六 エリカ、オズワルドに心を救われる
柔らかに立ち昇る湯気から漂うリンゴの香りは優しく鼻腔をくすぐる。
椅子に深く腰掛けつつ、ポットの中の紅茶が飲み頃になるまでじっくりと待つ。
トントン。
真鍮製の丸いテーブルの端を左手の中指と人差し指でリズミカルに、それでいてゆっくりと叩きながらエリカは遠くまで広がる青空を眺める。
「エリカ嬢。余り行儀が宜しくないですよ」
屋敷の方から苦笑交じりにオズワルドが歩いてくる。その手の上にある皿から盛りつけられたスコーンが顔を覗かせている。
「ごめんなさい、先生。つい……」
ほんのりと頬を赤く染めながらエリカは謝る。それは恥ずかしさからなのか、それとも別の感情からなのか。
だが、オズワルドは良くも悪くもそのことに気付いていないようで、優雅な仕草でスコーンの皿をテーブルに置く。
「さあ、食べましょうか」
「はい」
オズワルドはスコーンを小皿に取り分ける。その隣でエリカは堂々とそのまま口元へ運ぶ。その光景に思わずオズワルドは顔をしかめるが、エリカはいたずらっぽく笑ってごまかした。
今までそんなエリカを見たことがなかったオズワルドは驚きを隠せなかったが、当の本人はすました顔をしてポットの中の紅茶をオズワルドのカップに注ぎ、続けて自分のカップに注いだ。
「ありがたく頂きますがね、エリカ嬢。それにしても先程の振る舞いはさすがに頂けない」
「あら、何のことでしょう?」
わざとらしく首をかしげるエリカが自分の知っている少女とどこか違う気がして、オズワルドは言葉を呑み込む。
「ほら、紅茶が冷めてしまいますよ」
「むう……」
戸惑うオズワルドを横目に、エリカは自分の心がかつてないほど高揚しているのを実感していた。
先日の合同授業の件で、自分が余り心動かされないことに気付いたエリカはそのことに悩んでいた。
思い返せばデーモンスパイダーと対峙した時も王城の大広間で敵と戦った時も恐怖心がなかったし、その後のPTSDもなかった。特に大広間の戦闘の際には敵とはいえ人を一人殺しているのに、悪夢にうなされることも気にしてしまうこともなかった。
そんな「普通でない」自分のことを自身でも恐ろしく思い、悩んでいたエリカはジーナとの最後の会話を思い出していた。
「エリカ。力の使い方には気を付けないとダメだよ」
「え?」
「エリカは怒りや恨みを溜め込み過ぎるから。普段は理性で抑えているみたいだけど、そのせいで心が麻痺してる」
「……」
「服従の呪文をかけた時、あなたのヒトとは思えない膨大な魔力の正体が何となく分かったの。不満や怒りとかの負の感情が人より凄まじい。デーモンスパイダーと戦った時も前世の嫌な奴を投影してたでしょう?」
「……」
「別に復讐心とか負の感情とかを捨てろみたいな陳腐で無責任な言葉は言わない。でも、自分の力の源に目を向けておかないと、その力に振り回されるよ。ただでさえエリカは悪目立ちしてるんだから」
「……。あなたの敵を許せ。でもその名は決して忘れるなってやつだね」
「え?」
「あなたの大統領の言葉」
そう言ってエリカはにこりと微笑んだ。ジーナは話を逸らされたことに気付いたが、それ以上彼女に何も言わなかった。
ジーナの忠告を思い出してからというもの、エリカの心は晴れなかった。感情を吐き出せる場もなければ相手もいない。親友はいるが、転生というおとぎ話にしか聞こえないことを理解してくれる人はジーナしかいない。そのジーナも王都を離れた今、エリカはこの悩みと向き合う上でかつてないほどの孤独を味わっていた。
それだけに、こうしてオズワルドの姿を見ると胸がときめく自分がいることに嬉しさを感じずにはいられなかった。
「エリカ嬢。今日はいつになく機嫌が良いご様子で。何かありましたか?」
「はい。先生とこうしてお茶を楽しむのは久々のことでしたから」
「お上手ですね」
「あら、お世辞ではありませんわ。先生がこちらにいらっしゃったのは一ヶ月以上前のことですから」
「そんなに期待されていたなら訓練の時間もより一層多く取らねばなりませんな」
「いや、それとこれとは話が別ですよ、先生」
頬を膨らませるエリカはカップに手を伸ばす。目を細めつつその様子を眺めるオズワルドは少しだけ寂しそうだった。
「もっとも、今のエリカ嬢には魔術訓練も必要ないでしょうな」
「え?」
「大広間での戦いぶりを見ていましたが、あのような魔術を見るのは初めてです。まるで雷を見ているような気分でしたよ。どうやってあのような魔術を生み出したのか教えて欲しいくらいです」
「いや、あの時は必死だっただけで自分でもどう戦ったのか正直よく覚えていませんの……」
それは事実だった。ジーナが死んでしまうかもしれない極限状態の中、敵が攻撃してきたのだ。理性を保つのも限界だった。
とはいえ、感情のままに戦ったからこそ両親の自分を見る目がすっかり変わってしまったことも痛感している。
「ほう……。にわかには信じがたいですな」
クックックッと苦笑いを浮かべるが、エリカの表情が思いのほかすぐれないことを見て取って、オズワルドは彼女に優しく語りかける。
「あの時のことで何か悩んでいるのかな?」
「……悩んでいる訳ではありません。ただ、自分とどう向き合えば良いか分からないんです」
それからエリカは先日の合同授業でのことを話す。そしてデーモンスパイダーとの戦いや大広間での戦いにおいて自身の心が動じなかったことに対するぼんやりとした不安について話した。その間、オズワルドはスコーンにも紅茶にも手を伸ばさず、真剣に耳を傾けていた。
エリカが話し終えた時、カップからは湯気がすっかり立ち昇らなくなっていた。それでもオズワルドは手を伸ばさず、少し思案するような表情で空の一点を見つめていた。
しばらくしてオズワルドは椅子に座り直す。そして口を開いた。
「あなたはあなたのままで良い。深く考えたところでその問いの答えは見つかりませんよ」
そう言うとオズワルドはカップを手に取る。
「もっとも、あなたの中では自分なりの答えが定まっているかもしれませんが」
そして紅茶を一口すすった。
「……すっかり冷えてしまった。カーティスに頼んで新しいお茶を用意してもらいましょうか」
そう言うとオズワルドはすらりと立ち上がり、流れるような動きで屋敷の方へと向かう。そのおかげでエリカはみるみるうちに溢れてくる涙を見られずに済んだ。
背後に響くオズワルドの足音が遠ざかっていくにつれ、涙がとめどなく流れる。それを抑え込もうとする度に上半身が震えてしまう。いつオズワルドが戻ってくるのか分からないからこそ早く泣き止みたいのに、そう思えば思うほど身体は言うことを聞いてくれなかった。いっそのこと声を上げて泣いてしまいたい程だったが、それだけは何とか自制する。
近くに咲いている花々の香りが風に吹かれて漂ってくる頃、ようやく落ち着いてきたエリカはハンカチでそっと涙を拭う。すっかり化粧が乱れてしまっているが、化粧ポーチも手鏡もないこの世界で生きている以上その辺りは我慢するしかない。
エリカは最後に気を落ち着かせる為にカップの中身を一気に飲み干す。すっかりぬるくなってしまったアップルティーは茶葉のえぐみと強まったリンゴの香りが合わさって美味しくなかったが、不思議と全身を柔らかく包み込んでくれる。
程なくしてこちらに誰かがやってくるのが聞こえてくる。ただ、その足音は少しわざとらしさを感じる程にゆっくりで、エリカは足音の主と顔を合わせる前に呼吸を整えることができた。
「花の香りが快い」
普段、そんなことを言っているのを聞いたことがないような独り言をつぶやきながら、オズワルドが席に戻る。
「もうすぐしたらカーティスが新しい紅茶を持ってきてくれます」
「先生、ありがとうございます」
二重の意味でエリカがお礼を伝えると、オズワルドは微笑みで返した。
その日のオズワルドは珍しく夕食にも顔を出し、それぞれに積極的に話題を振っていった。そのおかげで今までどこか居心地が悪かったエリカも久し振りに両親との会話を楽しむことができ、その日の夕食は久々に心の底から味わうことができた。
何より嬉しかったのは、次の休日にもオズワルドが訪ねてくれるという報せだった。
明日が合同授業の関係で朝早いこともあり、家族より一足早く寝室へと引き上げたエリカだったが、すぐに心地良い深い眠りへと誘われていった。その寝顔は心が軽くなったことを物語っている。
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ドラゴンならではの気配察知能力でエリカが寝静まったことを確認したオズワルドは、旧友とその妻をひたと見据える。その眼差しは決して責めるものではなかったが、二人ともつい身をすくめてしまう。
「アルフレッド。アステリア。恐れる気持ちは分からなくもないが、あの子も普通の少女だ。もう少し気持ちを汲んであげて欲しい」
「ああ。分かっている」
バツが悪そうにアルフレッドが答える。その隣でアステリアが項垂れていた。
「あの子も辛かったでしょうに。私達は何て酷いことをしてしまったのかしら……」
「そうだな……」
昼の様子を遠くから見ていた二人は、エリカが滂沱の涙を流しているのを見て胸が締め付けられる思いだった。
確かに無詠唱を使いこなしていたり自分達の知らない魔術を駆使したりと、十代の少女とは思えないところはあるものの、誰かを傷付けたり貶めたりしている訳ではない。とはいえ、不安が残るのも仕方ないことだった。
「いずれこの家に凶事を呼び込むかもしれんという不安が頭から離れんのだ。
とりわけ、前近衛兵団団長の件ではバンクロフト公爵やエミリー第三王女に叛意を抱いたのではと危ぶまれた。結果的に問題なかったものの、ああいった綱渡りが続くのであればあの子だけの問題では済まなくなる」
「その気持ちも分かる。だが、その辺りの不安についてはあの子にしっかりと伝えたのかい?」
「いえ、しっかりと言葉を交わしたのも今日が久々のことだったから……」
恥じるようにアステリアがつぶやく。
「そうだろうと思ったから、今日は間に入ることにした。だが、私も毎日ここにいる訳ではない。家族のことは家族同士でしっかりと話し合うんだ。でないといつの日かあの子を失うことになるぞ」
「ああ。その通りだな」
二人が頷いたのを見てオズワルドは安心した。その瞳にはまだ不安が残っているものの、それ以上に家族の仲を修復しようという決意が強く見えていた。
「色々と心配することもあるだろうが、二人なら大丈夫だよ。
ああ、そうそう。来週に少しあの子をお借りしても良いかな?」
「それは構わんがどうしたんだ?」
「もう一人、不安を払拭させてあげたい人がいてね」
「ああ、伯爵夫人ね」
「え?」
きょとんとするアルフレッドにオズワルドは苦笑する。
「アステリアは気付いていたようだね。ルーシーはああ見えて直情的なところがあるからね。理性で納得していても感情が勝ってしまうこともある。
あの子に対する不安の度合いは二人よりもルーシーの方がずっと上だろうね」
「そうなのか?」
「ええ」
アステリアが同意するとアルフレッドは少し顔を曇らせる。その様子を見たアステリアが優しくアルフレッドの腕を取った。
「大丈夫よ、あなた。オズワルドが誤解を解こうとしてくれているんだから」
「まあ、そうだな」
忙しく一喜一憂するアルフレッドを微笑ましく思いながら、貴族社会に生きることのわずらわしさを実感する。それと同時に自分の教え子の可能性に胸躍るのをオズワルドは自覚していた。




