第四話 最善の世界 -Only_Sensitive_Existence- ④
何分か、何時間か、何日そうしていたかはわからない。
やがてソラは重い腰を上げた。
「さて、これからどうするんだい? カナタ」
『まだ海岸線には遠いですね。あの海を目指して、この湿原を抜けていきましょう』
二人は海岸線を目指して、どこまでも続く湿原を歩き続けた。
道中、正気を失わないように、他愛もない会話を繋ぎあった。カナタが言う。
『これがバルドの地上なんですね……ソラさんも、同じ光景が見えているのかな』
「視えているよ。だけど僕たちの視る世界は、君たちの見る世界とは少し違うかもしれない」
ソラの表情からは生気が抜け、死人のように瞳孔が開いている。瞬きすらしない。肉体へ傾ける意識の配分を意図的に減らしているようだった。こうして気力と体力を温存するのだ。高次人類ほどではないが、ソラたち道徳人類も、肉体への依存度が極めて低い生き物であった。
愛用のナップザックを含め、手荷物は全て霊素に還元したうえで、インナースーツの電源を落としていた。霊素遮断用のヘルメットも被り、肌の露出を完全に無くしている。上に着込んだ水兵服も、生地に織り込まれた霊媒素子が沈黙している。黙々と動き続けるブーツの爪先と踵が、種類も定かではない草を踏みしめた。
歩いても歩いても変わらない景色のなか、カナタは続ける。
『世界って、なんなんでしょうね。世界は意識の表象。つまり世界の本質は物質ではなくマインドに有る。俗な言い方をすれば、世界とは脳味噌の中のイメージに過ぎない。眼や耳や鼻や肌を通して得た電気信号が、ある一定の法則に従って再構成されているに過ぎない。つまり物質世界における最も特徴的で顕著な情報の一部を切り出しただけの、簡略化された世界――』
「新人類か旧人類かなんて、些細な違いかもしれないよね。瞳に映る世界なんて、そもそも一人ひとり違うわけだし。その瞳に映った世界に対する解釈ともなれば、それはもう星の数ほどあってもおかしくない。ねえ、カナタ。僕はちゃんと君の隣にいるのかい?」
『隣で歩くあなたの姿が見えます。隣で話すあなたの声や足音が聞こえて、わずかだけどその体温や匂いも感じられます。でもそれは幻覚かもしれないし、幻聴かもしれないし、この世界にはわたし以外の他者が存在するっていう都合の良い思い込みかもしれない……』
風が吹き、湿地の草が音もなく揺れる。鮮やかで、少し白飛びした、緑と青に充ちた世界。
全長数キロほどの苔むした大理石像の近くで足を止めると、カナタはソラの名前を呼んだ。
『ソラさん、少しだけ寄り道していっても良いですか?』
「あの巨大な彫刻像のなかに、何があるんだい?」
『廃棄された再建事業の施設です。数千年前に、兄の活動記録があったって……』
ソラはカナタの提案を快諾した。
だが、全長数キロにも及ぶ施設の内部を探索し切ることは、どだい不可能なことだった。
さんざん彷徨った挙げ句、二人は苔むした白い巨大大理石像の右肩に出た。
「わあ……」
ソラは、その透明な目を大きく見開くと、息を呑んだ。
小走りで、まばゆい光のほうへと駆けていった。
『危ないですよ! 落っこちちゃう!』
「すごい……バルドが一望できる……」
ソラはそのまま背中から倒れ込むと、大の字になって一面の青空を仰ぐ。
カナタは、ゆっくりとそんなソラに歩み寄り、彼女の隣に腰を下ろした。
『空、広いですね……気づかなかった。わたしたち、あんなところを歩いて来たんだ』
「見えるかい? あれがブリューゲルのバベルで、その向こうに見えるのは――」
『地球の外殻――わたしたち、トーテムの暮らす世界……』
「まるで、この世界にいるのは僕とカナタの二人だけみたいだね」
しばらく、二人はそうして休憩していた。
柔らかで密度のある風が、ソラの透明な長い髪を、そしてインナーの上の衣装を揺らす。
「この青空は、いったい誰のものなんだろう……」
『え?』
「なんでもないよ。さ、カナタ。ちゃっちゃと用事を済ませようか」
ソラはゆっくりと腰を上げると、大きく伸びをして言った。
湿原が見渡せるその場所には、十五メートル大の機械人形たちが擱座していた。
『あれは……廃棄されたデシーバーたちですね。まだ使えるはずです』
「使えるって……どうするんだい、あんなに大きな機体たち」
『幸い、ぎりぎりアリストートルの通信圏内です。万が一のときに備えて、接続だけしておきましょう。いざというときに、何か役に立つかもしれませんから』
カナタは片っ端からデシーバーの待機電源を点けて回ると、反応の出た一機に目星をつけた。
二人はデシーバーのコクピット内部を覗き込むと、まだ動力が生きていることを確かめた。
そしてネットワーク関連のタスクを立ち上げて、通信圏内であることを確認する。
『合言葉は――』
カナタは、デシーバーの装甲部に表示されたQWERTYキーボードに指を走らせると、
〝KUMONOHARUKA〟と入力した。
『やっぱり、お兄ちゃんの機体……みたいです』
「カナタのお兄さんの機体?」
『約束してたんです。もしトーテムに選ばれたら、お互いの足跡を残していこうねって……』
いつも通り、カナタの指示に従って、電子の文字が読めないソラが操作を担当した。
『かろうじてブリューゲルのバベルと通信が取れますね』
「じゃあ何か起きても、ここまでは戻って来れるってことか」
『トーテム限定ですけどね。ソラさんは身体、大事にしてくださいね?』
「カナタもだよ。キャッシュデータは戻ってこないんだから」
『それなんですけど、この機体を中継点に設定すればバックアップが可能になるかも……』
ソラが操作を続けると、コクピットの全天周立体モニターに夥しい量の情報が表示される。
ぐるりと表示された数々の記録データを見渡して、カナタは息を呑んだ。
新人類及びバルド地上層の踏査記録。カナタも見たことのない機密情報ばかりだった。
『ムセイオンでの有機プリンターの一件を受けて、ブリューゲルのバベルでも似たような推論は幾度か耳にしました。「このバルドに自然発生したと思い込まれている新人類も、もしかすると事業における一つの実験として人為的に生み出されたものかもしれない。」……ここの拠点では、このことをずっと調べていたんだ。ほとんどのトーテムに対しても、秘密裏に』
「もし、それが本当なら……」とソラが言葉に詰まる。
『下に戻りましょう。旅を続けなきゃ』とカナタは言った。
施設の内部を降りて地上――巨大大理石像の足下に出た二人は、再び湿原を進み始めた。
『ねえ、ソラさん』
「なんだい、カナ」
『ソラさんの故郷のこと、思えば何も知らないなって思って』
「また薮から棒だね。聞いても、あまり気持ちのいい話は出来ないよ?」
『分かってます。でも知っておきたくて。ソラさんのこと……ソラさんと目指す場所のこと』
ソラは歩みを止めることなく、淡々と答えた。
「僕が暮らしていた第八上霊帝国は、名前通り上霊新教を信仰する典型的なホモ=ヌーメノンのコロニーだよ。霊素による魔法は使えるけれど、それ以外はカナタたちの生きていた世界と何も変わらないと思う。学校があって、企業があって、素敵な服屋さんや食堂もあった。僕はちょっとだけ生まれが良くて、その国の上霊新教の要職に就く予定だったってだけ。上霊新教の始まりについては、カナタのほうが詳しいだろう?」
『ええ。わたしたちの暮らしていた世界には、ひとつの宇宙エレベーターがありました。このバルドの宇宙塔と比べると、それはもう稚拙なつくりのものでしたが、そこを中心に経済は栄え、宇宙開発の技術やトーテムの原型となる技術が発展した。だけどあるとき宇宙エレベーターは崩れて、その破片から霊子の存在が明らかになった。けれど破片にはヒトの言語能力を乱すという側面もあった。結果として声を失った人たちによる言霊信仰が生まれることになった。それが上霊新教――あなたたち新人類たちも信仰する、信念の始まりだったって……』
ヒトから言葉を奪うとされた霊素。
それがバルドに満たされたからこそ、新人類は今のような形態になった。
言葉ではない、より上位のコミュニケーション能力を身につけるように進化した。
カナタはそう続けた。ソラは小さく頷くと、あとを引き取った。
「僕たち新人類が未だに肉体に縛られているのは事実だ。だけど同時に、肉体に縛られない精神の世界に住んでいることもまた事実。霊素という手段を介して周囲の認識さえ捻じ曲げてしまえるほどの力を持ち合わせた僕たちは、何度も何度も事実を書き換えて、そのたびに肉体という実存を軽視してきた。ツギハギだらけの矛盾した、うわべだけの世界に生きてるんだ」
『ツギハギだらけで、本質を見失った世界。そんな世界でも、しあわせを見つけることはできますよ? 世界が意識の表象にたゆたう曖昧なモノであったとしても、そこへ身を委ねてしまえばいい。いろいろ複雑極まりないセカイと比べれば、わたしたちのシアワセは至極単純明快なものです。しあわせは、とってもシンプルな価値基準によって働いているのですから』
ソラは足を止めると、自分にも言い聞かせるように言った。
「しあわせになる方法は、世界を疑うことじゃない。カナの言う通りだよ」
『そして、それを理解できなかった可哀想なイキモノもいる』
「うん――彼らのことだね」
二人が歩き続けてきた湿原は終わろうとしていた。
目指していた湾岸は、ようやくすぐそこに見えるようになっていた。
草木は減り、代わりに瓦礫と化した廃墟都市が待ち構えている。
とはいえ建造物のほとんどが崩落しており、更地も同然。
ソラは目前に迫った廃墟都市を見下ろしながら、息を吐いた。
「高次人類〈ホモ=フェノメノン〉――物質から解放されつつあるヒトの姿、か……」
二人の視界には、都市のあちこちに立つ人影が映っていた。例外なく全裸で、身体つきは中性的で生殖器を持たず、判で捺したようにみんな同じ顔つきをしていた。美少女でもあり、美少年でもあり、美女でもあり、美青年でもあった。適度な間隔を置きつつも、薄笑いを浮かべながら完全に同期した踊りを繰り返している。くねくねと。
はじめて高次人類たちの姿を目撃したカナタは、思わず言葉を失った。生理的な嫌悪感から吐き気を催し、バーチャルコクピットのなかで思わず口を押さえた。気持ち悪い……これが人類の最も進化した姿だなんて……。魂と感情と人格を統合し、肉体の枷すらも克服しつつある新人類。それは進化というよりも、むしろ神化とか深化とかとでも言えるような光景だった。
上空では全長十キロほどの大理石像がうつ伏せに浮遊し、大きすぎる影を落としていた。真っ白な裸の男性の彫刻で、やけに芸術的なうえに表情や視線がリアルで気持ち悪い。しかも局部だけ切り落とされている。カナタはいつかムセイオンで見た〈ベルベデーレのトルソ〉を反芻しながら、動揺から滲んだ涙を拭いた。どうして地球再建事業の無人工廠というのは、こうも悪趣味なカタチをしているのだろう……。
今すぐ逃げたくなる気持ちを叱咤して、カナタは口を開いた。
『我が子を喰らうサトゥルヌス。地球再建事業による廃棄区画のひとつです。再建後のバルドに、本当に〝元通りの明日〟を創り出せるのかどうか実証するため、人工単子の再構築の実験が行われたといいます。時間凍結時のわたしの故郷、東京をそのまま再現したものだと言います。人間を含めた生き物はすべて殺処分されたはずですが、まさか高次人類たちの棲み処となっていたとは誰も思わなかったのでしょう』
「トーキョー……それがカナタの生まれ育った国なのかい?」
『まあそんなもんです。偽物とはいえ、さすがに感慨深いですね』
カナタは皮肉げに笑ってから、続けた。
『フェノメノンたちは常に周囲のマインドを見張っています。自分以外の魂や思考や感情、言霊などの〝邪魔者〟を察知した瞬間に、霊素翻訳と実存侵食をもってそれらを排除しようとします。ここから先では、わたしたちに魂がある気配を漂わせてはいけません。霊学迷彩で思考と感情と魂の気配は断てますが、言霊だけはどうしようもありません。何があっても喋るのは禁止です。筆談や、その他コミュニケーションに類する行為も、すべて。ですから、あの街に入る前に言っておきたいことがありましたら、今のうちに』
ソラは、目を伏せて少し考えてから、ゆっくりと、言葉を選ぶように言った。
「……たまに、思うことがある」
『……聞きましょうか』
そう答えると、カナタはソラに向きなおった。ソラも顔を上げると、ヘルメットバイザー越しに、その澄んだ空色の瞳でトーテムの頭部ユニットを見つめ返した。
「君と一緒に旅をして、僕は色々なものを見聞きし、感じ、学んだ。地球を再建しようと決意した三十億年前の人類たちの固い意思。やがて滅びる運命にある僕たち現生人類たちの世界。カナと出会ったことで、自分の寿命よりも先の世界のことを考えるようになった。自分の知っている世界だけが世界であるとは限らないと実感して、この世界に生まれた意味みたいなものを考えるようになった。だから僕は、このさき何が起ころうとも、決して君と旅をしたことを後悔はしないだろう。それを最後に言っておきたかった」
『わたしも、いろいろなことを考えました。あの世界では、わたしはたった十四年しか生きていないちっちゃな女の子だったんです。家族や友達、それに生まれ育った街だけが、わたしにとっての世界だった。そんな視野の狭かったわたしが、トーテムとして選ばれて、このバルドを旅することになった。そしてソラさんだけじゃない、大勢のヌーメノン人やトーテムの人たちと接するようになって、わたし、思ったんです。この世界にはたくさんの人たちが住んでいて、泣いたり笑ったりしながら精一杯生きている。その一人一人すべてに、この世界で生きる権利があるはずなんだって……』
カナタは視線を遠くにやると、『ねえ、ソラ』と問いかけるように言った。
『わたしたちの明日と彼らの明日、どちらが本物なんだろうね?』
わたしたちという言葉がどこまでの範囲を示すのか、カナタは最後まで明らかにしようとはしなかった。
『行きましょう。ここを越えなければ、ソラの故郷には帰れない』




