終幕 天地創造のアポカタスタシス -AmorFati- ①
慌てる必要はない。逆上することなく、物事を冷静に受け止めなければならない。何しろ、時間はたっぷりとあるのだ。
この世のすべての時間が。
――ハヤカワSF文庫刊/ACクラーク著/山高昭訳『天の向こう側』から『この世のすべての時間』より。
春の夜は冷えていた。自宅近くの自販機までは五分ほど。
隣を歩くお兄ちゃんは、夜空を見上げてつまらなそうに言った。
「オリオン座、もう見えなくなったね。他に知ってる星座ないんだけどなぁ……」
「確か、今はこいぬ座とか見えるはずだよ。――ほら、あれ。いちばん明るいのは最輝星のプロキシオン。二連星で、伴星は白色矮星。地球からの距離は十一光年くらいで、とっても近い」
「よく覚えているね、凄いなぁ」
夜空を指差してはしゃぐわたしに、お兄ちゃんは呆れたように苦笑した。む。
わたしは不貞腐れたようにそっぽを向くと、つーんと言った。
「わたし、満月の夜って嫌い。明るすぎて星が見えないから」
その日は雲もなく空気も乾燥していて、星空だった。
満月さえなければさらに綺麗な星が見えたと思うと、恨み節の一つも言いたくなる。
あっという間に自販機の前までたどり着くと、わたしはポケットに右手を突っ込んで裸の百円玉を取り出し、投入口に差し入れようとした。
けれど、やっぱり片手だけでは難しいらしい。
指先から逃げていったコインが、乾いた音をたてながらアスファルトに落ちていく。
「む」
「ああいいよ、僕が拾う」
「やっぱり上手くいかないものだね」
自分から生えている唯一の腕を見つめて、わたしは不思議そうに言った。
わたしが生まれる直前まで、この国は大規模な内戦を続けていたという。今世紀初頭から顕著になり始めた資源問題と、それに伴う経済危機。世界的な恐慌を前にして、この国は他の国と変わらず、国の内外で戦争を始めた。有名所で言えば、北方領土紛争や風の塔防衛戦、東京湾上国際宇宙エレベーターやSSPSを巡るバーラルシンドロームの混乱などがそれにあたる。
遠隔宇宙服として、ひいては全自動化された都市計画の手足として開発が進められていたはずの遠隔操作式外骨格自律端末・レシーバーたちが戦端に加わってからというものの、その様相はさらに泥沼化の一途を辿った。戦争が機械任せになっていったわたしたちは、やがて大きなしっぺ返しを食う羽目になったのだ。
それが、わたしの生まれる直前に神宿で起こったレシーバーによる汚染事故だった。きっかけはレシーバーたちの誤作動だったということだけれど、当時まだ胚だったわたしをお腹に宿していたお母さんは、多量のダイオキシンに晒されて、わたしの出産と引換にこの世を去ることとなった。ようやく生まれたわたしにも遺伝異常による先天性欠損が認められ、五体不満足の状態でこの世に生を受けることとなった。
もちろん、お父さんは再生医療についても考えたという。
けれど結果は失敗、左腕は生えてこなかった。わたしは片腕だけのまま、今に至る。
今でもときおり考える。もしわたしが片腕でなかったら、ここまでお兄ちゃんと仲良くなれていただろうか? もしわたしが健康体で、面倒を見る必要が無かったら、それでもお兄ちゃんはわたしに優しくしてくれていただろうか? 答えは分からないから、わたしは今が〝最高のしあわせ〟ではないにせよ〝最善のしあわせ〟なんだと自分に思い込ませることにしていた。
散った硬貨を拾い集めるお兄ちゃんは、屈みながらおもむろに口を開いた。
「重力について、どう考えるかい、カナ?」
「重力? 万有引力のこと?」
「そう。質量を持つあらゆる物体が、互いに引き合う力のこと」
お兄ちゃんは拾い終えたコインの一枚をぴーんと指で弾くと、弧を描いて落ちてきたそれを捕まえた。
「すべての星のカケラたちが引き合うってことは、それはもともと単一の〝カタマリ(なにか)〟であった、そうは考えられないかい? 宇宙の始りとともに世界に散らばったカケラたちが、また一つの存在に戻りたがっている。孤独で独立した〝小宇宙〟たちが寄り添いあい、もとのカタチに還ろうとする現象の様式――それが重力なのかもしれない」
「きっとみんな淋しいんだよ。ニンゲンといっしょ。だってどんなに惹かれ合っていても、他人は他人で、一人一人が宇宙みたいなんだもの。相手の内側までは見えないし、本当の意味で一つになったり、繋がり合ったりなんてできないから、せめて近くで体温を感じていたいだけ」
「おや、ロマンチックじゃないか。カナが詩人になってしまった」
「むぅっ、茶化さないでよぉ」
「はいはい、ごめんよ」
お兄ちゃんは楽しそうに笑いながら、むくれるわたしの頭を撫でてくれた。
お兄ちゃんの手は男の人のそれにしては少し貧しかったけれど、とても温かかった。
お兄ちゃんは視線を空へと向けると、どこか独白げに呟いた。
「重力鋲なんてものをつくって、これから僕たちは何処へ向かっていくんだろうね」
「きっと、なにも変わらないんじゃないかな」
「そうかい?」
「うん。わたしたちのしあわせなんて、そんな簡単に変わるものじゃないよ。考え方や暮らし方が変わっても、それって様式の変化程度のものでしょう? それがおしらさまの思し召しなんだもん」
するとわたしたちは、夜空に流れ星を見つけた。
そういえばさいきん、なんとかという流星群が近くまで来ているのだっけ。
彗星の落とし物に見入りながら、お兄ちゃんはわたしに
「何かお願いごととかしないのかい?」と問うた。
「ううん、いい。今、しあわせだから、他の人に譲る」
「カナのしあわせって?」
「お兄ちゃんに飲み物買ってもらうこと!」
「あはは、悪かったよ。今買うから」
笑ったお兄ちゃんが自販機にお金を入れると、すぐに温かい缶コーヒーが落ちてくる。
わたしはそれを受け取ったついでに、お兄ちゃんの腕にしがみついてみた。
お兄ちゃんは困ったように頬を掻いた。あ、ちょっと顔赤い。
「もしもし、カナさん?」
「……あったかい」
「缶が? それとも僕が?」
「おしえなーい」
ひとしきりじゃれ合ってから、わたしはお兄ちゃんの腕に顔を埋めながら声を洩らした。
「……こうやってぎゅーっとしてても、お兄ちゃんの体温を感じていても、たまに一つに繋がったりしてても、お兄ちゃんは別の女の子のことを考えているかもしれないし、もしかしたらお兄ちゃんはただのロボットか何かなのかもしれない。それでもわたしは、お兄ちゃんの側にいれてしあわせだって、いつも思ってるんだよ」
お兄ちゃんは、どこか空虚な愛想笑いを浮かべるばかりだった。




