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ヒッチハイカー  作者: 幻田恋人


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第38話(最終話・前編)「どうしても南へ行きたいんだ…㊱ 『南へ行きたかった… そいつの夢の行方』 ― 戦い終えた戦士たち ―」

「うっぎゃあああああーっ!」


 伸田の仲間たち四人の亡霊に左腕を捕らえられ、逃げることができない蠅の王(ベルゼブブ)。


 その腹部へ突きつけられていた、自動拳銃ベレッタ90-Twoの銃口が火を噴いた。


 瀕死の伸田(のびた)でも外しようのないゼロ距離射撃――


 完全な魔人と化した蠅の王。その強靭な肉体を、たかが九ミリ弾で貫けるはずがない――誰もがそう思っていた。


 しかし、放たれた一発の『式神弾《しきがみだん》』は、臍の右脇に小さな穴を穿(うが)つ。


 わずか十ミリほどの銃痕。


 だが、その奥からは青白い光が漏れ出し、白煙を噴き上げ始めた。


「うがあああああっ! き、貴様っ! その穢(けが)れた弾丸を……! よくも俺にぃっ!」


 絶叫とともに蠅の王の全身が激しく痙攣(けいれん)する。


 苦悶に顔を歪め、ギリシャ彫刻のように整った美貌は見る影もない。


 額から玉のような汗が噴き出し、その身体は苦しみに震え続けていた。


 腹部に穿たれた小さな銃痕は、青白い炎をまといながらゆっくりと広がっていく。


 背中まで貫通することなく体内へ留まった『式神弾』が、内側から肉体を焼いているのだ。


 銃痕からは白煙が絶え間なく噴き上がり、肉体は内と外の両方から焼かれていく。


 逃れる術(すべ)は、もうどこにもなかった。


 終わりの見えない激痛とともに、蠅の王を焼き続ける。


 これまで自らが幾人もの命を奪い、与えてきた苦痛。そのすべてが、今まさに己へ返ってきたのである。


 四人の亡霊は、その様子を静かに見届けると、それぞれ蠅の王を掴んでいた手を離した。


 そして、失血で意識を失いかけている伸田へ向き直る。


 通称『ジャイアンツ』こと幸田剛士が、一歩前へ出た。


『おい、ノビタ……。


 ガキの頃から弱虫で泣き虫だったお前が、ここまで本当によくやったぜ。


 俺たちみんなの仇を……よく討ってくれたな。


 ありがとよ。


 お前のことは、ガキの頃からスネオと二人でいじめてばっかだった。


 でもな、本当は違ったんだ。


 俺たち二人とも、お前のことをずっと"心の友"だと思ってた。


 これは絶対に嘘じゃねえ。


 どうやら俺たちの役目も、ここで終わりみたいだ。


 なあに、お前とはまたいつか会えるさ。


 シズちゃんと、お腹の赤ん坊によろしくな。


 俺たちのマドンナを、お前がしっかり守るんだぞ。


 ……じゃねぇと、化けて出るからな』


 最後は照れ隠しのように笑う。


 剛士の隣ではスネオが泣き笑いの表情を浮かべている。


『それじゃあ行くぜ。


 あばよ、ノビタ。


 ――心の友よ』


 剛士の言葉に、他の三人も静かに頷いた。


 すすり泣く者。


 笑顔で手を振る者。


 それぞれの想いを胸に、四人は伸田へ最後の別れを告げる。


 やがて彼らの魂は、吹雪の舞う夜空へと吸い込まれるようにゆっくりと昇っていった。


 残忍なヒッチハイカーの手によって非業の死を遂げた彼らは――。


 今ようやく、安らかな眠りへと旅立っていったのである。


 頬を伝う涙が止まらない。


 四人が昇っていった夜空を見つめながら、伸田は苦しげな笑みを浮かべ、小さく呟いた。


「……ありがとう」


 その瞬間、握り締めていたベレッタ90-Twoが指先から滑り落ちる。


 拳銃は闇の中へ吸い込まれるように落下し、遥か二百メートル下の雪原へ消えていった。


 もう彼には、銃を握る力さえ残されていなかった。


 震える自分の手を見つめ、力なく苦笑する。


 そして前方で悶え苦しむ蠅の王へ視線を向けた。


「ぐ、ぐおおおおっ! い、嫌だ!


 お、俺の身体が……消えていく!


 こ、こんな所で死にたくない!


 俺は無敵の存在へ生まれ変わったはずだ!


 こ、こんな虫ケラみたいな人間の小僧に……この俺が敗れるというのかぁっ!」


 取り乱したように叫びながら、蠅の王は腹部を掻きむしろうとする。


 だが、その腹に穿たれた銃痕は、もはや小さな傷ではなかった。


 青白い炎に焼かれながら、ゆっくりと、しかし確実に広がり続けている。


 傷口から血は一滴も流れない。


 肉も、血液も、うぶ毛の一本一本までもが、『式神弾』の浄化の炎によって跡形もなく消滅しつつあった。


 吹き荒れる吹雪ですら、その青白い炎を消すことはできない。


 体内に留まった『式神弾』は、蠅の王の肉体を内側からも焼き尽くしていく。


「ぐわああああああっ!」


 翼を羽ばたかせ、辛うじて空中に留まってはいるものの、その飛翔は今にも途切れそうだった。


 絶え間ない激痛が、魔人となった肉体を容赦なく蝕(むしば)んでいく。


「や、やった……。


 ついに……ヒッチハイカーを……」


 薄れゆく意識の中、伸田は苦しみ続ける蠅の王を見つめ、小さく呟く。


 その身体が力を失い、くの字に折れかけた。


 それでも背中の『ウインドライダーシステム』だけは、なお彼を支えていた。


 六基のローターが最後の力を振り絞るように回転し、辛うじて揚力を維持している。


 しかし、それも時間の問題だった。


 高度二百数十メートル。


 もし今ここで墜落すれば、深く積もった雪でも衝撃を和らげることはできない。


 激突の瞬間――全身の骨は砕け、内臓は破裂し、即死は免れないだろう。


 しかも『ウインドライダーシステム』は、装着者の脳波によって制御されている。


 伸田が完全に意識を失った瞬間、その飛行能力も停止する。


 つまり――。


 彼に残された未来は、失血死か、墜落死。


 そのどちらかしかなかった。


 それでも伸田の胸に後悔はなかった。


 己の命と引き換えにしてでも、蠅の王を討つことができた。


 それだけで十分だった。


 やがて大量出血による意識の低下は、ついに機体にも影響を及ぼし始める。


 一基。


 また一基。


 六基のローターが、順に回転を止めていく。


 残るローターも、あとわずか。


 揚力を失った伸田の身体は、ゆっくりと高度を下げ始めた。


 ――その瞬間。


 伸田の落下が始まった。


「ノビタぁーっ!」


「ノビタさん!」


 ふらつきながら高度を落とし始めた伸田の姿を見て、地上の白虎と上空のニケが同時に叫んだ。


 ニケは迷うことなく翼を翻し、落下する伸田の元へ一直線に飛ぶ。


「しっかりして、ノビタさん!」


 六基のローターがついにすべて停止する。


 伸田の身体が重力に引かれ、落下を始めようとした。


「間に合った!」


 ニケの右手が落下寸前の伸田の身体を捉えた。


――その瞬間だった。


バリバリバリバリバリィーッ!!


 轟音とともに、眩い黄色の稲妻が大気を切り裂いた。


「キャアアアーッ!!」


 伸田を救うため、完全に無防備となっていたニケの背中へ、その雷撃が容赦なく直撃した。


 その光景を見届けたのは、地上から見上げていた白虎だけだった。


 ニケの数十メートル後方――。


 紫色の翼を震わせながら、よろめくように空を飛ぶ蠅の王。


 最後の力を振り絞り、ニケへ雷を放った張本人だった。


「うおおっ! ニケっ! ノビタぁっ!


 くそっ……あの野郎、まだあんな雷を!」


 白虎は巨大な牙をむき出しにして唸った。


 だが、その蠅の王も、もはや生きていること自体が奇跡のような姿だった。


 体内に残る『式神弾』は今なお青白い浄化の炎を燃やし続け、その肉体を内側から容赦なく滅ぼしている。


 炎はついに腹部を焼き切り、蠅の王の身体は上半身と下半身に分断されていた。


 切り離された下半身は吹雪の彼方へ吹き飛ばされ、そのまま地上へ落下していく。


 やがて、その残骸さえも浄化の炎に焼き尽くされるだろう。


 上半身だけとなった蠅の王は、紫色の翼で辛うじて飛んではいるものの、その飛翔は今にも途絶えそうだった。


 それでも彼は、自分をここまで追い詰めた敵へ最後の報復を果たそうとしていた。


 残されたすべての気力を一撃に込め、ニケへ叩きつけたのである。


 しかし――もはや全盛期とは比べものにならないほど弱まった雷撃。


 それでも、伸田の救出だけに意識を向けていたニケの無防備な背中へ、雷撃は容赦なく突き刺さった。


 今、彼女の腕に『イージスの盾』は無かった。


 銀色に輝く美しい翼は焼き焦がされ、その大半が吹き飛んだ。


 無数の羽根が吹雪の中へ舞い散っていく。


 勝利の女神ニケといえど、その翼は生身の身体の一部だった。


 受けた傷は決して浅くない。


 それでも彼女は歯を食いしばり、ようやく届いた両腕で伸田の身体をしっかりと抱き寄せる。


 二人の身体は重なり合ったまま、雪原へ向かって落下を始めた。


 耐熱・耐電性能を備えた専用スーツを身にまとっていても、焼け焦げた翼では、伸田を抱えたまま飛び続けることなどできない。


 大半を失った翼に、羽ばたく力は残されていなかった。


「きゃあああああーっ!」


 悲鳴を上げながら、ニケはようやく抱き寄せた伸田を離すまいと、その身体を強く抱き締める。


 二人は、一直線に地上へ落下していった。


「ニケーッ! ノビターッ!」


 白虎は雪原から叫ぶことしかできない。


 完全に意識を失った伸田。


 傷ついた翼では飛ぶこともかなわないニケ。


 地上まで、およそ二百メートル。


 誰の目にも、激突は避けられないように思えた。


 ――その時だった。


『イージスッ!!』


 澄み切った女性の声が、夕霧谷全体へ凛と響き渡る。


 その声は、白虎の咆哮すらかき消すほど力強く、それでいてどこまでも神々しかった。


 次の瞬間――。


 黄金の光が落下する二人を優しく包み込む。


ズドォオオオオン!!


 轟音とともに地面へ激突したのは、人ではなかった。


 黄金色に輝く巨大な球体。


 直径約二メートルの完全な球体は、大地を揺るがす衝撃とともに雪と土を四方へ吹き飛ばし、半ば地面へめり込んだまま静止する。


「な……何だ、ありゃ!?」


 白虎は目を見開き、球体へ駆け寄った。


シュウウウウウ……


 黄金の球体は凄まじい熱を放ち、周囲の雪を一瞬で蒸発させていく。


 立ち上る白い湯気が陽炎のように揺らめいていた。


「あちちっ!」


 前脚を伸ばしかけた白虎は、その熱さに慌てて引っ込める。


 しかし、球体の表面には傷一つない。


 鏡のようになめらかな黄金の輝きは、激突の衝撃を受けたとは到底思えなかった。


 やがて球体の輝きが静かに揺らぐ。


 黄金の外殻はゆっくりと形を変え、中から横たわる二人の姿が現れた。


 伸田とニケを包み込んでいたその球体――。


 それは、伸田の左腕に装着されていた『イージスの盾』だった。


 東京にいる榊原アテナが、娘・ニケの危機を察知し、その力を遠隔で解放したのである。


 母娘は五感を共有していた。


 だからこそアテナは、雷撃を受けたニケが伸田とともに落下していく姿を、自らの目で見ているかのように感じ取ることができた。


 そして、『イージスの盾』を巨大な球体へと変形させ、落下する二人の身体を包み込んだのだ。


 絶対防御を誇る盾は、大地との激突から二人の命を守り抜いたのである。


「……う、うう……」


 白虎が見守る中、ニケが苦しげな呻き声を漏らし、ゆっくりと上半身を起こした。


 どうやら、蠅の王の放った大雷を耐え抜いたらしい。


「よかった……。


 ニケ、お前は無事なんだな。


 ノビタは!?」


 安堵したのも束の間、白虎はニケの方へ身を乗り出すように叫んだ。


 ニケは返事をすることなく、自分の身体の下で仰向けに横たわる伸田の胸へ、そっと手を当てる。


 鼓動を確かめるように目を閉じ――。


 やがて静かに首を横へ振った。


「……だめ。


 心臓が止まってる……。


 体温も、どんどん下がってる……」


 その声は震えていた。


「……な、何てこった」


 白虎は呆然と立ち尽くす。


「こいつは蠅の王と最後まで戦い抜いて、あの化け物に止(とど)めを刺した英雄じゃねぇか!


 そのノビタが、何で死ななきゃならねぇんだ!


 そんな……そんな馬鹿な話があってたまるかぁっ!!」


 怒りと悲しみの咆哮が雪山に響く。


「ぐわおおおおおおーっ!!」


 白虎は地団駄を踏み、大地を震わせながら天を仰いだ。


 たった一晩。


 それでも伸田は、彼にとって実の弟のような存在になっていた。


「くそっ……。


 ノビタの彼女に何て言やいいんだよ。


 『あんたの彼氏は立派に戦って死にました』って、そんなこと言えるかよ……」


 その言葉を吐き捨てた直後――。


 白虎の全身が青白い光に包まれる。


 四本脚で立つ神獣の姿は、ゆっくりと人の形へ変わっていく。


 神獣化を解いたのだ。


「ちょ、ちょっと……千寿(せんじゅ)さん」


 ニケが慌てて顔を背(そむ)けた。


「ここに十五歳の乙女がいること、忘れてません?


 全裸はやめてください」


「おっと、こいつは失敬」


 苦笑した男は、年の頃三十代半ば。


 百八十センチほどの長身に、引き締まった筋肉質の身体。


 強い癖毛の黒髪。


 野性味あふれる精悍な顔立ち。


 伸田の死を前に、その瞳には深い悲しみと怒りが宿っていた。


 そう――。


 彼こそが、新宿・カブキ町で私立探偵事務所を営み、『風俗探偵』の異名で知られる男。


 千寿 理(せんじゅ おさむ)、その人だった。


「とはいえ、おじさんのセクシーな裸を中学生に見せるわけにもいかねぇな」


 そう言うと、千寿の首から下へ白い体毛が一気に伸び始める。


 みるみる全身を覆った毛並みには、黒い虎縞が浮かび上がり、まるで天然の毛皮をまとったような姿へと変わっていった。


「白虎柄の天然毛皮ってところね。


 ……まあ、それなら我慢できそう。


 ところで、あなた。人間の姿に戻って、どうするつもりなの?」


 千寿は答えなかった。


 そのまま二人のもとへ歩み寄ると、雪の上に横たわる伸田の傍らへ静かに膝をつく。


 そして、彼の身体から『ウインドライダーシステム』のヘルメットとバックパックを、一つひとつ丁寧に外していった。


 余計な装備をすべて取り外すと、千寿は伸田の亡骸(なきがら)をそっと抱き上げる。


 獣人としての強靭な腕力を持つ彼にとって、人ひとりの重さなど苦にならない。


 それでも、その腕は壊れ物を扱うかのように優しかった。


「せめて、こいつを……。


 愛した女のところへ、帰してやりたいんだ」


 ぽつりと漏れたその言葉とともに、一筋の涙が千寿の頬を伝う。


 伸田を抱いたまま、静香たちが待つ方角へ歩き出そうとした、その時だった。


「待って、千寿さん……」


 背後から呼びかけるニケの声に、千寿は静かに足を止める。


 雪を踏みしめながら近づいてきたニケは、伸田の前へ回り込んだ。


 その穏やかな顔を、じっと見つめる。


 命を落としたとは思えないほど安らかな表情。


 そこには、最後まで戦い抜いた者だけが浮かべられる満足げな微笑みがあった。


「あなたは、本当に立派に戦ったわ。


 英雄のあなたに、女神の祝福を――」


 ニケはそう囁くと、ゆっくりと顔を近づける。


 そして、すでに冷たくなった伸田の唇へ、そっと自らの唇を重ねた。


 雪だけが静かに降り続く。


 千寿は息を呑み、その光景を見守った。


 十数秒――。


 長い口づけを終え、ニケが静かに顔を離す。


 その瞬間、美しい唇と伸田の唇との間に、一筋の透明な糸が細く結ばれていた。


 だが、それは吹雪に舞う風にさらわれ、儚く途切れて消えていく。


 千寿は、その美しい光景を確かに見た。


 ――いや。


 悲しみに揺れる心が見せた幻だったのかもしれない。


 二人は何も語らなかった。


 やがてニケは静かに一歩下がる。


 その別れの挨拶を終えたことを悟った千寿は、伸田を抱いたまま再び静かに歩き始めた。


     ********


「くそ……。


 お、俺は死ぬのか……?


 俺は、これで終わるのか……」


 吹雪の中を、蠅の王は風に流されていた。


 『式神弾』の浄化の炎は、なおもその身体を焼き続ける。


 左腕は肩から先が消え、腹から下も、すでに失われていた。


 残された翼は一枚。


 それは飛んでいるというより、風に運ばれているだけだった。


「俺は……


 ただ、南へ行きたかったんだ。


 じいちゃんが言ってた。


 『お前を捨てた母ちゃんは、男と南へ行った』って。


 だから俺も……


 誰かの車に乗せてもらって……


 その南へ行きたかった。


 写真でしか知らない母ちゃんに……


 一度だけでも会いたかった。


 俺を捨てた母ちゃんに……


 俺は幸せになったんだって……


 見せたかったんだ。


 シズちゃんと。


 あいつとの間に生まれた、たくさんの子供たちと。


 暖かい海のそばで。


 笑って暮らしたかった……」


 その声は、もう蠅の王のものではなかった。


 そこにいたのは、ただ一人。


 母を探し続け、自分を乗せてくれる車を求め続けた男――。


 孤独なヒッチハイカーだった。


「でも……


 そんな夢も終わりだ。


 俺はもう死ぬ。


 じいちゃん……


 今から、そっちへ行くよ。


 母ちゃん……


 もう一度だけ……


 会いたかった……」


 風は、彼を静かに運んでいく。


 その漂う先にあったのは、巨大な『夕霧橋』だった。


 ほんの数時間前。


 静香を吊るし、伸田と死闘を繰り広げた場所。


 蜘蛛の巣は、まだ橋に残っていた。


 ヒッチハイカーは、それを懐かしむように見つめながら、『木流川』へ落ちる。


 濁流は、何も言わず彼を受け止めた。


「ごぼっ……!


 はあ……はあっ……


 この川は……


 海まで流れるのか……?


 だったら……


 連れて行ってくれ……


 俺の行きたかった……


 南へ……」


 激しい水流に呑み込まれても、青白い炎だけは消えない。


 身体は焼かれ続ける。


 それでも彼は、もう恐れてはいなかった。


 もうすぐ大好きだった祖父に会える。


 そう思うだけで、不思議と心は温かかくなった。


 地獄でも構わない。


 祖父もきっと、そこにいる。


 あの山刀《マチェーテ》を自分へ託した祖父もまた、多くの血を流してきた人間なのだから。


「じいちゃん……


 それも、悪くねぇな……」


 涙が流れる。


 川の水に紛れて消えていく。


 それでも涙は止まらなかった。


 彼は、残された右手をゆっくりと空へ伸ばす。


 その先に母の姿を求めるように。


 だが、彼の瞳に映ったのは――。


 雲の切れ間から昇る、一筋の朝日だった。


 その光は、母の笑顔だったのか。


 それとも。


 南の海辺で静香と子供たちに囲まれ、笑う自分の未来だったのか。


 それは、誰にも分からない。


 もちろん、彼自身にも……。


 やがて朝日の中に、小さな黒い影が現れる。


 その影は、ゆっくりと大きくなっていく。


 ――バラバラバラバラ……。


 ローター音が、静かな朝に響き始めた。


     ********


 朝日の中から現れた黒い影は、一機のブラックホークだった。


 轟音を響かせながら『木流川』の上空へ降下した機体は、濁流に流されるヒッチハイカーの真上で速度を合わせる。


 ローターが巻き起こす烈風が空を舞う雪を吹き飛ばし川面を激しく叩いた。


 それでもヒッチハイカーは顔を上げなかった。


 もう何もかも終わった。


 今さら誰が来ようと、何が起ころうと構わない。


 彼の心を満たしていたのは、昨夜から続いた長い戦いの記憶だけだった。


 吹雪の国道。


 静香との出会い。


 そして、一人の青年。


 最初はただの獲物だった。


 女は奪い、男は殺す。それだけだ。


 だが、そいつは違った――。


 戦うたび、その男は自分の前に立ちはだかり、何度倒しても立ち上がってきた。


 その執念に怒り、憎み、やがて心のどこかで認めていた。


 祖父以外、誰にも心を開いたことのなかった自分が。


 命を懸けて戦った、その相手だけは違ったのだ。


「ノビタ……。


 お前も、もう死んじまったのかな。


 昨夜は……楽しかったぜ。


 俺が一番輝いた夜だ。


 お前は最高だった。


 あばよ、ノビタ……」


 それが最後の言葉だった。


 ヒッチハイカーの意識は静かに闇へ沈んでいく。


 青白い浄化の炎は鎖骨まで達し、次はいよいよ首を焼き尽くそうとしていた。


 その時だった。


 ――ブツン。


 乾いた音が渓谷に響いた。


 首が、宙を舞う。


 浄化の炎は胴体だけを焼き続け、切り離された頭部には届かなかった。


「あはははははっ!


 危なかったねぇ!


 あと少し遅かったら、頭まで燃えちまうところだったじゃないか!」


 甲高い笑い声がローター音を突き抜ける。


 頭部を髪ごと片手でぶら下げていたのは、魔界の殺し屋・ライラだった。


「依頼は『Dead or Alive』。


 生きてても死んでても構わない。


 頭だけでも持って帰れば、アタシたちの勝ちってわけさ!


 あはははははっ!


 見たか、風俗探偵!


 今度はアタシたちの勝ちだ!」


「ブモォーーッ!」


 ブラックホークのドア脇では、兄のバリーがロープを巻き上げていた。


 ライラの右手には降下用ロープ。


 左手にはヒッチハイカーの首。


 そして腰には、あの禍々しい山刀(マチェーテ)。


 浄化の炎が首へ届く寸前、その妖刀で切り落としたのだった。


 胴体は青白い炎に包まれたまま濁流へ沈み、やがて雪と水煙の向こうへ消えていく。


 ライラは機内へ身を乗り出すと、ヒッチハイカーの額へ軽く口づけた。


「お疲れさん、ベルゼブブ君」


 そう囁き、首を床へ放り投げる。


ゴロゴロ……。


 首は血痕を残しながら転がり、やがて動きを止めた。


 ライラはもう興味を失っていた。


 副操縦席へ腰を下ろし、振り返ることもしない。


 バリーもまた、操縦に集中している。


 ブラックホークは朝日に向かって機首を上げ、夕霧谷を飛び去っていった。


 そして――。


 誰も見ていない機内の床で。


 転がったヒッチハイカーの頭部の右目が、ゆっくりと開いた。


     ********


「誰かが来る……」


 島警部補が吹雪の向こうを見つめた。


 ロシナンテのドアを開け、雪の中へ出る。


 鳳と静香も続いた。


「あそこです」


 白い世界の彼方から、一人の男がゆっくり歩いて来る。


 その腕には、人が抱かれていた。


「あれ……」


 静香が息を呑む。


「ノビタさん……?」


 鳳は目を細めた。


「違う。歩いているのは千寿だ」


 胸騒ぎがした。


 抱えられている人物は力なく両腕を垂らし、まったく動かない。


「ノビタさん……?」


 静香の声が震える。


「どうして歩いて来ないの……?」


 誰も答えられなかった。


 千寿は三人の前で静かに立ち止まった。


 腕の中の青年を見つめる。


 鳳が口を開く。


「千寿、伸田君は……?」


 千寿は黙って首を横に振った。


 その仕草だけで十分だった。


「……」


 静香の世界から音が消えた。


「ノビタさん!」


 叫びながら伸田の身体に縋り付く。


 千寿はゆっくり膝をつき、伸田を雪の上へ寝かせた。


 静香は彼の身体を抱き起こし、頭を自分の膝へ乗せる。


「うそ……」


 頬へ触れる。


 冷たい。


 信じたくなかった。


「帰ってくるって言ったじゃない……」


 声が震える。


「絶対帰るって……約束したじゃない!」


 伸田は何も答えない。


 静香は彼を抱き締めた。


「いやぁぁぁっ!」


 雪山へ悲痛な叫びが響き渡る。


 鳳が千寿へ近づき、耳元で囁く。


「こんな時に聞くことじゃないのは分かっている。


 だが……ヒッチハイカーは?」


 千寿の目が鋭く光った。


 鳳は思わず息を呑む。


 白い体毛が逆立つ。


 一瞬だけ。


 獣の殺気が吹雪を震わせた。


 しかし千寿はゆっくり息を吐いた。


「間もなく死ぬ」


 短く言う。


「ノビタが腹へ撃ち込んだ式神弾だ。


 お前の親父が念を込めた弾だろ。


 あれを喰らって生き残る魔族はいねぇ」


 鳳は静かに頭を下げた。


「……すまない。」


 その時だった。


 千寿の耳がピクリと動く。


 神獣の並外れた聴覚がライラの声を捉えた。


「……!」


 顔を上げる。


「どうした?」


「ライラだ。」


 低く唸る。


「あの女……蠅の王の首を回収しやがった」


「何だと!」


「今度こそ逃がさねぇ。」


 千寿の犬歯が覗く。


 獣の笑みだった。


「ニケに追わせるか?」


 鳳が言う。


「無理だ、翼を焼かれてる」


 その時。


 空の彼方から、ほとんど音もなく黒い影が近付いてきた。


 千寿が笑う。


「あいつが来た。


 黒鉄の翼(くろがねのつばさ)――」


 ロシナンテの上へ静かに降下する。


 巨大な黒い爪が車体を掴む。


「鳳、ここは任せた。


 ノビタと彼女を頼む」


 そう言い残し、千寿は運転席へ飛び乗った。


 ロシナンテと黒鉄の翼が一体化する。


 黒鉄の天馬(アイアンペガサス)――。


 雪煙を巻き上げながら浮上した。


「あばよ、ノビタ」


 前を見据えながら千寿がつぶやく。


「お前は最高の相棒で――英雄だったぜ」


 零れ落ちる涙を拭うことなく、千寿はアクセルを踏み込む。


 黒鉄の天馬は光学迷彩を展開し、吹雪の空へ溶け込むように加速した。


 ライラとバリーを追って――。


 多くの命を奪ったこの戦いに終止符を打つため、千寿は飛び立った。


 そして、伸田との友情に応えるために――。




【最終話・後編に続く…】

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