第6話「どうしても南へ行きたいんだ…④『絶対に生き延びるんだ!』」
「ダメだ…エンジンの音がおかしくなってきた。ガソリンスタンドまで、もう少しだっていうのに…」
運転している伸田 伸也が絶望した様な声で、車内の誰もが聞きたくなかった非情な現実問題をつぶやいた。
「もうガソリンが完全に無くなったのね、ノビタさん…」
伸田の恋人であり助手席に座った皆元 静香が、隣りで運転する伸田に向かって囁くように小さな声で言った。優しい静香としては自分達のすぐ背後のセカンドシートにいる水木エリと、彼女の恋人で切断された左腕からの失血多量で意識を喪失している幸田剛士に今以上に悪い話を聞かせたくなかったのだ。
彼ら4人の生存者と既に犠牲者となった須根尾 骨延の遺体が乗る車の屋根の上からは相変わらずギシギシという軋み音と、「パンッ!パンッ!パンッ!」という須根尾の恋人だった山野ミチルを乱暴に犯す行為の音が鳴り止まずに続いていた。
だが、さっきまでフロントガラスの上部から逆様になって覗いていた、ミチルの血まみれの顔と両手は屋根の上に引き上げられ、車内にいる者達の視界から消え去っていた。
ヒッチハイカーが自分の逞しい下半身をミチルの肉体に繰り返し打ちつける激しい打擲の音と振動のみが外の吹雪を圧するように伝わってくるだけで、先ほどまで上げられていたミチルの悲痛な泣き声も苦し気な呻き声も今では全く聞こえなくなっていた。
「ミチルちゃん、大丈夫なのかしら… 声が聞こえなくなったけど…」
友人の身を案じる静香が不安に満ちた目で天井を見上げながらつぶやいた。
「分からない… 声がしなくなったのが、彼女が意識を失っただけならいいんだけど…」
口ではそう言ったものの、内心では伸田はミチルの生存を絶望的だと思っていた。
『この厳冬の山中で裸にされたままの人間が、走行中の車の上で吹き晒しの吹雪を受けながら長い時間を生きていられる筈がない…』
伸田だけでなく、静香にしろ剛士を介抱中のエリにしろ口にこそ出さなかったが、内心で考えている事は皆同じだった。誰もがミチルの生存は絶望的だと思ってはいても、その恐ろしい現実を自分で口にする事が怖かったのだ。
だが、伸田にとって幼い頃からの親友であった須根尾の命を無残に殺害したヒッチハイカーが、彼に続いて恋人のミチルの命まで奪い去ったという悲しくも残酷な現実から目を背け続けている訳にはいかなかった。
今は自分を含めて残った4人の生存と安全を何よりも優先させなければならない。特に切断された手首から流れ出した大量の出血で衰弱し続ける剛士を、一刻も早く救急救命施設に運び込まなければならないのだ。剛士の命は、まさに風前の灯火と言える状態だったのだから…
「とにかく…何とかヤツから逃げ切って、ジャイアンツを病院に連れて行くためには、ちゃんと走れる乗り物が必要なんだ。この車のガス欠を何とかするか、他に走れる車を見つけなきゃならない。どっちにしても、炎上中のガソリンスタンドにまで戻れば何とかなるかもしれない。僕はそう考えてる。
あのガソリンスタンドまでは下り坂だから、なるべくアクセルを踏み込まずに、このまま惰性で走れる所まで走らせてみるよ。」
前方を見てカーブの多い山道を慎重に運転しながら、伸田は助手席に座る静香に自分の考えを伝えた。
「それからどうするの? あのヒッチハイカーが、また私達を襲って来るかもしれない…いえ、きっと襲ってくるわ。そう思って戦う準備をしておいた方がいいと思う。」
自分達が乗った走行中の車の屋根の上でミチルを犯し続けるという蛮行を止めようとしない、常軌を逸した狂人であるヒッチハイカーに対する恐怖の最中にあっても、静香の目には戦う意思を示す強い光が僅かに垣間見え、彼女の声にも希望を失わない調子が感じ取れた。
伸田は、そんな勇敢な女性が自分の恋人である事を心から誇らしく思った。
幼少時から臆病だグズだノロマだと周囲から言われ続け、いじめられてきた自分の事をどんな時も見捨てる事無く、いつも庇い励まし続けてくれた女神のような存在…その慈愛に満ちた美しい女性が、今では信じられない事に自分の恋人なのだ。
この愛する静香だけは、自分の命に代えても守らなければならない…と伸田は心に固く誓った。
ガタン…ガタン、ガタン… プスン、プスン…
伸田達が乗る車に、とうとうガス欠による限界が来たようだった。エンジンが臨終を迎える間際の喘鳴の様な憐れな音を発し始めていた。
伸田が運転する車は先ほど一度たどり着いたのにもかかわらず、屋根に乗ったヒッチハイカーを振り落とすために遠ざかるしか無かったガソリンスタンド付近まで再び戻って来たのだった。
黒煙を雪空に巻き上げ、夜の山中を明々と照らし出しながら、まだ勢いよく燃え続けているガソリンスタンドまで100mほどの地点で国道はスタンドへ進入する道へと分岐しているのだが、進入路に入ってわずか数mの地点で下り坂が終わり、後は平坦な道になる。その平坦な道を数m入った時点で遂にエンジンが終焉を迎え、坂を下る惰性で走らせていた車の走行が完全に止まってしまった。
「ここまでだ…」
ヒッチハイカーによってガラスを割られた後部と左中央部の2枚の窓から吹雪が入り込み、ヒーターの切れた車内の温度は外気温と同程度にまで冷え切っているにもかかわらず、額に汗を浮かべた伸田が皆に告げた。
「いいえ。ここまで頑張ってよく走ってくれたわ、車もノビタさんも。」
静香が両手で伸田の左手を包んで握りしめ、恋人である彼の健闘を称えた。
「そうだよ、ノビちゃんは本当に頑張ってくれたよ…」
セカンドシートで、恋人であり出血多量で既に意識の無くなった剛士の身体を両腕でしっかりと抱きしめて自分の体温で温めてやりながら、エリが衰弱した顔に弱々しい笑みを浮かべて言った。
「ありがとう、シズちゃんにエリちゃん…
でも…ここからは、もうこの車は使えないんだ。それに、今も屋根にいるアイツを何とかしないと…」
そう言って伸田は天井を見上げた。
パンッ!パンッ!パンッ!パンッ!
停車した今もまだ、裸の肉体同士を打ち付け合う卑猥な音が割れた窓から休み無く聞こえ、停止した車体が繰り返される激しい動きのためにギシギシと揺れ続けていた。
ヒッチハイカーは止まった車の屋根の上で、まだミチルの身体を犯し続けている様だった。走行中の車の屋根の上で裸に剥かれた姿で真正面から吹き付ける吹雪を直接浴び続けたミチルは、寒さで既に凍死していたとしてもおかしくはない。
つまり、ヒッチハイカーは息絶えたミチルの死体を自分が満足するまで犯し続けているのだろう。彼は自分が殺した人間の遺体を、死して後も冒涜し続けるという、到底正常な人間とは思えない行動をとり続けているのだ。
前途ある青年の須根尾を何の躊躇いも無く惨殺し、その恋人のミチルまでを死に至らしめ、なおかつ彼女の遺体を自分の性欲を満たすためだけに死した後まで冒涜し続けている… 意識の無い剛士を除いた仲間達全員がヒッチハイカーに対する怒りと悔しさで、それぞれに唇を噛んだり歯ぎしりをしながら、寒さだけではなく強い憤りに身を震わせ続けていた。
「とにかく、ここで何もしないで寒さと恐怖に震え続けていても仕方が無い。僕が歩いてガソリンスタンドまで行く。炎上してるけど、全部が燃えてる訳じゃない。そこで町まで連絡する手段と、みんなが避難出来る場所が無いか探してくるよ。
それに、可能なら僕がそのまま囮になって、この車からヤツを引き離す。エリちゃんとシズちゃんは車内でジャイアンツの事を頼んだよ。」
伸田が女性二人の顔を交互に見ながら自分の考えを告げた。
「ノビタさん、私も行くわ。」
静香が伸田の肩に手を載せ、彼の目を覗き込むように見つめながら言った。揺ぎ無く真っ直ぐに見つめてくる彼女の二つの瞳は伸田の意見を求めている訳ではなく、有無を言わせない自分からの宣言をである事を物語っていた。
「だ、ダメだよ…シズちゃん。とても危険なんだ。」
慌てた伸田は静香の両肩を掴んで、寒さだけでなく不安のために顔が蒼白になっていてもなお美しい彼女を説き伏せるべく強い口調で訴えた。
だが、伸田は静香の美しい瞳の中に断固として譲るつもりのなさそうな強い意志の光を見て取ると、幼い頃から彼女の性格を熟知しているだけに、それ以上の説得は無駄だと知って諦めざるを得なかった。
彼は幼少の頃からの付き合いに加え、恋人として他の誰よりも彼女の正義感と意志の強さを深く理解していたのだ。
自分の恋人であり、婚約者でもある皆元静香という女性は、一見儚げに見えるほど透明な美しさの外見とは裏腹に、一度自分が決めた正しいと思う事は他の誰が何を言っても曲げないほどの強い意志の持ち主でもあったのだ。
そして、不正や悪などの曲がった事の大嫌いな強い正義感を持った女性でもあった。
「分かったよ……じゃあ、二人で行こう。エリちゃん、君一人になってしまうけど、ジャイアンツの事を頼めるかい?
僕達が必ず助けを呼んで、救援が来るまでの安全な避難場所を見つけて来る。」
炎上中のガソリンスタンドまで静香と二人で行く事を決意した伸田は、セカンドシートで恋人である剛士の意識の無い身体を抱きかかえて温め続けるエリに聞いた。
「ええ、剛士の事は私に任せてちょうだい。乱暴なヤツだけど私の大切な彼氏だからね。
その代わり、あなた達二人で必ず助けを呼んで来てちょうだい。私はここで剛士を守っているわ。今、彼を動かす訳にはいかないから…」
エリが伸田と静香を安心させようと、決意を固めた顔に微笑みを浮かべながら言った。伸田は、いざとなると男なんかよりも女性の方が圧倒的に強いという事を目の前にいる二人の女性に改めて思い知らされた気持ちだった。
「エリちゃん、武器らしい物といっても…これしか無いんだけど、君が持っていてくれ。それに何かの時はこれを使って…」
そう言った伸田がグローブボックスから取り出した十得ナイフをエリに手渡した。それには刃渡り6㎝のナイフを始めとしてドライバーやコルク抜き等が付いている。何も無いよりはましという気休め程度でしかなかったが…
そしてもう一つ、助手席の静香の足元に屈み込んだ伸田は、車への装備を義務付けられている発煙筒を取り外すと、エリの座るシートに置いた。これとて、着火した一瞬だけしかヒッチハイカーを怯ませる役にしか立たないかもしれない…そう思いながらも、伸田は車内に残して行く二人のために少しでも何かをしておきたかったのだ。
「ありがと、ノビちゃん。二人とも本当に気を付けてね。私達二人のためにも、あなた達も絶対に死なないで。」
エリは震え声で言うと二人に右手を差し出した。そして伸田と静香と順に強く握手をした後、軽く手を振って二人にもう行くように促した。エリの目には涙が光っていた。気丈にも強い態度を見せてはいるが、彼女の不安な気持ちは察するに余りあった。
「きっと助けを呼んで戻って来るよ。いいかい、エリちゃん、僕らは絶対に生き延びるんだ。」
伸田がエリに向けて握った右拳を突き出しながら言った。本来ならエリを元気づけるために景気よく大声で励ますところだが、屋根の上にヒッチハイカーがいるために小声だった。
「行ってくるね、エリちゃん。待っててね。」
伸田を真似た静香も握った右の拳をエリに向けて見せた。
エリは涙をボロボロとこぼしながら何度も頷いた。
伸田と静香も、エリを安心させようと二人揃って何度も大きく頷きながら小さく手を振った。
運転席側のドアを静かに開けて、伸田と静香は順に車を出た。そして、そっと後ろ手でドアを閉めた二人はゆっくりと車を離れた。
パンッ!パンッ!パンッ!パンッ!
十数m歩いた地点で伸田が振り返って見ると、忌まわしい事に屋根の上で下半身を丸出しにしたヒッチハイカーが全裸にしたミチルの遺体をバックから犯し続けていた。伸田と静香にとって幸いだった事に、夢中で腰を振り続けるヒッチハイカーの背中が自分達の方に向けられていた。
ミチルには申し訳なかったが、ヤツが彼女の遺体に夢中で腰を振り続けている間は二人に注意が向かないと思われた。大切な仲間の遺体に対するヒッチハイカーの忌まわしい冒涜行為には強い憤りを覚える二人だったが、男に気付かれない様に注意しながら乗っていた車を後にして静かに歩き出した。
伸田は炎上しているスタンドへの一本道を歩くのは避け、静香の手を取って道沿いの林に向かった。見通しのいい道路を行くと、車上にいるヒッチハイカーにすぐに見つかってしまう。
夜間の冬の山中を吹きすさぶ雪の混じった強い風が、林を歩く二人に向けて木立の間から容赦なく吹き付けて来た。だが、今なお炎上し続けるスタンドの炎のお陰で辺りは少しも寒くは無く、明るさに困る事も無かった。年の押し迫った12月下旬の冬の山中で、凍える事を心配しないで済む事が二人には何よりありがたかった。
「ノビタさん、これ見て!」
興奮した口調で呼びかけながら、静香が握っていた伸田の左手を引っ張った。振り返った伸田は、左手に握った自分のスマホの液晶画面をこちらに向けて興奮している静香を見た。
「スマホがどうしたの?」
「私のスマホ、『圏外』のままなんだけど、Wifi接続なら使えそうなのよ。」
今にも飛び上がりそうな勢いの弾んだ声で、嬉しそうに静香が言った。
「本当だ…」
静香が手に持ったスマホの通信状態を示すアンテナが全開の状態で立っていた。
興奮した伸田は、慌てて自分のスマホも確認してみた。やはり、通信ネットワークは『圏外』の表示のままだったが、このガソリンスタンドが客向けサービスで行なっていると思われる無料Wifiスポットを利用した通信ならば使えそうだった。
スタンドは今も炎上を続けていたが、施設の全てが燃えている訳では無く、部分的に電気も生きていてWifiスポットも正常に稼働している様だった。
そして、ありがたい事に、そのWifiスポットはパスワード無しで誰でも利用出来るみたいだった。
「そうか、この場所はあのスタンドがサービスでやってる無料Wifiスポットのエリア内に含まれているんだ。きっとスタンド自体は有線で町と繋がってるんだよ。だから山の中で吹雪が吹いていても通信可能なんだ。
これなら通信アプリを使って救急にも警察にも連絡出来るよ、シズちゃん。」
すでに須根尾とミチルという二人の犠牲者が出てしまっていたが、文字通りに困難な道をここまで来た伸田達二人にとっては、沈み続けていた心に一筋の光が射し始めた気分だった。
「警察にはシズちゃんが連絡してみてくれないか。
まず、友人二人を殺した連続殺人鬼に現在も生存者が狙われている事と、命の危機に瀕している重症の被害者がいる現状を警察に報せて、犯人の確保と生存者の救援を要請するんだ。
僕は、この付近で避難出来そうな安全な場所を探してみる。それにヤツに対抗出来るような武器もね。」
伸田がテキパキと自分に対して指示するのを聞いて、恋人の静香は口をポカンと開けて聞いていた。
幼い頃から自分が付いていないと、何をさせても危なっかしくて見てられない男だったのに、今目の前にいる彼は人が変わった様だった。
今回の非常事態を経験した事によってグズでノロマだった伸田伸也は、まるで一皮剝けたみたいにしっかりとした頼りがいのある青年へと変貌を遂げつつあるのだ。恋人である静香にしてみれば、頼りなかった自分の彼氏が本来の能力に覚醒したように思えて嬉しくて仕方が無かった。
こんな際に不謹慎だったが、伸田の男としての頼もしい変化を静香は恋人として好もしく思った。
「分かったわ、ノビタさん。」
キラキラした目で自分を見つめながら、静香が嬉しそうな声で返事をするのを、不思議そうな表情で伸田が見返した。すると、静香の顔に愛らしい微笑が浮かんでいるので、訳が分からないながら伸田も嬉しくなって笑ってしまった。
「何だい?」
「ふふふ、何でもない。」
伸田の問いかけに静香は小さく笑って首を左右に振った。自分自身の変化に気付いていない伸田には、もう少し黙ったままでいようと静香は思ったのだ。そうすれば彼は今以上に進化する…そんな風に静香は考えた。
林を抜けてスタンドの燃えていない場所へと向かう前に、伸田はエリ達を残して来た自分の車の方を振り返った。今いる場所から木の間を通して見えるのだ。
「うっ! シズちゃん、車の屋根の上にヤツの姿が無い…」
「ええっ?」
伸田の言葉に、自分でも車の方を見た静香も同じ光景を認めた。
「あの男…どこに行ったの? 酷いわ、何て事を… ミチルちゃんの身体が裸のまま車の横に放置されてる…」
静香の言った通りだった。ついさっきまで、ミチルの遺体を死姦し続けていたヒッチハイカーの姿は無く、無残にもミチルの遺体は遊ぶのに飽きた壊れた玩具の様に、全裸のまま凍てついた地面に捨てられていた。
「ああ、惨い事をしやがる… ミチルちゃんはスネオにお似合いの可愛くていい娘だったのに。恋人同士の二人が揃って、あんな残酷な殺され方をするなんて…
そうだ、エリちゃんとジャイアンツは大丈夫かな…?」
伸田の頭に恐ろしい想像が浮かび、同じ様に不安げな表情で自分を見つめる静香の顔を見返した。彼女の目にも自分と同様の恐怖の色が浮かんでいた。
「シズちゃん… とにかく僕達は今はヤツに用心しながら、さっき話した計画を実行するしかない。行こう!」
伸田は不安そうな静香を肩に手を回し、彼女を励ますように力強い声で言った。
「分かったわ、ノビタさん。行きましょう。
あの可哀想な二人は、後で必ず丁重に弔ってあげましょう…」
そう言いながら自分達の車に背を向けた静香の目には涙が光っていた。
「ああ、もちろんだよ。」
力強く頷き返した伸田は、愛しい恋人の華奢でほっそりとした左手を自分の手で包み込むようにしっかりと握りしめ、用心して何度も周囲を見回すと、炎上が続くスタンドの敷地内でまだ燃えていない安全な場所を求めて歩き始めた。
伸田は静香の右手を自分の左手で引きながら、燃え盛る炎に衣服や身体を焼かれない程度に安全な距離を保ったまま、炎上するスタンドの周辺を用心しながら歩いた。
「ダメだ… ガソリンスタンドの事務所は大半が燃えちゃってる。炎で近寄る事さえ無理そうだ。」
「ノビタさん、私思ったんだけど… このガソリンスタンドが爆発炎上したのって、事故じゃなくてヒッチハイカーの仕業なんじゃ…」
静香が伸田の手を握る自分の手に力を込めて言った。
伸田も静香の手を握り返し、辺りを見回した後に彼女の顔に目を戻して言った。
「僕も同じ事を考えてたんだよ、シズちゃん。これはきっとアイツがやったんだ。おそらく、僕達に給油をさせないためだろう。狡猾なアイツは僕達を逃がさないつもりなんだ…
それにしたって、このスタンドにも誰か人がいただろうに… 何て事をしやがるんだ。人の命なんて何とも思ってないのか? ヤツは本当に狂ってる… ひょっとして真正のサイコパスか何かじゃ…?
ちくしょうっ! 忌まわしい、狂った殺人鬼め!」
話している内に興奮してきた伸田を静香が自分の方に向けさせ、強く彼を抱きしめて言った。
「落ち着いて、ノビタさん。怒りで自分を身失なっちゃダメ…こんな時こそ冷静にならなくちゃ。
今日のノビタさん…自分では気付いていないみたいだけど、いつもと違ってとても素敵なのよ。その調子で私の事を必ず守ってね。」
愛する静香からかけられた優しい言葉で、伸田は昂っていた自分の気持ちが鎮まり、落ち着いて来るのを感じた。そして愛しい恋人の美しい顔をまじまじと見つめながら思った。
『シズちゃんだって、すごく怖い筈なんだ。怖くてたまらない筈なのに、彼女は冷静さを失いかけた僕を落ち着かせようと、気丈な態度で振舞って優しい言葉をかけてくれる… ホントに、なんて素晴らしい女性なんだ。』
伸田は一度深呼吸をした後、静香に笑顔を向けて言った。
「ありがとう、シズちゃん… もう大丈夫だよ。君のおかげで落ち着く事が出来たよ。僕らが生き抜くためには、落ち着いて冷静に行動しなきゃダメなんだよね。」
それを聞いた静香は嬉しそうにコクンと小さく頷いた。
気丈な態度を見せる静香だって、自分達の現状が怖くてたまらないはずなのだ。本当のところは怖くて仕方が無かったのだろう。それが証拠に、伸田に強く押し付けて来た彼女の華奢な身体は小刻みに震えていた。 そんな静香を伸田は力いっぱい抱きしめた。ほんの束の間でも、そうして抱き合っている間だけは互いの体温に直に触れて安心感を得る事が出来た。
「シズちゃん、あれを見て…」
そっと静香を自分の身体から離し、彼女の後ろを指差しながらが言った。
「えっ、何…?」
後ろを振り返った静香は、燃え盛るスタンドの炎に隠れて自分達から見え難い場所に立っている倉庫が目に入った。
「あれは倉庫かな…? あそこへ行って見よう。」
伸田の提案に静香は頷いた。倉庫なら何か役に立つ物が見つかるかもしれない。
倉庫は炎上している地点からから少し離れた場所に建っているのと、防火効果の高い難燃性の材質が使われているためだろう、今も類焼を免れていた。二人は倉庫に向かって慎重に近付いて行った。
何かの作業途中だったのか、倉庫の前面にあるシャッターは閉じられてはおらず、大人が優に立って通れるくらいの高さに開かれていたため、外からでも中の様子を容易に覗く事が出来た。
そこには、たくさんの車のタイヤが積まれていたり、整備に使う様々な工具や機械が所狭しと置かれていた。このガソリンスタンドの倉庫を兼ねた整備工場の役目も兼ねた場所らしい。
倉庫の中は天井の照明で明々と照らされていた。タイヤを全て取り外され、開いたボンネットから整備中のエンジ剥き出しになったままの乗用車が一台止められていた。
「この車で逃げ出せればよかったのに…」
車のボディーにそっと触れながら、静香が残念そうにつぶやいた。
「大丈夫だよ、シズちゃん。僕の車もガソリンさえ入れれば、また走れるんだから。でも、ガソリン給油用に使われる機械は爆発で吹っ飛んだみたいだ…
あっ、これは武器に使えそうだ。」
そう言って伸田は、整備中の車の傍に置かれていたタイヤレバーを拾い上げた。長さは1m弱で2㎏程の重量があるバールに似た金属製の棒だった。それは形状と言い丈夫さと言い、十分に手頃な武器となり得る工具だと言えた。
だが、160cmで50㎏未満で身体つきの華奢な静香には、武器として振り回すのは難しいだろう。
なので伸田は長さが50㎝程で重量も700g程度で、頑丈でしっかりとした割に持ちやすいトルクレンチを静香用の武器として選び出し、彼女に手渡した。これなら女性でも無理なく振り回せる。
伸田は自分様にももう一本手頃なサイズのスパナを選んでズボンのベルトに差し込んだ。
「よし、取りあえずだけど武器は手に入れた。何も無いよりはましだ。
さあ、シズちゃんは倉庫の隅に隠れて警察に連絡してくれ。僕は給油するためのガソリンを探してみる。それに一度、僕達の車の様子を見て来るよ。」
そう言って伸田は静香の顎に手をかけて上を向かせ、彼女の形のいい唇にそっとキスをした。静香からも唇を押し付けて来て、二人はどちらからともなく舌を相手の口内に差し込んで互いに絡ませ合った。
少しの間、二人は抱き合ったまま互いの唾液を交換し合った。こんな状況であるにも拘らず硬くなった伸田の股間を静香は愛おしそうに撫でさすった。それに応える様に伸田も静香の尻の割れ目を右手の指先でなぞっていき、彼女の敏感な部分を優しく愛撫した。
こんな状況で不謹慎だと思えるが、愛し合う二人は慣れ親しんだ互いの身体を確認し合う事で、自分達の生への執着心を高めようとしているのだった。目の前の恐怖に打ち勝つために、愛するパートナーの身体を求めたいと思う人間の心理だろうか…
「ああぁ…」
静香が切ない声を上げた。
だが、伸田は硬く勃起した自分のイチモツを、そのまま静香の右手の愛撫に委ねていたい欲望に逆らう強い意志を発揮して、押し付けていた自分の股間を彼女から引き離した。
「こんな状況で何だけど、正直に言うと今すぐにでもシズちゃんを抱きたい…愛し合いたい… でも、今は我慢するよ。必ず生き延びて、ちゃんとしたベッドで心ゆくまで君を抱くんだ。」
毅然とした伸田の言葉に潤んだ瞳で見返す静香も、ため息を吐きながらコクンと頷いて見せた。
頼もしく変貌した伸田の男らしい態度に、静香は今まで以上に自分が魅かれているのを感じた。私も今すぐこの男と愛し合いたい…女として彼女は心からそう思った。
「よし。じゃあ、さっき言った手順で行動しよう。いいね。」
そう言って名残惜しそうに静香から身体を離した伸田は、キョロキョロと辺りを見回して物音を立てない様に注意しながら歩き始めた。
愛する伸田の後姿を見送った静香は、倉庫の隅の物陰に身を隠すように座り込み、ショルダーバッグからスマホを取り出すと急いで110番をコールした。
幸いにもすぐに電話は繋がり、こちらを安心させる様な相手の落ち着いた声が聞こえて来た事で静香は心底ホッとした。
『はい、こちら警察110番です。 事件ですか、事故ですか?』
その声を聞いて安心のあまりワッと泣き出しそうになった静香は、出来るだけ興奮しない様にと心の中で自分に言い聞かせながら、可能な限り落ち着いた口調で話し始めた
「もしもし、事件です。緊急事態なんです…
私の友人が二人殺されて、別の一人が重傷で今にも死にそうなんです。ヒッチハイカーを装った殺人鬼がまだ私達のそばにいます…すぐに助けに来て下さい…」
そこまで警察に告げた静香は言葉を切って息を呑み込んだ。突然、自分の目の前に何かがゴロゴロと転がって来たのだ。
目の前で止まったその物体を認識した瞬間…静香は、けたたましい叫び声を上げていた…
「ひっ! ひいいぃーっ! きゃあああーっ!」
静香の目の前で止まった物体には黒い髪が生え、目があり鼻と口まで付いていた。それどころか、静香の良く見知った顔だった…
それはヒッチハイカーによって切断され、行方が分からなくなっていた幼馴染の須根尾の生首だった。そして、光を失い濁った色をした二つの目が静香を上目遣いにジッと見つめていた。
『もしもし! どうしました? 何があったんです! もしもしっ!』
回線が繋がったスマートフォンの向こうで、ただならぬ静香の様子と悲鳴を聞きつけた警察官の慌てて怒鳴る声が何度も聞こえて来た。
さらに恐怖の叫び声を上げそうになるひっし自分の口を必死で左手で押さえた静香は、大声で問いかけ続ける相手の声を黙らせるべくスマホを切った。首を放り投げて来たヒッチハイカーが近くにいるのだ。聞かれるとまずい…
『ひどい、何て事を… スネオさんの首… アイツが来たんだわ…』
静香は怖くて目を閉じたいのに、こちらを見つめたまま二度と動く事のない須根尾の恐怖に見開いた目から視線を外せなかった。声を上げる訳にいかない彼女は、口を押えたまま涙をボロボロと流しながら心で強く祈った。
『ノビタさん、助けて…』
********
自分を安心させるために鋼鉄製で頑丈なタイヤレバーをしっかりと右手に握りしめ、伸田は周囲を用心しながら倉庫から事務所を隔てた反対側を探索しめた。そちら側にも、まだ燃えていないプレハブ製で小作りな建物があった。建物というよりも小屋という方が適切だろう。
小屋の扉には赤いペンキを使った手書き文字で『WC』と書かれている。職員や来客が使用するための屋外トイレなのだろう。粗末な造りだったが、山中にあるガソリンスタンドならこんなものだろうな…伸田はそう思った。彼はタイヤレバーを構えながらトイレの中を恐る恐る覗き見たが、清掃の行き届かず薄汚れている以外にこれといって怪しい様子は無かった。
トイレの横には業務用の大きなゴミ箱が設置され、中には産業廃棄物が放り込まれている。その隣に大型のバイクが一台と古い原付バイクが一台止めてあった。どちらもキーは挿さっていなかったが、壊れたり廃車されている訳では無く、従業員の乗り物の様だった。
二台のバイクを見た伸田の頭に考えが浮かんだ。
「そうだ。どこに保管されているか分からない中身の入ったガソリンタンクを探し回るよりも、このバイクから直にガソリンを抜き取ればいいじゃないか。さっきの整備中の車からもガソリンが手に入るかもしれないぞ。道具さえあれば可能なはずだ。
少しずつでもガソリンを集められれば、もう一度僕の車を動かせる。もう、シズちゃんは警察に連絡してくれたと思うけど…とにかく、いったん彼女にいる倉庫に戻ろう。道具も探さなくちゃならない。」
小さな声で独りつぶやいた伸田が、静香のいる倉庫へ戻ろうとした時だった。
「ひいいぃーっ! きゃあああーっ!」
さっき出て来た倉庫の方角から、甲高い女の悲鳴がほとばしった。
「あれは、シズちゃんの声… しまった! ヒッチハイカーのヤツ、彼女を!」
伸田は右手にタイヤレバーを強く握りしめ、吹き荒れる吹雪の中を倉庫へ向かって全速で走った。
外側が火災に照らされて真昼のように明るい倉庫に急いで戻った伸田伸也は入り口から中の光景を覗き見た途端、茫然としてその場に立ち尽くした。
さっきは気付かなかったが、倉庫内の天井部には数本の鉄骨で出来たレールが梁渡されていた。そのレールを走行する形で取り付けられている簡易クレーンに吊り下げた重量物を倉庫内の様々な方向へと移動させるための機構らしい。つまり倉庫内で重い物品を運ぶための『天井走行システム』である。
重量物を吊り下げるためのフックが先端に取り付けられたワイヤーが滑車を経由し、反対側が電動ウィンチへと繋がっている。これが簡易型のクレーンとなっているのだ。
そして今…伸田の目の前で天井からワイヤーのフックでぶら下げられ、入り口から吹き込む風にブランブランと大きく揺れているのは…手首部分で縛られた両腕を上にして吊り下げられた全裸女性の遺体だった。
しかも、その遺体には…首が無かった。
肩のすぐ上で首が切断され、本来は色が白くきめ細かい肌をした華奢な裸体を、切断部分から流れ出した血が真っ赤に染め上げていた。
ガラン、ガラーンッ!
絶望からの脱力感で右手に握っていたタイヤレバーを床に取り落とした伸田は、両手で顔面を覆うと、狂った様な絶叫を上げた。
「う、うううぅ… ま、まさか…そ、そんな…
い、イヤだ… シズちゃん… 静香あああーっ!うわああああーっ!」
無残な遺体を目の当たりした伸田の悲痛な叫びは、倉庫内だけでなく開口部から外にまで聞こえるほど大きな声だったが、外で燃え盛る炎と吹き荒れる吹雪の音によってすぐにかき消されていった…




