第三話 現世人類のアタラクシア ①
事業開始から三十一億年後のバルドで目覚めた少女・雲野カナタには悩みがあった。
一つ目は、彼女の憑依するロボット〈トーテム〉について。ムセイオン脱走時の攻防戦で躯体は疲弊し、装甲は傷だらけ。一歩を踏み出すたびに外骨格が軋みをあげ、カナタの座るバーチャルコクピット内のコンソールでは損傷を示すランプが点滅を繰り返す。今日まで動いてくれたのが奇跡のようだ。
二つ目の悩みは、自身の座るバーチャルコクピットについてだった。操縦者が基本的に肉体を持たない人工単子であることから、トーテムの操縦は躯体のコンピュータ内に構築された仮想空間上の操縦席から行われる。加重や損傷、時間といった外的な負要素のいっさいから隔絶された環境は、まさに電子情報と化した旧人類ならではの利点だったが、いつまでも狭い操縦席の中からしか世界を眺めることのできないカナタにとって、それは苦痛以外の何物でもなかった。
そしてそれとも関連する最後の悩みが、目的地までの距離だった。歩いても歩いても、遠方に見える空の柱との距離感はいっこうに縮まらない。トーテムを自動歩行に切り替えたカナタは、操縦用のアームレイカーから両手を放すと、大きく伸びをしながら躯体の傍らを歩くソラの姿に意識をやった。
五メートルの躯体、全天周の立体モニター越しに見える同行人の現生人類の少女。いつも冷静で大人びた雰囲気のソラだったが、流石に表情に疲れが滲んでいる。彼女の頬を滴る汗に気づいたカナタは、なんだか申し訳ない気分になった。ソラが一生懸命歩いている一方で、当の自分は操縦席のシートにゆったりと腰掛けて移動しているのだから。
ソラは、数時間前にホモ=ヌーメノンならではの殺陣を演じたときの服装のままだった。身体にぴっちりと張り付き、背筋の整ったしなやかな肢体を強調する機械武装用の与圧服。背は高く、痩身で、腰もくびれたいわゆるモデル体型だったが、胸の起伏には欠けている。腰の小型疑似霊晶炉は二基とも停止しており、各部位に織り込まれた霊媒素子も発光を停止している。
二人は、まだまだ終わりの見えない連絡橋を見渡し、どちらからともなく肩を落とした。
「遠いね」とソラが言った。
『遠いですね。今日中に到着できるといいんですが……』とカナタが応ずる。
とぼとぼと歩き続ける二人の上空を、編隊を組んだレシーバーたちが飛んでいく。先ほどムセイオンを滅ぼしたばかりの彼らは、任務を終えて拠点への帰投を果たそうとしているのだろうか。カナタたちを飛び越して、あっというまに二人の目的地であるコロニーへと消えていく。
そんなレシーバーたちを見送ったソラは、肩に鳩を乗せたまま唇を尖らせた。
「ちぇ。先に帰ってしまうんだ」
『先回りして出迎えてくれるのでしょう。先ほど地球再建事業から二年と四ヶ月ぶりの定期電信が入りました。どうやらわたしは先の大戦で戦闘中行方不明(MIA)扱いになっていたそうで、トーテム単身での圏外踏査としても最長記録にあたるそうです。よもや生きているとは思っていなかったのでしょう、向こうは大騒ぎになってるみたいです』
「さしずめ、騎士の凱旋といったところだね」
ソラが茶化すように言うと、カナタもくすくすと笑った。
『遭難して、満身創痍で、威厳もへったくれもありませんけどね』
「生き残って帰還しただけでも大した業績だろうよ。大きな手土産も持ち帰ったことだし」
『圏外領域の旅路で得た調査データのことですか? 確かに貴重な報告も数多くあります』
そう頷いたカナタは、突然立ち止まった。
トーテムの歩みが止まり、完全に停止する。
『これは……』
「カナタ?」
『アリストートルの中枢から、わたし個人に向けたダイレクトメッセージが届きました。アリが特定の個人に対して直接メッセージを送ることなんてこと、普通ならありえないのに……』
「それだけカナタのしたことが事業に貢献したってことだろう。――因みになんて?」
カナタは、トーテムが受信したメッセージをそのまま読み上げた。
『そのまま直進を続けよ。我々は同胞を歓迎する。明日のために――アリストートルより』
それを聞いたソラは、まるで自分のことのように嬉しそうに言った。
「良かったね、カナタ」
『?』
きょとんとしたカナタに対して、ソラは丁寧に言ってやった。
「みんな、君を待っていてくれたんだよ」




