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第四話 最善の世界 -Only_Sensitive_Existence- ⑭

 その草原では、今まさに雨が上がろうとしていた。

 外装を雨粒に濡らした機械の巨人が、そこで静かに立ち尽くしていた。

 胸部のコクピットハッチは開け放たれ、乗降機が展開している。

 その奥で仲良く寄り添い合いながら、静かに気を失っている二人の少女の姿があった。

 一人は、腰まで届く透明な長髪の持ち主。

 もう一人は、毛先が肩越しを撫でる黒髪の持ち主。

 二人とも、安らかに眠るように目を瞑っていた。

 お揃いのインナースーツは機能を停止し、人体保護用のジェルまみれになっていた。

 すると、ソラの肩に止まっていた白い鳩が身じろぎをした。

 ぴょんと佳奈多の膝の上に飛び移ると、くちばしで彼女の手の甲を軽くつついた。

「んむ……」と佳奈多の眉がぴくりと動く。

 それから時間をかけて意識を取り戻していった。まずは指先とつま先、腕と脚、首と腰といった順番で力を取り戻していき、最後にゆっくりと目蓋を開いた。コクピットの外からの光に眉間にシワを寄せながらも上体を起こし、身体が動くことを念入りに確かめた。

 ようやっと完全に覚醒した佳奈多は傍らのソラの姿に気づくと、人体保護液でべたべたになった自らの身体に「うわ……」と小さく驚きつつも、静かに眠り続ける彼女の肩を優しく揺らした。

「ソラ、ソラ」

「ん、カナ……?」

 舌足らずな声で、ソラが目覚める。

「終わったよ。目を覚まして」と佳奈多は言った。

 目を覚ましたソラは、佳奈多と同じように自分の身体を確かめはじめた。まだちょっと眠たそうだ。そんなソラの様子を見た佳奈多は、よかった、大丈夫かな、と苦笑した。

 彼女はコクピットのタラップまで歩み出ると、外の世界を眺めながら静かに呟いた。

「ねえアリストートル。あなたは知っていたの……?」

 その問いに答えが無いことを、佳奈多はこの世界の誰よりも理解していた。

 静かな世界。綺麗な空気。どこまでもつづく、平原と水面と青空。

 草木には、まだ朝露が煌めいていた。雲の隙間から射し込む光。そよ風が靡く。

 小さく髪を揺らす二人の少女。コクピットハッチに立ち尽くしながら、

「無力だね。わたしたちって」と佳奈多は消え入りそうな声で言った。

 立ち上がって隣に並んだソラは、そんな彼女を慰めることもなく、ただ淡々と述べ返した。

「世界を変えられるのはいつの時代だって大人だ。私たち子供は、大人たちよりもそのことを少しだけ多く知っているというだけだよ」

「見に行こう、ソラ。わたしたちはもっと、この世界について知る必要がある。何処でどんな人たちが生きていて、何を想い、何を願っているのか」

 佳奈多たちの見つめるさきには、反物質照射砲でぽっかりと穴の空いた空が広がっていた。

 輪を描くように青空を漂う千切れ雲、空中都市の瓦礫、逃げ惑うレシーバーたち。

 どこまでも美しく、どこまでも残酷な破壊の惨禍を見上げながら、ソラは佳奈多に問うた。

「宇宙が閉じてるって……さっき言ってたね。どういうこと?」

「わかりません。だけど、この機体はそう言っている……」

 佳奈多は不安げに目を伏せると、背後のコクピットシートを見遣った。

 かつてイヲリの乗機であっただろうデシーバーは、不可解なデータを吐き出し続けていた。

 そのどれもが、バルドの外殻の外の世界を調査しようとしたイヲリの記録のようだった。

「だから確かめに行かなきゃいけない。このバルドをもっと旅しなければならない」

「さしずめ、トーテムたちの世論調査(TotemPoll)ってところだね」

 ソラはとっておきの駄洒落を思いついたように、そう言った。

 それからコクピットハッチの上で大きく伸びをしてから、佳奈多のほうを向いて続けた。

「ところでカナタ、君は絵を描くのかい? お兄さんに会ったとき、そう言ってたよね」

「え? まあ、生前は美術部だったから……」

「ならさ、今ここで私のことを描いてくれないかい?」

 ソラは佳奈多に向き直ると、無邪気な笑顔を浮かべてそう言った。

「大丈夫。ここには世界のすべての時間がある。少しくらいのんびりしても、遅くはないさ」

「うん、わかった。トーテムの中でもこっそり練習してたから、自信あるんだ」

 佳奈多はコクピットの備品入れの中から画材を取り出すと、ハッチの床に腰を下ろした。

 まだ震えの残る手でルモグラフの鉛筆を握り、スケッチブックに線を引き始める。

 そして少しずつ手を動かしながら、自問するように呟いた。

「ねえ、なんでわたしたちは絵を描いたり、文字を書いたりするのかな」

「それはもちろん、残して、伝えたいからだろう? 自分が何を見て、何を感じたのか……」

 ソラは絵のモデルになりつつも、自由に振る舞いながら続けた。

「私たちは無力だ。どんなに美しいものを見ても、どんなに嬉しい時間を送っても、時間の移ろいともに忘れていってしまうんだもの。だから焦って、何かを遺そうと躍起になる」

 それを聞くと、佳奈多は少しだけ落ち込んだような声音で続けた。

「どうして、わたしたちはこの世界に生まれたのだろう? 人間なんて分子みたいなものなのに、この宇宙のなかの砂鉄みたいな存在なのに、どうしてこんなにも心が揺さぶられて、無性に泣きたくなるときがあるのだろう? 人類の歴史からも、宇宙の歴史からも、そして宇宙の外の世界の歴史からも、やがては忘れられていくようなちっぽけな存在なのに」

 佳奈多は、この世界に生まれた意味を知りたかった。そう思って、言葉を繋げた。

「もしわたしたちが本当にそれだけの存在なら、どうしてこんなことを考えて泣くのだろう? 胸が切なくなるのだろう? いつかは忘れ去られて消えていくだけなら、こんな長い時間のことなんて考えなくてもいいはずなのに。ヒトだけが感情を持つ理由……淋しさという感情を知っている唯一の存在である理由は、きっとどこかにあるはずなんだ」

「私たちは、夢みたいなものだよ。曖昧で、儚くて、薄れていく刹那……」

 コクピットハッチから、羽根を乾かし終えた鳩が飛び発っていく。

 自由そうに青空を羽ばたく鳩の動きを目で追いながら、ソラは続けた。

「人間の最大の武器のひとつは、忘却だという。この世界で唯一、この世界の虚無を理解できる繊細な存在――それが人間だ。長い時間を忘れることが出来なければ、きっと人類はとうの昔に全員自殺していたことだろう。もしかすると、古代の人たちはもっと記憶力に優れていたのかもしれない。でも全部を憶えたままでいると、つらくて、せつなくて、生きていけなかった。だから、適者生存して、そういうのに少しだけ鈍感な人間たちが生き残っていったのだとしたら……」

 そこでソラは一度区切り、息を吸い込んでから言い放った。

「この感情は、記憶は、イキモノとしてもヒトとしても不要なモノだということになる」

「淋しいね」と佳奈多が言った。ソラも頷く。

「うん、淋しいね。でもそれだけ私たちは、世界を鮮やかに捉えられる。この世界を愛することができる。三十億年、九十億年という時間の垣根を越えて、同じ世界を見つめてくれる友だちと出逢えた。それは、こんな不完全な私たちでなければ成し得なかった――奇跡だ」

 二人は目を合わせようとはしなかった。

 鳩の飛ぶ再建中のバルドを、じっとうち眺め続けるだけだった。

 雲の先には、空を貫く宇宙塔や、空中都市たちの姿も数多垣間見えた。

 佳奈多は話し続けた。

「永劫回帰――宇宙は永遠に同じことを繰り返し、万物は流転せず、寸分違わず同じ状態に戻る。永遠に、無意味に繰り返されていく時間と歴史のなかで、わたしたち人間は〝生〟が決して素敵な贈り物ではないことを知った。神様を恨み、世界を恨み、親を憎んだ。けれど、だからこそ、この空虚な繰り返しを受け入れて、それでもこの世界で生きていくと決意した人間たちは……尊いんだろうね」

 佳奈多の脳裏によぎっていたのは、ムセイオンやブリューゲルのバベルで出会った人々の生き様だった。種族の垣根を越えて、彼らには共通することがあった。それは、自分たちの生まれたこの世界で、精一杯、逞しく生きていこうとする生き物本来の力強い意志だった。

「この宇宙の外には、もしかしたら此処よりもしあわせになれる場所があるかもしれない。人類がこれ以上孤独を感じなくても済むような温かい宇宙があるかもしれない。そう信じて、わたしたちはここまで時間を繋げてきた。――けれど結果はこれだった。わたしたちには迎えが来ないまま、世界は閉じられてしまった」

 そこでようやく、佳奈多はソラに顔を向けた。

「でも、しあわせって本当にこの宇宙には無いのだろうか? わたしは、違うと思う。しあわせっていうのは相対的な価値だ。絶対的なしあわせ、恒久的なしあわせ、そして普遍的なしあわせなんて、ただの惰性に過ぎない。苦しんで、泣いて、打ちのめされて、そうしてはじめてしあわせの価値を私たちは知ることができた。だから、完璧な宇宙なんて本当は無かったんだ。だとすれば、しあわせと艱難辛苦の入り交じるこの世界は――もしかするとわたしたちにとって〝最善の世界〟だったのかもしれない」

 ソラは佳奈多の瞳を見つめ返すと、微笑みがちに頷いた。

「うん。きっと私たちは、何億年も、何兆年も同じことを繰り返す。肉体と時間の束縛に喜んで身を委ね、地球からも宇宙からも出られないまま、平凡な毎日を生き続けることになる。訳の分からない義務を背負いながら、意味もない仕事を続けて、恋をして、無意味な一生を遂げていくことだろう。でも、無意味は不幸って意味じゃない。無意味な人生でも、しあわせになることはできる……」

 ぽつりと、ソラの語尾は空間に吸い込まれていく。

 佳奈多は空を見上げると、力強く自分に言い聞かせた。

「わたしたちは生きていくよ。そこにわたしたちがいるかぎり」

 すると二人の視界の先に、白い水鳥たちの群れが見えた。

 ばしゃばしゃと水音をたてながら、湿地から飛び立っていく。

「イキモノ……」と目を丸くした佳奈多に、ソラは言った。

「私たちにとっての不都合な世界が、必ずしも彼らにとっての不都合な世界でもあるとは限らないという好例さ」

 佳奈多は虚を突かれたような表情を一瞬浮かべたのち、頬の強張りを溶かすように、ゆっくりと顔いっぱいに微笑みを浮かべた。描き終えた絵をソラに手渡してから、元気よく踵を返してコクピットに駆け戻ると、ブリハスパティの主機を起動させ、出発の準備を始めた。

「テナ、出発するよ」とソラが口に手をあてて叫ぶ。

 よく通る、澄んだ声だった。

 初めて名前を呼ばれた鳩は、ソラの腕まで戻ってくる。

 ソラはハッチのロープに掴まったまま、コクピットのカナタに振り返った。

「行こうか、カナ」

「うん、そうだね、ソラ」

 柔らかく微笑んだ雲野カナタは、ハッチを開いたままフットペダルを深く踏み込んだ。


 ――了。

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