一 金曜の午後に
午前いっぱい続いた魔法薬学の授業が終わったエリカ達はいそいそと教室の外へと向かう。
扉をくぐり抜けた途端、肌寒い空気が全身を貫いた。
「この時期は冷えるよね……」
ナタリアが体を震わせながらつぶやく。
「もう少し暖かくても良いんだけどね」
そう答えるシェリルも両手で自身の肩を抱きすくめていた。
様々な薬草や物を煎じて一つの魔法薬を完成させる作業には繊細さが要求される。それは気温にまで及び、魔法薬に影響を及ぼさないよう、一年を通じて涼しさが保たれやすい地下で造られるのが主流だった。
特に王立バンクロフト学院は徹底しており、魔法薬学の教室とその周辺は石造りになっている。それだけでなく水脈から水を引き込み、風を起こす魔法陣によって気温を下げているので冬は特に寒く感じるのも当然のことだった。
薄暗く感じる地下を抜けると涼やかな空気が舞い込む。それと同時に肉が焼ける良い香りが漂ってきた。
「うーん。今日はハンバーグにしようかな」
鼻をひくひくと動かすナタリアにグロリアが呆れた表情を浮かべた。だが、その足取りは誰よりも軽やかで、食堂の扉を真っ先に開いたのもグロリアだった。
特に冬は人気のない魔法薬学の授業だが、地下への出入口が食堂の近くにあるのは数少ないポイントの一つだった。
ナタリアとグロリアは揃ってハンバーグを注文し、シェリルはサラダを注文する。だが、エリカが注文したのは紅茶とわずかばかりのクッキーだけだった。
「エリカ。どうしたの?」
「ちょっと食欲が湧かなくてね」
「食い意地のエリカが珍しいね。どうしたの?もしかして太った?」
ニヨニヨと笑うナタリアだったが、いつもなら話に乗っかってくるエリカが静かである様子を見て真剣な表情を浮かべる。
「何かあったの?話聞くよ?」
「いや、大丈夫だよ。多分、昨日の夕食を食べ過ぎただけだから」
そう言うとエリカはニコリと微笑んでテーブル席へと向かう。会話を打ち切る流れになり、かえって周りを心配させることになったが、今のエリカには余裕がない。
先日、伯爵夫人に言われてからエリカはずっと、自分の心の奥底にある暗い部分と向き合う努力をしていた。
だが、死が間近に迫った時期に無理矢理自分の人生を納得してしまったが故に、抱える闇と向き合うのは容易なことではなく、嫌なことや辛かったこと、苦しんだことを思い出しては頭をかきむしりたい衝動が強まるばかりだった。
結果的に充実していたとはいえやっぱり第一志望の大学に通いたかったし、最後の職場では人にも立場にも恵まれたけれど、嫌な思いをたくさんしてきた上で転職した事実が上書きされることはない。
ようやく息ぴったりなパートナーにも恵まれたのに、その人との子を両手に抱くことはできなかった。
客観的に見れば他の人よりも幸せに満たされていたけれど、でもそれはどこか空虚なもので。
我慢と妥協、そして泣き寝入りを通じて得たものに彩られた前世を「これで良かった」と思い込んだことが今のエリカに大きな悪影響を与えていた。
昨晩も寝る前にブラック企業の人でなしな上司のことを思い出してしまい、そんな相手に何もできなかった自分が悔しくて腹立たしくて、泣き崩れてしまった。いつの間にか眠っていたが、その間も涙は流れ落ちていたらしく、今朝の枕はぐっしょりと湿り気を帯びていた。
そんな日がもう何日も続いている。
こんな目に遭わせる為に転生でもさせられたのかと思うと、そう仕向けた存在をぶん殴りたくもなる。どうして自分がそんな目に遭わなければならないのか。転生してからも苦しみ続けなければならないのか。
そう思うと心の中に巣食う闇に身を委ねてしまいたくなる。別にそれで悪事をなす訳ではない。むしろ理不尽を振りかざし苦痛をもたらすクズをその力で屠るだけだ。多くの人を苦しみや辛さから解放し、喜ばれることはあっても非難されることはないだろう。
ただ、伯爵夫人の言葉がエリカを苦行に立ち向かわせていた。
「大広間の戦いで怒りに身を任せた時、ご両親や他の人達のことを考える余裕はあった?無意識のうちに加減はしていたかもしれないけれど、あの二人があなたの魔術を他の人達に受け流す可能性もあったのよ?」
そう言われた時、エリカは初めて自分の力の根源がもたらす危険性を真剣に考え始めた。実際、両親は自分とどう接すれば良いのか分からなくなり、悩んでしまった。
もしオズワルドが気を回してくれなかったら、関係を修復することはできなかっただろう。
だから自分は過去と向き合わなければならない。大切な人を傷付けない為に。反面教師にしている連中と同じレベルに落ちてしまわないように。
紅茶から立ち昇る香りにはほのかにオレンジが感じられ、傷付く心と精神をじんわりと癒してくれる。
一口紅茶を飲んだエリカは知らず知らずのうちにホッと溜息をついた。
「そう言えばこの後って時間あるの?」
明らかに本来の一口サイズよりも大きくカットされたハンバーグを器用にフォークで指しながらナタリアが話している。
「うーん。なくはないけど、寒いんだよね……。どこかに行くなら暖かいところが良いなあ」
最初は乗り気でなかったグロリアが急に背筋を伸ばすと、それとなく行きたいところを答える。
「それだったらパフェを食べに行こうよ。学院通りを少し下ったところのカフェなんだけど、そこのパフェが美味しくて」
「シェリルもパフェを食べるんだね」
「当たり前じゃん。ああやってアイスクリームを積み重ねたものなんて家だったら絶対に食べられないんだから」
「ああ。貴族は大変だね……。あんなに美味しいのに……」
「食べられるうちに食べとかないとね」
早くもシェリルはらんらんと目を輝かせていた。そんなシェリルを微笑ましく思っていると、ナタリアが手元のハンバーグを慎重にカットしながら聞いてくる。
「エリカも行こうよ」
「え?今日はちょっと……」
「何か予定でもあんの?」
「いや、特にはないけど、胃もたれがね……」
苦笑しつつ答えるエリカをナタリアは特に見ることもなく、ハンバーグを頬張る。
「そこって確か『ブタ猫のねぐら』だったっけ?」
「そうそう」
「あそこって今すごく話題になってるよね。温めて溶かしたチョコレートをかけて食べるんでしょう?」
「そう!それそれ!すごく美味しいのよ」
「でも、あれってちょっと大きいよね。一人で食べることもできなくはないけど、正直シェアしたい」
「そう?私は一人でもいけ……イタッ!」
グロリアの言葉を否定しかけたシェリルだったが、ぴょんと上半身を震わせる。
見れば、シェリルの真向かいに座るグロリアが「空気を読め」という熱い視線をシェリルに向けている。左手で足のすね辺りをさすりつつシェリルは戸惑うが、グロリアの表情を見てとって何かを察したようだった。
「う、うん……。やっぱりシェアしたいよね。美味しいものって一人で食べるよりみんなで食べた方が良いし」
「そうそう、やっぱそうだよねー」
シェリルへの視線をバッチリとエリカに見られてしまったグロリアはどこか棒読みに近い状態で答える。
そんなグロリアに呆れつつ、ナタリアもわざとらしくつぶやく。
「でもなあ。私とグロリアだったらシェアできるけど、いくら立場が関係ないとはいえシェリルは貴族だから、シェリルのパフェを手伝うのは結構ハードルが高いよね」
「そ、そだね……。私もシェアしたいけど気を遣わせるのも何だか悪いし……」
すっかり会話の流れの意味を把握したシェリルだったが、すがすがしいまでの大根演技にエリカは思わず噴き出した。
「ちょっ、何よー」
「いや、ごめんごめん……」
エリカは込み上げてくる笑いを何とか抑えると、正面に向き直る。向かい側に座るナタリアがわざとらしく首を傾げる。
「ということみたいだからエリカも来てよ。一口くらいなら大丈夫でしょう?」
ここまで気を遣わせてしまっているのに断り続けるのも悪いので、エリカは一緒にパフェを食べることにした。
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金曜の午後ということもあって、学院通りはいつになく人混みが多い。
自然と足取りはゆっくりとなり、エリカ達は『ブタ猫のねぐら』までの道のりをぶらぶらと歩いていく。
「やっぱ金曜は人が多いね」
「王都ならではだと思うよ。普通は学院なんてないし、金曜は午前で終わるなんてこともないから」
「シェリルの言う通り、他のところは曜日なんて関係ないからね」
シェリルとナタリアから返されるもののグロリアはいまいち実感が湧かないらしい。
生まれながらの王都住まいにはその辺りのことが分からない。エリカ自身もそれは同じなので口を噤んでいる。
ナタリアとシェリルがグロリアをからかう様子を尻目に、エリカは街の様子を眺めた。
少し前まで目に付いた事件の跡も完全に修復されており、通りは以前の活気を取り戻している。賑やかしく客を呼び込む店員と客の一人が丁々発止のやり取りを繰り広げており、自分達と同じく制服を着た学生達が笑い合いながら通りを歩いている。
穏やかで暖かい日常がそこにはあった。
「あれ、もしかしてエリカお嬢様ですかい?」
ふと自分の名前を呼ぶ声に気付いて、エリカは足を止める。同じくその声を聞いていた他の三人も冗談の言い合いを打ち切ってキョロキョロと周りを見回す。
声の主はエリカ達の少し前方にいた。客と大声でやり取りしている店の向かい側で、並んでいる人達を手際よく捌きながらパンを販売している女性が立っていた。
「確か……。ミランダさんですよね?去年の伯爵夫人の晩餐会でご挨拶して以来で……」
「おやまあ……。こんな私のことを覚えてくださっていたなんて。本当に嬉しいですよう!」
歩み寄るエリカ達に満面の笑みを浮かべてミランダは答えた。二人の様子を見ていた別の店員が気を利かせてミランダの客を引き取って代わりに接客し始める。その心遣いが少しだけ申し訳なく思えたが、エリカは好意に甘えてミランダの元へと向かう。
「エリカのお知り合い?」
「うん。去年、コーンウェル伯爵夫人の晩餐会の席でご一緒してね」
「え、そうなんだ!」
グロリアとのやり取りを聞いていたシェリルが目を輝かせると、エリカよりも先に一歩前に出て挨拶する。
「初めまして。わたくし、シェリル・コーンウェルと申します。いつも食卓に並ぶパンはミランダさんのお店のものと聞いておりました。お会いできて嬉しく思います」
「え、伯爵夫人のお嬢様ですか?こ、これは……。いつもご贔屓にして頂いて何とお礼申し上げたら……」
そう言えば伯爵夫人がミランダさんのパンを褒めちぎっていたなと思い出しながら、エリカはナタリア達に振り返る。
「せっかくだし、何個か買っていこうよ。散策の合間に食べられるし」
ナタリア達は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに笑顔になって大きく頷いた。
「じゃあ、私も一つ」
「私は二つで」
「私は一つください」
「はいよ!」
エリカ達の注文に快活な笑顔で応じるミランダは瞬く間にパンをそれぞれの紙袋へと納めていく。その手を止めることなくミランダはエリカに尋ねる。
「エリカお嬢様は何個お入れしましょう?」
「うーん。十個入りが二つで、それとは別にパンを一つでお願いします」
「はいよ!」
慣れた手つきでパンを袋へ納めていくミランダを眺めながらエリカは、家に戻ったら両親や使用人達にこのパンを振舞おうと考えていた。一人一個だったら夕食にもそんなに影響は出ないだろう。
ミランダの店でパンを購入したエリカ達はパンをかじりながら本来の目的地であるお店へと向かう。
程なくして特徴的な看板が目に留まる。
ぶにゅっとしたモチモチな猫がうたた寝をしているような絵がでかでかと描かれており、その隣に『ブタ猫のねぐら』と飾り文字で書き記されている。
「さあ、入ろう!」
この店を紹介したシェリルが真っ先に店内へ駆け込む。対応したウェイトレスに人数を伝えたエリカ達は店の奥の席へと案内された。
「ホットチョコレートパフェを四つ!」
「かしこまりました」
シェリルの自然な注文にしばらくの間気付かなかったが、よくよく言えばそれぞれでシェアするつもりだったことを思い出してエリカは他の三人の顔色を見る。
だが、誰も異論をはさもうとはしなかった。そもそも一人一つのつもりだったのだろう。そんな親友達を見てエリカはシェアの件を呑み込んだ。
しばらくして運ばれてきたパフェを四人は堪能する。自然と零れる笑顔が更に別の笑顔を呼んで明るく楽しい空気が醸成される。
しばしの間、エリカは時間を忘れてこの和やかなひとときを思いっきり楽しんだ。




