に店の前まで向かうことができた。
「おや、エリカお嬢様。今日もお越しくださったんですね」
ミランダが嬉しそうに話しかけてくる。
「はい。こちらのパンがとても美味しくて。また十個入りを二つお願いします。それとは別にパンを二個お願いします」
「あいよ!」
慣れたものでミランダはパンの袋を傍らに控えているアリスへ渡そうとするが、それを遮ったエリカは自分が受け取る。
その振る舞いにミランダとアリスが驚く。
「えっと、こちらはお付きの方じゃなかったんですかい?」
「アリスは護衛役を買って出てくれているので。いざという時に足を引っ張る訳にはいきませんからね」
「お嬢様……」
「エリカお嬢様が伯爵夫人や他の方々に愛されている理由が改めて分かりましたよ」
そう言うとミランダがニコリと微笑んだ。エリカは照れくさそうに頬をかく。
店を出た二人は並んで歩く。エリカは器用に二個入りの袋からパンを取り出すとアリスに差し出した。
「一緒に食べよう」
「ありがとうございます」
誰かと並んで何かを食べるのはいつ振りかとアリスは思い返していた。
屋敷に戻ったエリカはパンをカーティスに渡すと、図書室へ向かう。そこで好きな本を何冊か手に取ると、通りがかったメイドの一人にティーセットを部屋に運んでくるよう伝えた。
程なくしてティーセットを受け取ったエリカは念の為に部屋の扉に鍵をかけると、ドレスをサッと脱ぎ捨ててネグリジェに着替える。
そしてベッドにダイブすると、持ち帰っていた本を開いて読み始める。至高のゴロゴロライフだった。
好きに本を読み、好きなタイミングで紅茶を飲む。身体はフカフカのベッドに委ねている。久々にエリカは心の底からリラックスできた。
「お嬢様。紅茶のお替わりはいかがでしょうか?」
扉の向こうから先程のメイドが声を掛けてくる。エリカはティーポットを持って重さを確かめると返事をする。
「いえ、まだ残っているから。ありがとう」
「かしこまりました」
引き続き本を読もうとしたエリカだったが、扉の向こうの気配が立ち去らないことに気付いてエリカは身体を起こす。
「何かあったの?」
その呼び掛けに扉の向こうが大きく反応する。
「あ、いえ……。いつもパンをありがとうございます」
「あ……」
エリカは慌てて顔を出そうとしたが、自分の格好を思い出して思いとどまる。その間にメイドは今度こそ立ち去っていた。
あんまり早くゴロゴロするのも考えものだとエリカは軽く頬をかいたが、どこか少しだけこんな日常が嬉しかった。




