第7話「どうしても南へ行きたいんだ…⑤『SIT参戦! 動き出した歯車達…』」
「うわああああーっ! シズちゃああああーん!」
伸田伸也は両手の指で頭髪を搔きむしりながら吠える様に悲痛な絶叫を上げた。それは泣くというよりも、まさしく狼が上げる悲しみの遠吠えに近かった。
彼はもう、自分がこの世に生きていても仕方がないとまで思った。今の彼の心情を表すには絶望という以外に適切な言葉は無かっただろう。
伸田にとって皆元静香という女性は、ただの恋人という以上に特別に大切な存在だったのだ。
静香は幼い頃から、自分と幸田剛士と須根尾 骨延を合わせた4人でいつも行動を共にしていた。近所でも評判の、とても仲良しの4人組だったのだ。
伸田を含めた3人の少年達にとって、静香は親友の一人であると同時に自分達の憧れのマドンナでありアイドルともいえる存在であったのだ。
4人が成長する過程において、いつも3人の男達は静香の関心を自分だけが得ようと必死だった。皆が皆、ライバルだった。
だが、3人の中では伸田はダークホース的な存在であって、誰が見ても一番望みが薄いと言えた。本人自身だってそう感じていたのだ。
悲しい事だが、彼は自分がグズでノロマの上に泣き虫で、男として異性にアピール出来る面など何も持ち合わせていない事を痛いほど自覚していた。
それなのに大学生になった静香は、3人以外にも自分に求愛する同世代の他の多くの男性の誰に惹かれるでもなく、剛士でも須根尾でもない伸田を自分の恋人として選んだのだった。
その事実を自分自身で一番信じられなかった伸田は、静香に「君みたいな素敵な女性が、どうして僕を選んだの?」と聞いてみた事があった。
すると、彼女から返って来た答えは明快かつ単純なものだった。
「伸田さんが自分だけじゃなく、いつも人の幸せを願い、人の痛みや不幸を自分の様に悲しむ事の出来る優しい人だって事を、小さい頃からの長い付き合いで私が誰よりも知っているもの…
こんな世の中で、それが人間にとって私は一番大事な事なんだと思うの。だから私は、そんなあなたが好き…」
静香からの返事を聞いた伸田は、彼女の前で身も世もなくオイオイと泣いた。感動の涙が止まらなかった。
彼は両親以外の他人から良い評価を受けた覚えがほとんど記憶に無かった。それなのに、この世で一番好きで憧れていた当の女性から面と向かってそんな事を言われたのだ。
泣き続ける伸田を静香は優しく抱きしめて一緒に泣いてくれた。
そして、その夜初めて…二人は結ばれたのだった。
伸田にとってそれほどに大切で、この世で愛するただ一人の女性を、あの残忍なヒッチハイカーが無情にも奪い去ったのだ。それだけでなく、全裸に剝いた美しい静香の首を無残にも切断し、残された恋人の伸田に遺体を見せつけるかの様に天井から吊るして行ったのだ。これほどの惨い仕打ちがあるだろうか?
絶望的な思いに打たれて一頻り泣いた後、伸田は無残に吊るされたままになっている大切な恋人の遺体を降ろしにかかった。警察が来るまで殺人現場は保全すべきだと分かってはいたが、彼には愛する静香の亡骸をそのままにしておく事が出来なかったのだ。
伸田は静香を吊り下げたワイヤーの繋がっている電動ウインチに近づくと、スイッチを操作して、ゆっくりと遺体を降ろして床に横たえた。
遺体を包むための適当な覆布を見つけられなかった伸田は、仕方なく倉庫の隅で見つけた毛布を遺体に掛けようとした。
そして、無残に切断された首の切り口に自分のハンカチを掛けてやり、手首で縛られていたロープを解いて解放した両手を遺体の胸の前で組ませようとした伸田は気が付いた。
曲がったまま硬く硬直している指が上手く組み合わせられなかったのだ。
「おかしい… ここまで遺体が硬直する程、僕は静香の傍を離れただろうか…? いや、そんなはずはない…」
気になった伸田が注意して遺体を調べ始めると、まだ燃え続けている火災の熱で溶け始めてはいたが、真っ白な遺体の表面が凍り付いていたのだ。例えは悪いが、冷凍していた肉を解凍し始めたばかりの状態といった感じだろうか…
すぐ近くで炎上し続けている事で温められた場所で、殺されたばかりの遺体の表面が凍っているのはおかしな話だった。
遺体に対する冒涜の様で不謹慎な行為だったが、意を決した伸田は試しに遺体の合わさった太ももの隙間に指を突っ込んで股間の性器と肛門の周辺部分に触れてみると、そこは冷たく凍っていた。
しかも、そのどちらの器官も凍り付いた血に塗れていたのだ。この事実が何を意味しているか、伸田は冷静に考えた。この遺体はヒッチハイカーによって乱暴され、長時間にわたって凌辱され続けた被害者だと思われた。
ある考えに思い至った伸田は、もう一度落ち着いて首の無い遺体を眺めて見た。
「違う…この遺体はシズちゃんじゃない…」
静香の恋人であり、何度も彼女と愛し合っていた伸田にしか分からない肉体的特徴として、遺体の下腹部に生え揃っている陰毛の密度や生え方の形が違っているのだ。
それによく見ると、伸田が何度も手や口で愛撫してきた乳房や尻の大きさや形も静香とは違っていたし、硬直している遺体の脚をこじ開けて確認してみた性器の形も違う。
そして何よりも決定的だったのは、これこそ静香自身も知らず伸田しか知らない事だが、彼女の肛門の皺を広げないと絶対に見えない小さな可愛い黒子が遺体のその部分には無かったのだ。
しかも、遺体の首は切断されているが、それを差し引いても身体全体としては静香よりも小柄だった。
そこまで特徴を確認した伸田は、この首を切断された無残な遺体が静香のものではないと断定し、不謹慎な話ではあるが正直言って少しだけ安堵する事が出来た。
だが、そうすると…この遺体は誰のものなのか?
「ひょっとして…これは、ミチルちゃんの遺体じゃ…?」
もちろん、須根尾の恋人であるミチルの裸など伸田は一度も見た事は無かったが、この遺体が静香よりも大柄なエリの身体ではあり得ない。
ここまで考えてみて思い至るのは、車の屋根でヒッチハイカーに犯され続けていたミチルの遺体しかなかった。伸田はミチルと思われる女性の遺体を前にして、恋人同士である須根尾とミチルの二人の首を揃って切断するというヒッチハイカーの残虐非道な行いに対し、心の底からの怒りが沸々と湧き上がってくるのを感じた。
だが、そうすると…静香はどこに行ったのだ? 静香を求めて倉庫を探し回った伸田は、床に無造作に転がっていた親友である須根尾の無残に切断された生首を発見した。
「う、うううぅ…スネオ…」
震える手で親友の首を床から拾い上げた伸田は、先ほど横たえた恋人のミチルの遺体の隣にそっと置いてやった。今、伸田の前に並べられた二人の遺体は、須根尾が首から下の肉体部分と、ミチルは首から上の頭部が存在しないという不完全なものだった。死んだとはいえ、愛し合っていた者同士に対してのこれほど惨い仕打ちがあるだろうか…
覆布代わりの毛布を遺体に丁重に掛けた後、伸田は亡くなった二人の友人のために心を込めて合掌しながら小さくつぶやいた。
「二人とも…これで、もう寂しくないよな。君達二人の無念を、僕は…この手で晴らしてやりたい…」
伸田は親友達を殺された怒りを力に変えて、ふらつく足で立ち上がった。
「早くシズちゃんを捜さないと… 頼むから、君は生きていてくれ!」
そう強く言葉にした伸田は、床に置いてあったタイヤレバーを拾い上げると慎重だがしっかりとした足取りで倉庫を出た。
「あのサイコ野郎…僕のシズちゃんに何かしやがったら、必ずこの手で殺してやる。」
大人しい伸田が普段口にしそうにない物騒な言葉を吐いたが、彼は本気だった。
あの怪物並みの強靭な肉体を持った残忍なヒッチハイカー相手に、武道の心得など全く無い自分が手加減など出来る筈が無かった。文字通りに死ぬ気で殺らなければ、こっちが殺られるのだ。
しかし、伸田の勝ち目は全くと言っていいほど無かった。それは彼自身が誰よりもよく分かっていた。
それでも、伸田は自分が死んだとしても静香だけは助けたいという固い決意を抱く事で逃げ出したくなる恐怖心を打ち消した。
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意識を失っていた静香が目を覚ました。寒さで目が覚めたのだ。
「ううぅ… さ、寒い… ここは…どこ?」
そこは、さっきまで彼女が隠れてスマホで警察に通報をしていた、近くで燃え続ける火災の炎で熱せられて温かかった倉庫の中では無かった。横たわっていた自分の身体は半分ほどが枯れ葉の山に埋もれている。
どうやら、静香は林の中の地面にうず高く積もった冷たい枯れ葉の中に、何者かによって放置されていたらしい…
身体を起こして座り直し、静香は自分の周りを見回した。そこは炎上するガソリンスタンドから少し離れた林の中らしく、木と木の間を通して明るい炎が見え隠れしている。冬の山中における屋外で眠り込んでいたにも拘らず、自分が凍死せずに済んだのは、火災によって温められた林の中で樹木と枯れ葉によって吹雪が遮られていたためだろう。
その事実にただ単に自分の運が良かったというよりも、何者かの意思を感じて却って恐ろしさが増した静香は身震いが止まらなかった。
それでも時間と共に次第に落ち着いて来た静香は、気絶する前に自分の身に起こった事を思い返してみた。
「そうだわ… スネオさんの首が転がって来た方向に、火災の炎を背にしてあの大きなヒッチハイカーが立っていたのよ。そしてアイツは、全裸の女の人…あれはミチルちゃんだった…の遺体を肩に担いでいた。
ミチルちゃんの遺体を私の前に投げ出すと、手に持っていた大きな山刀で、わざと私に見せつけるようにミチルちゃんの首を大根か何かの様に無造作にスパッと斬り落とした… アイツが拾い上げたミチルちゃんの生首の顔を、私の顔に押し付けて来たところで…私は意識を失ったんだわ…」
その光景を脳裏にまざまざと呼び起こしてしまった静香は恐怖のあまり、再び眩暈を起こして失神しそうになった。
だが、静香は再び意識を失いそうになる自分自身を叱咤し、愛しい恋人の伸田の顔を頭に思い浮かべる事で何とか失神しないで済んだ。
そして、昂っていた気持ちが落ち着いてくると、もう一度自分の周りを見回してみた。
やはり自分が今いる場所は、ガソリンスタンドからそんなに離れてはいない林の中らしかった。どちらかというと、スタンドよりもエンストして停車した伸田の車がある地点に近いようだ。
「ノビタさんの車に戻りたいけど、私が戻ればエリちゃんや剛士さんまで危なくなるわ…」
自分が二人のいる車に戻れば、せっかく離れたヒッチハイカーを再び連れて戻る事になる。
そうすれば、恐らく三人とも命は無いだろう。剛士は須根尾とミチルの様に首を切断され、自分とエリは死ぬまで犯され続け、死んでからもヤツが飽きるまで犯された後で首を切断される… そうかと言って、あの怪物じみた男と戦うなんて、か弱い自分には絶対に無理だ… 伸田が武器として渡してくれたトルクレンチも自分のショルダーバッグも、意識を失っている間にアイツに奪われてしまったのか、近くには見当たらなかった。たとえ手元にあったとしても、あの怪物じみたヒッチハイカー相手には気休めにもならないだろう。
いったい、あの男は何が目的なの…? 本当にヒッチハイクをして、どこかへ行きたかったのだろうか…? それよりも、女を片っ端から犯すのと殺戮を楽しみたいから通りかった車を止めさせて乗り込んだだけなのではないか…?
いくら考えてみても静香には分からなかった。今の彼女は、ただ愛する伸田に逢いたかった。
そして、重傷を負った幼馴染の剛士と、彼の恋人であるエリを助けたい……もう静香は、自分の親しい者を一人でも須根尾とミチルの様な悲惨な目に遭わせたくなかったのだ。
そこまで考えると……心の優しい静香は、ひょっとすると自分一人がヒッチハイカーの犠牲になれば、他の三人を救えるのではないか…などという幻想を抱き始めるようになったていた。
そこまで彼女が考えた時、背後で「パキッ!」という枯れ枝を踏み折った乾いた音がした。
「アイツが戻って来たんだわ… 私、もう終わりなのね。ノビタさん、もう一度あなたに逢いたかった…」
静香は愛する伸田を想い、寒さにかじかんだ両手を組み合わせて祈りながら目を閉じた。
「さよなら、ノビタさん…」
22歳の静香は死を覚悟した。だが、アイツに犯され汚されるのは嫌だった。
逆らって殺される事になっても、絶対にアイツの性器や身体の一部でも自分の中に受け入れはしない…
パキッ、ペキッ!
彼女のすぐそばまで音が近づいて来た…
静香は地面にへたり込んだまま目を瞑り、両腕で自分自身の華奢な身体を抱きしめて震えているしかなかった。
そんな震える静香の肩に、背後から誰かの手が載せられた…
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「シズちゃん、生きていてくれ…」
伸田は必死になって、ヒッチハイカーと静香を捜した。どちらか一方でも見つけられれば、必然的にもう一人にもたどり着くはずだ。
だが、ガソリンスタンドの敷地内をいくら捜しても、二人の居場所を示す手掛かりは何も無かった。
伸田は、自分が犬なら良かったのに…『のび犬』になれば愛する静香の匂いを追って彼女を見つけ出す事が出来る…などと、とりとめも無い妄想まで抱くようになっていた。
やはり、連続する恐怖からの極度のストレスにより、彼の正常な思考力は低下を来しているようだった。
愛する静香を求めて当てどなくうろつき回る伸田の視界の片隅に、自分の車が目に入った。
伸田は何か二人に繋がるヒントでも見つからないかと捜しまわるうちに、いつの間にか彼の足は剛士とエリのいる自分の車の方へと向いていたのだった。もっとも、彼ら二人の安否も知りたかった。
「二人は無事だろうか…? スネオ達の様に、もうヤツに殺されてしまったんじゃ…」
また新たな不安が、伸田の頭をよぎった。
彼は物事を悪い方にばかり考えて不安と苛立ちの堂々巡りに陥ってしまっていた。考え込んで悩むよりも、行動しなければ…
とにかく、炎上する炎に照らされた自分の愛車の近くまで来た伸田は、ポケットに入っていた車のスマートキーの『ロック解除』ボタンを押した。
「ピッ!ピッ!」という解除音と共に、前後にある左右のウィンカーが二度点滅して車のドアロックが解除されたことを示した。ガス欠で走行は無理でも、幸いな事にバッテリーまでは上がっていなかった。
突然起こったドアロックの強制解錠に車内のエリは驚いたかもしれないが、こんな真似が出来るのはスマートキーを持っている伸田だけだと、すぐに気付いてくれるだろう。そうは思ったが、勘違いしたエリに自分が渡してあった十徳ナイフでいきなり刺されるなんてシャレにもならないので、伸田は用心しながらヒッチハイカーによって割られていない方の右側の窓から車内を覗き込んだ。
そんなに長時間離れていた訳でも無いのに、なぜだか懐かしい気がする自分の車のセカンドシートには、エリの頭が見えた。その頭がヒョコヒョコと動いているのを見た伸田は安心した。
良かった、エリちゃんは無事だったんだ。それにヒッチハイカーらしき姿は無い。あの巨漢が隠れている様子は無かった。
安心して車の前方に回った伸田が、ゆっくりと運転席のドアを開けた。
「ただいま、エリちゃん…」
驚かさないように、小さな声で伸田はエリに話しかけた。
だが、エリからの返事が無い…
「エリちゃん、大丈夫? ジャイアンツはどんな具合?」
やはり、何の返事も帰って来ない。
小さな声と言っても、狭い車内で聞こえないはずが無いのだ。
「エリちゃん…?」
伸田の再度の呼びかけにもエリが応じる事は無く、彼女は顔を下に向けたままだ。エリの頭はカクカクと揺れているが不自然な動きだった。こんな状況でエリが寝ている訳では無いだろうが、気になった伸田は声をかけながらエリの頭に手をかけて揺さぶろうとした。
「どうしたんだよ、ホントに…?」
伸田に手を載せられたエリの頭部がポロっと下に落ちた… エリの身体がうつ伏せに倒れた訳では無い。文字通りに彼女の頭部だけが、ボトッと下に落ちて床に転がったのだ。
床に落ちたエリの頭部は、ほっそりとした彼女の首が切断された断面に突き刺された十得ナイフに引っ掛けるように載せられていただけだったのだ…
「うっ、うわあああーっ! エリちゃんっ! 君までがっ!」
驚愕の叫び声を上げてのけ反った伸田の背中の一部と左肘が、車のクラクションを押した。
ビイイイイイイイーッ!
激しい吹雪が吹き荒れる深夜の山中に、けたたましいクラクションの音が響き渡った。
意識せぬまま自分で鳴らしたクラクションが、狂気に陥りかけた伸田を正気へと引き戻した。
「くそ… あの野郎! エリちゃんまで殺しやがって… はっ、そうだ! ジャイアンツは…? あいつは、どうなったんだ?」
伸田は首の無いエリの遺体が座ったままのセカンドシートの足元を覗き込んだ。
伸田と静香が車から離れるまでは、剛士の意識を失った身体はそこに横たえられてエリに守られていたのだ。
「いた…」
巨体の剛士の身体は、伸田達が出かける前と同じ姿勢で窮屈そうに床に横たわったままだった。
エリと違って剛士の首は切断されていなかった。
だが…
ピクリとも動かない剛士の首筋に指を当ててみた伸田は、彼の脈が無い事にすぐに気づいた。それに、毛布にくるまれた剛士の身体は氷の様に冷え切っていた。
剛士はエリや須根尾のようにヒッチハイカーの山刀で直接殺された訳ではなく、直接の死因は切断された左手首からの出血多量による失血死だったのだろう。
いや、どちらにせよ原因は同じだった。剛士の左手首を切断したのはヒッチハイカーの山刀なのだから…
伸田は、さっき落ちたエリの首が死んでいる剛士の顔と向かい合っているのを見た。それはまるで、恋人同士の二人が今からキスをしようとしているようだった。伸田は二人をそのままにしておいてやる事にした。 ただ、生前の剛士の身体を保温するためにかけてあったブランケットを一枚取ると、首の無いまま座っているエリの身体にそっと被せてやった。
「アイツ… 僕の大切な友達を…みんな奪いやがった。
畜生! 殺せないまでも…必ず、僕のこの手でヤツに一矢報いてやる!」
伸田の身体は寒さでも恐怖でも無く、仲間達を奪われた怒りでブルブルと震えていた。
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肩に載せられた手にギュっと力が込められ、心臓の止まりそうになった静香に背後から声が掛けられた。
「大丈夫ですか…?」
次に来る死を覚悟していた静香だったが、背後から聞こえてきた意外にも優しい口調の呼びかけに恐る恐る振り返った。
「えっ?」
そこに中腰で立って静香に話しかけていたのは、肩から吊ったSMGらしき銃器を左手で押さえながら頭に被ったヘルメットの下から覗く顔を黒い目出し帽で覆い、僅かに覗いた目で心配そうにこちらを見つめてくる、重装備に身を包んだ黒ずくめの男だった。
男の背後にも同じ格好をした重装備の男達が数名いる様子だった。男達は慣れた手つきでSMGを構え、四方を用心深く警戒していた。
「あなた…達は?」
死を覚悟していた自分が予想したのと全く違う展開に戸惑いながら、話しかけてきた先頭の男に静香は恐る恐る問いかけた。
男は目から下を覆っていた黒い覆面を下げると、歯並びの良い白い歯を見せて優しく微笑みながら低く落ち着いた声で静香に応じた。
「自分達は、あなた方の緊急救助要請を受けた○✕県警から派遣されて来た、県警捜査一課特殊犯捜査係SIT(Special Investigation Team)の部隊です。
自分は、このAチームを指揮している島警部補です。別チームもすでに自分達と同様この周辺に展開し、要救助者の救出及び容疑者確保のために作戦行動中です。
我々は連続殺人事件の容疑者を制圧確保し、あなた方を救出するために来たプロの集団です。ご安心下さい。」
島と名乗った40歳前後の警部補は、警察手帳を取り出して自分の身分を静香に示しながら現場の状況を簡単に説明した。
さっきまで恐怖に震えて死を半ばまで覚悟していた静香は武装した屈強な数名の男達に囲まれた事で、ようやく安心して吐いた深い溜息と共に身体から力が抜けていくのを感じた。
これで自分達は助かったのだ。静香の目から喜びの涙が流れて頬を伝い落ちた。
「私は皆元 静香という22歳の東京都内に住む大学生です。この〇X県へは5人の友人達と一緒に車でスキーと温泉旅行に来ました。宿泊先の旅館に向かう途中で、あの男に遭遇して襲われたんです。
すでに二人の友人が殺され、別の一人は左手首を切断されるという重傷を負っていて、とても危険な状態なんです、早く彼を助けてあげて下さい。お願いします。」
静香は島警部補に縋り付くようにして必死な思いで訴えた。
島と名乗った警部補は静香の左肩に優しく右手を載せ、彼女を励ますように力強い口調で答えた。
「我々SITが来たからには、もう安心して下さい。今のお話では、生存者はあなたと重症の方を入れて4名ですね。ここから少し離れた地点で救急隊も待機しています。まず、あなたを私の部下にそちらへ案内させます。
安田巡査、君はこちらの皆元さんを指揮所まで安全にご案内するんだ。急げ!」
背後を振り返った島警部補は、立ち上がって警戒していた隊員の一人に命じた。
「はっ! 了解しました! 皆元さん、安田巡査です。私がご案内いたします。こちらへ。」
上官でありチームのリーダーでもある島警部補からの命令に前へ進み出た安田と呼ばれた大柄で頑健そうな巡査が静香の前に立ち、彼女に対して敬礼を交えた挨拶をすると、すぐに彼女を案内するべく先に立って歩き始めた。
「よろしくお願いします…」
静香は安田に対して返事をすると、島警部補を始めとした他の隊員へ向けて深々と頭を下げ、安田巡査に先導されて林の中を歩き始めた。後に残った隊員達の全員が、可憐で儚げな静香の後姿を同情を込めた温かい目で見送った。
「よし。残った者は、各個警戒しつつ私に続け。行くぞ!」
静香を部下の安田巡査に託し、自分の娘を見る様な優しい目で彼女を見送った島警部補は、顎の下まで下ろしていた覆面を目の下まで上げ直すと隊員達に命じた。
それまで優しかった島警部補の目は、獲物を狩る猟師の様に油断のない厳しい目に変わっていた。
Aチームは安田巡査が外れた事で、島警部補を含めた5人の小隊となっていた。
現在、Aチーム以外にも6名ずつのBチームとCチームの各隊がそれぞれガソリンスタンドの周辺の林に展開しており、3チーム合わせて総勢18人の警官がヒッチハイカーの制圧確保のために作戦行動中だった。
それ以外の隊としては、安田が向かった作戦指揮所にSITの隊長と副長の2名を別としたDチームの重装備の警官6名が警戒に当たっている。
作戦指揮所には、SIT隊員の他に救護班と所轄の警察署から派遣された女性警察官を含めた一般警察官の数名が、被害者救護のために待機していた。
たった一人の犯罪者を確保するために動員された警官の人数と装備が大げさすぎる感があるが、○✕県内では今年の秋以降の3カ月間において、手口から今回の事件の被疑者と同一人だと思われる者による連続した複数の猟奇殺人事件が起こっていたのだ。
旅行者やドライブ中のカップル、トラック運転者などを含めた被害者はすでに合計27名にも上っていた。
○✕県警では県警本部長を最高司令官として県内の各市を跨いだ合同捜査本部を組織し、犯罪史上稀に見る一連の猟奇殺人事件の捜査に当たっていたのだった。
静香によって今回の事件発生の通報を受けた県警では、本部長自らの命令で○✕県警の特殊犯捜査係のSIT(Special Investigation Team)の部隊が非常招集され、今回の任務に投入する事になったのである。
マスコミやSNS等で日本全国に知られる事になった連続猟奇殺人事件の犯人確保のための本作戦は、○✕県警の威信がかかっていたのだ。
********
安田巡査が静香を連れて指揮所に向かった少し後の事だった。
ビイイイイイイイーーーーッ!
吹雪が荒れ狂う夜間の山中に、突然けたたましいクラクションの音が鳴り響いた。
誰も知る筈が無かったが、このクラクションは伸田がエリの死体に驚いた拍子に誤って鳴らしたものだった。
「何だ、あのクラクションは? 富山、何か分かるか?」
島警部補が近くを歩いていた部下の富山巡査に問いかけた。
「自分にも、はっきりとした事は分かりません。ですが… 国道からガソリンスタンドへと入る進入路の入り口付近にエンジンのかかっていない白い大型SUV車が一台停車していたのを、遠巻きではありましたが自分は確認しています。このクラクションの音源は方向から類推して、あのSUV車の辺りではないかと思われます。」
富山巡査は自分の私見を交えながら、上司である島警部補に返答した。
「よし、俺と富山の2名で今からクラクションを鳴らした車に向かう。他の3名は各個に林の中を警戒しつつ、俺と富山を援護しろ。富山、行くぞ!」
「はい!」
「了解!」
「了解です!」
「分かりました!」
隊員達の全員が島警部補の命令に応じた。
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ガソリンスタンドから数十m離れた地点にある製材所の木材置き場の一角に数台の警察関係車両が停められ、製材所の事務所内に今回の連続猟奇殺人及びガソリンスタンド放火事件に対処するために派遣されたSITの作戦指揮所が置かれていた。
吹き荒れる吹雪の中、安田巡査に案内された静香は、この作戦指揮所に連れて来られた。
停車中の警察車両の中には現場指揮官車もあったが、安田巡査は当作戦の実施に当たり製材所の協力を得て事務所内に臨時に設けられた仮の作戦指揮所に静香を案内した。
事務所の入り口前に立ち、警備に当たっていたSIT所属のDチームの隊員に対し、安田巡査は敬礼をして用件を伝えた。
「Aチームの安田巡査、班長の島警部補の命令により、被害者のお一人である皆元さんをお連れしました。」
安田に対して敬礼を返しながら警備任務のSIT隊員が答える。
「ご苦労様です。島警部補より無線で連絡を受けておりますので、安田巡査は皆元さんをお連れして中へお入り下さい。隊長と副長がお待ちです。」
警備の警官が安田巡査にだけでなく、静香に対しても丁重に敬礼した。
「Aチームの安田巡査、島警部補の命令で被害者の皆元さんをお連れしました!入ります!」
中に安田巡査と迎え入れられた静香は、椅子から起立した隊長と副長と思われる指揮官達と面会した。
SMGこそ携行していなかったが、この指揮官二人も隊員達と同じヘルメットを被り、作戦遂行用として防弾・防刃効果のあるボディーアーマーを着用していたし、腰には拳銃の納められたホルスターも装備していた。
二人は不安そうな表情をした静香を、温かい笑顔と親切な態度で丁重に迎え入れてくれた。
安田巡査は入口横で直立不動の姿勢で立ち、上官達に向けて最敬礼した後、緊張に上ずった声で報告した。
「隊長! 安田巡査、島警部補の命により被害者のお一人でいらっしゃる皆元さんをお連れ致しました。」
上官二人を前にして緊張でカチカチになって敬礼する大男の安田巡査を横目で見た静香は、微笑ましくて思わず顔がほころんだ。
報告を受けている二人の上官も、自分達を目の前にしてしゃちこばった部下の態度に笑いをこらえているのが静香にも分かった。彼女には判別出来なかったが、上官の二人のうち階級が高いと思われる方の人物が安田に敬礼を返した。こちらの人物が安田が緊張しながら報告をした隊長なのだろうと静香は思った。
「ご苦労だった、安田巡査。ご苦労だが、君はすぐに現場に戻り、島警部補に皆元さんの指揮所への無事到着を報告してくれ|給え。そして、そのままAチームの任務に復帰するんだ。」
「はっ!了解しました! 安田巡査、これより現場に戻り、任務に復帰します。」
隊長らしい警察官の指示を受けた安田巡査が、再び上官に対して最敬礼をして返答した。このやり取りを聞いた静香は、安田巡査に頭を下げて礼を述べる。
「安田さん、ここまで連れて来ていただいてありがとうございました。友人達の救助をよろしくお願いします。」
美しく清楚な静香に、感謝の思いがこもった礼を言われた若い安田巡査は顔を真っ赤にして照れた笑いを浮かべ、もう一度二名の上官と静香にそれぞれ敬礼をして部屋を出て行った。
「皆元さんですね。私は、この作戦において〇✕県警所属のSIT部隊を率いている指揮官の長谷川警部です。こちらは副長の横田警部補です。
この度は大変な目に遭われましたね。
亡くなられた御友人の方々には、心からお悔やみを申し上げます。お気持ちはお察しします。どうぞ、そちらにお掛けになって下さい。早速で恐縮なのですが、被疑者確保のために事件に関するお話を伺わせて下さい。」
長谷川警部に丁重に勧められるままに、静香は向かいの席に腰を下ろした。
すぐにSIT隊員ではなく通常の制服を着た女性警官によって、静香の元へ熱いコーヒーが運ばれて来た。
「どうぞ。身体が温まりますよ。」
女性警官は優しく微笑んでコーヒーを静香の前に置くと、敬礼をして部屋を出て行った。
静香は礼を言って、熱いコーヒーをブラックのまま口に運んだ。ほど良く効いている室内の暖房に加え、コーヒーで身体が中から温められ、ようやく静香は人心地付いた気がした。
「では皆元さん… あまり思い出したくは無いとは思いますが、今回の事件について最初からお話し願えますか。被疑者に関する情報を出来るだけ知っておきたいのです。」
長谷川と名乗った警部が静香に対し、丁重ではあったが事情聴取を連想させる鋭い眼光と有無を言わせない口調で切り出した。
静香は前に座る長谷川の目を見つめながら頷くと、山道でヒッチハイカーと出会ったところから順を追って話し始めた。
********
伸田は親友の剛士と彼の恋人であるエリの亡骸に心を込めた合掌をした後、武器代わりのタイヤレバーを強く握りしめながら自分の車を出た。
「あのクソ野郎… みんなの弔いのために、僕が必ず叩きのめしてやる…」
大切な仲間を次々と殺された伸田の胸中に渦巻いていた恐怖と怒りは増大し、ヒッチハイカーに対する殺意にも似た強い憎悪へと変わっていた。
この時点で、連続殺人犯であるヒッチハイカーの制圧確保と自分達を救出するための作戦が、この周辺の一帯において遂行中なのを、残念な事に伸田は全く知らないのだった。
もしも伸田が近くを探索中の警察に出会い、彼らに保護を求めていたなら、この後の事件における展開は変わっていたかもしれない… だが、不運にも偶然この事件に関わってしまっただけの伸田には、自分の知らない所で事態がどう進行しているかなど知る由も無かった。
神と違って自分一人の未来さえ予測する事の叶わぬ憐れな人間に過ぎない者達は、ただ歯車の一つとして運命の流れに飲み込まれていくしか無いのだろうか…?
伸田が静香を捜すために、再びガソリンスタンドに向かいかけた時だった。
タタタタタタタッ!
「ギャアーッ!」
「く、来るな! 化け物っ!」
「撃て! 撃て!」
「うわあああーっ!」
「仲間を撃つんじゃないぞ!」
吹き荒れる吹雪の中に突然、明らかに人工的で軽快な音が小刻みに鳴り響いたかと思うと、数人だと思われる男の悲鳴と怒号が上がった。
伸田は訳の分からないまま両手で頭を抱え、その場に伏せた。
タタタタタタタタッ!
タタタタタタタッ!
「怯むな! 撃てえっ!」
「やっ、やめてくれっ! うぐっ!!」
タタタタタタタッ! タタタタタタタッ!
タタタタタタタタタッ!
「ぐわっ! 助けてくれえ!」
タタタタタタタタッ!
タタタタタタタッ!
「バカ! 味方を撃つんじゃない!」
「うわああーっ!」
タタタタタタタッ!
「何だ? あれは銃声…? 軽機関銃か? それに男達の悲鳴が…」
いったい何が起こったのか、吹雪の中に突然響き渡った複数の機関銃らしき発砲音と、銃の発砲者と思われる複数の男達が発する悲鳴や怒号を耳にした伸田は恐る恐る立ち上がると、身を隠す遮蔽物を求めて、ミチルの遺体が安置されている倉庫へ向かって走り出した。
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連続する銃声と悲鳴をゴングにして、新たな戦いが開始された。もう、伸田とヒッチハイカーだけの一対一の小規模な戦いでは無い。
強い吹雪の吹き荒れる真夜中の山中において、戦いの参加者達それぞれの思いを載せた恐ろしい運命の歯車が動き始めたのだ…
殺戮を繰り返しながら破滅へと向かって時を刻み始めた歯車は、もう誰にも止められないのだろうか…?




