第三話 現世人類のアタラクシア ⑩
あくる朝、二人の部屋に一機のトーテムが届いた。
送り主はメカニックの姫野から。カナタが頼んだ代えの躯体だった。
その日から、夜になると、カナタは必ず三十分ほどトーテムに憑依した。
「ねえ、今何をしてるの?」
『ひみつ』
ソラが訊ねても、カナタは恥ずかしそうにそう答えるだけだった。
一週間ほどして国内の観光を一通り終えると、二人は最初の城塞都市で羽を休めた。
ソラとカナタで別行動をとることも多くなった。
ある日の夕刻、外廊下でソラは偶然カナタと鉢合わせた。
カナタは難しそうな本を、眉間に皺を寄せながら読んでいた。
「カナタ?」
「わたしもみんなみたいに霊素の魔法が使えたらなぁって思って」
カナタの読む本は、現生人類が生身で霊素を扱うための教書だった。もともとは上霊文字で書かれたものらしいが、エスペラント語に翻訳されている。トーテムを介してしか霊子を翻訳できない旧人類のカナタは、生身でもそれができるよう密かに練習をしていたのだ。
どうやら、火を扱う初歩的な技術を練習しているらしい。カナタは手近なところに開いたままの本を置くと、右手の平を開いた。目を瞑ってしばし唸ると、しゅぼっと手の平の周囲が小さく爆発した。カナタは「ひゃうっ」と短く悲鳴を洩らした。さいわい怪我は無い。
「機械が無いとやっぱり難しいね」とカナタははにかんだ。
ソラはしばらくカナタの開く教書をじっと見つめていた。
それからおもむろにカナタの背後にまわり、彼女の右手に自分の手を添えた。
「ちょ、ソソソソラっ!」
「ほら、集中して。化学構造をよく認識したうえで翻訳するんだ」
そう言って、カナタに集中と再挑戦を促す。
「火は酸素が無ければよく燃えないよ。ちょっとだけ不純物も混ぜるんだ。そう……」
ソラの助言に従ってカナタが意識を凝らすと、手の平のなかで小さな火種が灯った。
ゆらゆらと揺らめくそれに、カナタは嬉しそうに声をあげた。
「できた……!」
「うん、上手い上手い」
二人は、しばらく霊素を使った魔法について語り合った。
「ソラさん、この国はどうですか?」
「いい国だね。さっき霊学の講義を開いてきた。みんなとても良い人たちだった」
「うん、静かで、みんな優しくて。この国には、まるで……」
「うん、まるで……」
二人は一瞬だけ間を置くと、目配せしあって、
「――この世のすべての時間があるみたい」
二人の声が重なり合い、どちらからともなく噴き出して、声をあげて笑いあう。
茜色に淡く染まる夕焼け。長く伸びる二人の影。
カナタはふっと表情を消すと、今度は遠い目をしながら外の景色を見下ろした。
「…………」
「カナ?」
カナタは遠くを見ながら、独白げに呟く。
「なんだか不思議な気分……地球再建事業以前の旧人類であるわたしが、あなたと心の底から殺し合ったわたしが、今こうして新人類のソラさんたちと一緒に過ごしているなんて」
するとソラはなんの気の迷いをおこしたのか、この黒髪の少女の唇をそっと奪った。
一秒と経たないうちに、すぐに口を離す。
「何するんですか、もう……」
カナタは少しだけ頬を染めて、拗ねたように言った。




