第四話 最善の世界 -Only_Sensitive_Existence- ⑩
姫野サヲリに託されたデータによってブリューゲルのバベルで復元されたプルトンが、カナタの残した指示に従って略式の有機プリンターを建造、彼女の肉体と実存を完成させていたのだ。旅先でトーテムを破壊されたカナタの意識は、中継点として設定したデシーバーを介して、ブリューゲルのバベルへと転送される手筈となっていた。
彼女の意識は、プルトンが予め用意していた自らの肉体に憑依し、間もなく目覚める。人格を定着させる幾つかの現象学的手順を踏んだうえで、ようやく自己の意識と肉体とを認識するに至る。だが、ゆっくりと身を起こすと、そこにはかつてソラと訪れた光景が広がっていた。
「ブリューゲルのバベルじゃ……ない」
雲野佳奈多は、呂律の回らない舌足らずな口調で呟いた。
おかしい。伝言が正しければ、ブリューゲルのバベルで目覚める手筈だったのに。
(お目覚めですか? 雲野佳奈多さん、これが誰だか分かりますか?)
寝覚めで涙の滲んだ佳奈多の視界に、鏡にも似た一枚のホロウィンドウが浮かび上がる。
「えと……わたし?」
(ノエマの確認が取れました。自我形成も成功のようですね)
「その声は、たしかムセイオンのリュちゅ……プルトンさん」
(はい、お久しぶりです。躯体は無いのですが、分かっていただけて何よりです)
「これ、たしかデシーバーのコックピット……。――ッッ! ソラは――!」
佳奈多は慌てて身を起こすと、手元の操縦桿に膝小僧をぶつけた。
「痛ぁ――」と悶絶する。
(あまり無理をしないでください。人格の定着には時間がかかりますから)
「デシーバーのコクピット……ってことは、見えないけどプルトンさんもここにいるの?」
(はい。デシーバーの制御システムに少しお邪魔させていただきました)
その言葉通り、プルトンの声はコクピット内のスピーカーから聞こえているのだった。
(申し訳ありません。姫野サヲリさんとも話し合って、少しだけ伝言の内容を忖度いたしました。ここから発信されてくるカナタさんのバックアップデータを検知したものですから。であれば、指示された内容についても、こちらで準備をしたほうが妥当ではないかと)
「ううん……助かりました。ブリューゲルのバベルまで戻っていたら、間に合うものも間に合わなくなってたかも。ここからなら、この機体であれば、すぐにでも……!」
そこまで佳奈多はまくしたててから、ふと我に返ったように声量を落とした。
ぴっちりと与圧服に包まれた胸の膨らみに手を当てると、静かに続けた。
「新人類は再建事業が生み出したものでした。そしてアリは、秘密裡に開戦準備を進めてる」
(失礼ながら、そのことも佳奈多さんのキャッシュデータを解析させていただきました)
「じゃあ、ブリューゲルのバベルの皆も、このことを……」
(はい。既に一般人への周知が済んだ頃合いではないかと)
すると、それまでの場を充たしていた静寂が不意に破られる。
佳奈多が慌ててデシーバーのコクピットから身を乗り出すと、遠方にあの深海都市が見えた。
とはいえ、あのときの戦闘で大地は裂け、海は割れ、見るも無惨な様相を呈している。
陥落した深海都市からは無数の機械人形たちが飛び立ち、各方へと散っていく。
かつてソラと二人で歩いたフェノメノン人たちの都市を、焼き払いながら――。
「わたしのせいだ……わたしの自分勝手な行いで、開戦は早まってしまった……」
(――ムセイオンでのことを、思い出しておりました)
「……え?」
震える佳奈多の言葉を遮るように、デシーバーと一体化したプルトンは続けた。
(――わたくしは、新人類ではなく地球再建事業を選んだのです)
コクピットに内蔵されたスピーカーが、プルトンの合成音声を紡ぎ出す。
(それくらいしか、機械には思いつけなかった。でも、あなたたち人間は違うでしょう?)
「わたしたちだって機械だよ、プルトンさん。有機か無機か、その程度の違いしかないんだ」
(ですが、佳奈多さんたちなら、きっと別の答えを見つけられたのかな……と思いまして)
「買いかぶりじゃないかなあ……」
(ああそれから、姫野サヲリさんたちからも事づてを預かっていたのでした)
プルトンはわざとらしくそう言うと、機体のデータを参照し始めた。
間もなく佳奈多の傍らに、音声ファイルを再生するホロウィンドウが浮かび上がった。
すぐに、姫野サヲリと思しき女性の声が再生され始める。
(あーあー、カナタちゃん、聞こえる? 何があったのかはだいたいそこのプルトンくんから聞かせてもらったよー! こっちは心配しないで、カナタちゃんはカナタちゃんのやりたいようにやりなさーい! 忘れないで! 身勝手で自分勝手なトーテムは、カナタちゃんだけじゃないってこと! あたしたちは、君の味方だってこと!)
(メッセージは以上です。いま現在、ブリューゲルのバベルでは新人類・旧人類混同の防衛線が展開されているはずです。当面は、地球再建事業側からの粛清にも耐えうるでしょう)
佳奈多は俯くと、しばらく言葉を失い、肩を震わせた。
さらさら……と肩口から滑り落ちた黒髪で、彼女の表情は覆い隠される。
そんなときだった。
どこからともなくあの白い鳩が飛んできて、佳奈多の手のひらの上に下りてきたのだ。
佳奈多は呆気に取られ、「大人しくしてるんだよって言ったのに……」と震え声で言った。
(さて、雲野佳奈多さん。これからどう為されるのですか?)
「……決まってる。ソラのところに行かなくちゃ」
佳奈多は踵を返すと、デシーバーのコックピットの中へと戻っていった。
「――約束したんだもの。この世界を余すことなく見に行くって」




