↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヒッチハイカー  作者: 幻田恋人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

37/39

第37話「どうしても南へ行きたいんだ…㉟『大雷を放つ蠅の王!! 伸田を護る最強の盾と4人の仲間達!』」

「蠅の王(ベルゼブブ)! 私が来た以上、もうアンタの好きにはさせないわ!」


 吹雪が荒れ狂う夕霧谷(ゆうぎりだに)上空。


 背中に銀色の翼を広げた美少女――ニケは、力強く羽ばたきながら、さらに上空へと舞い上がると、自分より低い空域を飛ぶ蠅の王を見下ろし、鋭く言い放った。


 その挑発に、蠅の王は怒りをあらわにしてニケを見上げる。


「貴様ぁっ! よくも妙な技を使って、俺の大事なじいちゃんの形見の山刀(マチェーテ)に二つも穴を開けてくれたな……。


 ただで済むと思うな!」


 雷撃を受け、蠅の王として復活して以来のヒッチハイカーは、全身に満ちあふれる圧倒的な力と絶対的な自信からか、口調も態度もどこか余裕を漂わせていた。


 だが、ニケの出現は、その余裕を根こそぎ吹き飛ばした。


 まるで復活前の激情を取り戻したかのように、今の蠅の王は明らかに平静さを失っている。


 氷のように冷え切っていた端正な顔立ちは、眉間に深いしわを刻み、怒りと焦燥に歪んでいた。


 祖父の形見である山刀を傷つけられた怒り――。


 確かにそれもあるのだろう。


 だが、ほぼ同じ高度をウインドライダーシステムで飛行しながら、その様子を見つめる伸田(のびた)には、それだけが理由とは思えなかった。


 ここまで蠅の王と死闘を繰り広げてきた伸田だからこそ分かるものがある。


 今の蠅の王からは、それまで決して感じたことのない精神の揺らぎが伝わってきていた。


 ――他者に対する恐怖。


 それは蠅の王とは最も無縁だと思っていた感情だった。


 今、全身から噴き上げている凄まじい怒り。


 それは目の前に現れた未知の存在――謎の美少女ニケへの恐怖を押し隠そうとする、裏返しの感情なのではないか。


 伸田には、なぜかそう思えてならなかった。


 ここまでの戦闘で、伸田は蠅の王となったヒッチハイカーは、もはや心身ともにあらゆる生物を超越した、絶対無敵の存在なのだと思い込んでいた。


 だが、今の姿を見ていると、その考えが揺らぎ始める。


 もし本当に神や悪魔に等しい力を手に入れた存在ならば、たとえ未知の敵が現れたとしても、恐怖など抱くはずがない。


 蠅の王のニケに対する態度は、自然界において生物が天敵に見せる反応だと伸田は思った。


「これなら……ひょっとすると、ヤツを倒すことも不可能じゃないかもしれない」


 半信半疑ながらも、伸田がそうつぶやいた、その瞬間だった。


 蠅の王の全身を包む紫色の靄が、急激に膨れ上がり始める。


パチッ……パチパチッ!


 最初は小さな火花だった。


 だが、やがて紫色の靄(もや)に包まれた蠅の王の全身を黄色い稲妻(イナヅマ)が這うように走り始める。


 まるで先ほど受けた落雷の莫大なエネルギーを、その身体の内側に蓄え、今度は自らの意思で放電しているかのようだった。


バシッ! バチバチバチッ!


 怒りが高まるにつれ、体内の電気エネルギーも際限なく膨れ上がっていく。


 全身を走るスパークは次第に数を増し、一つひとつの稲妻も太く、激しさを増していった。


 やがて、蠅の王を包み込む紫色の靄は、その内部で黄色い閃光を何度も明滅させ始める。


 放電が激しくなるにつれ、大気は電気分解され、刺激臭を伴うオゾンの匂いが周囲へと広がっていった。


     ********


「おいおいおい……ヤベェんじゃねぇか、ありゃ」


 凍てついた大地に、ただ一頭だけ立ち尽くし、上空の戦いを見守っていた白虎(びゃっこ)が、忌々しげにつぶやいた。


「ベルゼブブの野郎……。


 さっき食らった特大級の雷を体内に溜め込んだのか、それとも身体そのものがそういう体質に変わっちまったのかは分からねぇ。


 だが、あいつ自身が発電機みてぇに電気を生み出してやがる。


 このままじゃ、デカい雷を一発ぶちかましてきそうだ。ノビタもニケも危ねぇぞ……」


 白虎へと神獣化した、新宿歌舞伎町の『風俗探偵』こと千寿 理(せんじゅ おさむ)は、旧友である鳳 成治(おおとり せいじ)を通じて、彼の姪・榊原(さかきばら)くみ、そして母親である榊原アテナとも旧知の間柄だった。


 だからこそ、目の前で繰り広げられる戦いを、ただ見ていることしかできない現実が歯がゆくて仕方がない。


 空を飛べない白虎には、あの戦場へ駆けつける術(すべ)がなかった。


「チッ……!」


 苛立ちを隠せないまま、白虎は上空から目を離さず、凍てついた白い大地を檻の中の虎のように行ったり来たりする。


 喉の奥で低くゴロゴロと唸り声を響かせながら、焦燥を押し殺すことしかできなかった。


     ********

 

 

 上空では、蠅の王とほぼ同じ高度を保ったまま飛行している伸田が、敵を見つめながら白虎と同じ事を考えていた。


「今の蠅の王の怒りは、僕じゃなくてニケに向けられている。ヤツはあの全身の電圧(ボルテージ)が最高に達した時、ニケに向けて一体どんな攻撃を仕掛けるつもりなんだ?

 でも… ひょっとして、ニケに怒りの矛先(ほこさき)を向けている今なら、ヤツも僕に対しては油断しているのでは…?」


 彼がそう考えた瞬間、数十メートル向こうを飛ぶ蠅の王がハッキリと伸田に顔を向け、キッと睨(にら)み付けて来た。まるで、「お前の浅はかな考えなどお見通しだ」とでも言っているかの様に…


「くそ! この状況でもヤツは僕の思考を読む事が出来るのか…? うっかりと手を出せば、ヤツは瞬時に僕への攻撃に切り替えるだろう…」

 伸田は憎んでも憎み足りない目の前の敵を、為す術も無く見守るしかない自分が歯痒(はがゆ)くて仕方が無かった。

 

 

     ********


 伸田と蠅の王たちより高い空域で静止飛行を続けるニケは、二人を見下ろしながら敵の様子を冷静に観察していた。


「ベルゼブブの体内電圧が、どんどん上がってる……。


 やっぱり稲妻を武器として使う気ね。


 この私専用の戦闘スーツには、ある程度の耐電性能があるはずだけど……さすがに、あんな雷をまともに受けたら無事じゃ済まないわ」


 青い瞳で蠅の王を見据えたまま、ニケは静かにつぶやく。


 白虎や伸田と同じように、彼女も早い段階から敵の異変に気づいていたのだ。


 やがてニケはそっと目を閉じる。


 精神を研ぎ澄ませると、遥か彼方へ意識を飛ばした。


『ママ……こっちの状況は分かってるでしょ?


 ベルゼブブが、かなり危険な状態なの。


 お願い。すぐに"イージス"を転送して!』


 その思念は、遠く東京郊外の自宅にいる母――アテナへと届く。


 母娘である二人は、どれほど離れていても、いつでも直通電話のように思念を交わせる能力を持っていた。


 返答は一瞬だった。


『了解よ。


 確かに今のベルゼブブは危険ね。


 すぐにイージスを――』


 その瞬間だった。


 母娘の会話が終わるより、ほんの一瞬だけ早く。


 最大まで高まった電気エネルギーが、ついに限界を超えた。


バリバリバリバリィィィーッ!!


 蠅の王の全身から、白熱した巨大な稲妻が炸裂する。


ドォォォンッ!!


 それは、ヒッチハイカーを蠅の王へと変貌させた落雷にも匹敵――いや、それ以上とも思える超高圧の一撃だった。


 大気が裂け、大地が震える。


 轟音は山々を揺るがし、周辺一帯へと響き渡った。


 ただ違うのは、その雷が天から落ちたのではないこと。


 空中に浮かぶ蠅の王から、さらに上空を飛ぶニケへ向けて一直線に放たれたのだ。


 あまりにも激しい閃光。


 あまりにも凄まじいエネルギー。


 伸田も白虎も、思わず目を閉じるしかなかった。


 あれほどの雷撃を真正面から受けて、生身の生命体が無事でいられるはずがない。


 ニケがいた空域は爆発によって黒煙に包まれ、刺激臭を伴うオゾンが一帯へと広がる。


 しかし、その煙も吹き荒れる吹雪にあおられ、瞬く間にかき消されていった。


 やがて煙が晴れた時――。


 伸田と、地上の白虎が目にしたものは、信じ難い光景だった。


 夜明け前。


 厚い雪雲に覆われた空には月明かりもなく、山中には街灯一つ存在しない。


 そんな闇の中に、黄金色の楕円形をした光が静かに浮かんでいた。


 それは外から光を受けて輝いているのではない。


 物体そのものが、内側から神々しい黄金の光を放っていた。


 その黄金の輝きの後ろには、銀色の翼を広げたニケが、何事もなかったかのように静かに浮かんでいる。


「ふぅ……。


 間一髪で間に合った。


 ありがとう、『イージス』。本当に助かったわ」


 ニケが優しく語りかけた黄金の物体。


 それは彼女の左腕に装着された、一枚の盾だった。


 ――『イージスの盾』。


 蠅の王が放った大雷を完全に受け止め、ニケを守り抜いた絶対防御の神盾。


 それこそが、ニケの願いを受けた母・アテナが瞬間転送した、地上最強の硬度と防御力を誇る『アテナの盾』だったのである。


 だが、もしこれが事実だというのなら――。


 勝利の女神ニケを従え、『イージスの盾』を自在に操る榊原アテナとは、いったい何者なのか。


 その名のとおり、ギリシャ神話に語られる戦いと叡智の女神――アテナ本人だというのか。


 遠くギリシャの神話ではなく、日本というこの地に、二柱の女神が今もなお生きているというのだろうか。


     ********


「な……何だ、それは……?」


 自らの身体から放った渾身(こんしん)の大雷。


 相手をこの世から跡形もなく消し去るつもりだった一撃を受けながら、ニケは傷一つ負うことなく悠然と宙に浮かんでいた。


 その姿を見た蠅の王は、呆然とした表情で思わずつぶやく。


「これ?」


 ニケは左腕の黄金の盾を軽く掲げ、微笑んだ。


「これは『イージスの盾』。


 地球上のあらゆる攻撃を受け止め、決して通さない――女神アテナが誇る、地上最強の盾よ。


 よく覚えておきなさい」


 その青い瞳が、蠅の王を真っ直ぐ射抜く。


「これで分かったでしょう?


 オレイカルコス――オリハルコンさえ貫く私の眼光『ニケの青き炎』。


 そして、あらゆる攻撃を防ぐ『イージスの盾』。


 この二つが揃った以上、たとえ蠅の王ベルゼブブであっても、あなたに勝ち目はないわ」


 断言だった。


 その揺るぎない言葉に、蠅の王は何も言い返せない。


 ただ黙り込んだまま、ニケを見つめることしかできなかった。


 一方、そのやり取りを見守る伸田もまた、驚きのあまり言葉を失っていた。


「聖子さんは……とんでもない助っ人を呼んでくれたんだ……。


 ニケも、『イージスの盾』を持つアテナという人も……まるで、本物の女神じゃないか……」


 本来なら信じられるはずのない出来事。


 だが昨夜から、常識では説明のつかない奇跡を何度も目の当たりにしてきた伸田にとって、もう一つ奇跡が増えたところで疑う理由にはならなかった。


 それでも胸の奥から込み上げる感動だけは抑えられず、全身が震えていた。


 そして――。


 もう一人、身体を震わせている者がいた。


 蠅の王である。


 雷によって復活し、圧倒的な力を手に入れた今、自分こそがこの世で最強の存在だと信じて疑わなかった。


 神獣白虎ですら、魔バエの群れで封じ込めた。


 伸田を始末したあと、自らの手で白虎にもとどめを刺すつもりだった。


 そのはずだった――。


 だが、目の前に現れた銀翼の少女は違う。


 青い炎で魔バエの群れを焼き払い、渾身の大雷さえ黄金の盾で完全に防ぎ切った。


 しかも、空を自在に舞っている。


 理解が追いつかない。


 それまで抱いていた最強無敵の自信が音を立てて崩れていく。


 蠅の王は、生まれて初めて味わう恐怖に、今にも理性を失いそうになっていた。


「いったい……あの女は何者なんだ……。


 だが、あいつが駄目なら――」


 血走った目が、伸田を捉える。


「まずは目障(めざわ)りなノビタを血祭りに上げてやる!!」


 ニケに対して抱いた恐怖。


 それは蠅の王にとって、耐え難い屈辱だった。


 その屈辱は怒りへと姿を変え、怒りは膨大な電気エネルギーとなって全身を駆け巡る。


バチッ! バチバチッ!


 紫色に輝く肉体から発する黄色い火花が激しく散り、小さな稲妻が何本も走る。


 怒りに呼応するように、蠅の王の全身は雷光をまとい始めた。


 そして、ゆっくりと身体の向きを変える。


 狙う相手は――ニケではない。


 伸田だった。


「死ねぇぇぇっ!!


 ノビターーーーッ!!」


バリバリバリバリィィィーッ!!


 凄まじい轟音とともに、巨大な稲妻が蠅の王の身体から一直線に放たれる。


 今度は天へ向かう雷ではない。


 伸田を狙い、水平方向へと撃ち出された必殺の一撃だった。


 雷光は低く垂れ込めた灰色の雲を下から照らし出し、夜明け前の山中を一瞬だけ真昼のような明るさへと変える。


 次の瞬間――


ドッカァァァァーンッ!!


 天地を揺るがす爆音とともに、大雷が伸田へと直撃した。


     ********


『成治さん……。


 間に合ったわ。


 ニケが白虎さんとノビタさんのもとへ到着した。二人とも無事だから安心して』


 ロシナンテの運転席で、戦いの行方を案じ続けていた鳳 成治(おおとり せいじ)の脳裏に、澄み切った美しい女性の声が直接響いた。


「……っ!」


 鳳は思わず目を見開く。


「この声は……アテナさん!


 そうか……ニケが間に合ったんですね!」


 思わず声を上げた鳳に、車内の静香、島警部補、長谷川警部の三人は何事かと顔を見合わせた。


 もっとも、アテナの念波(テレパシー)を受け取れるのは、義弟であり、以前にも彼女と精神交信を経験している鳳だけである。


 他の三人には、何が起きたのか分からない。


 それでも、鳳の表情に浮かんだ安堵と喜びを見れば、それが悪い知らせではないことだけは伝わった。


 自然と車内の空気も少しだけ和らぐ。


 ロシナンテの中にいる四人は、先ほどから何度も空全体を染める稲光と、大地を揺るがす轟雷を耳にしながら、伸田と白虎の身を案じ続けていた。


 中でも静香の胸を締めつけていた不安は、人一倍大きかった。


 両手を固く組み、愛する伸田の無事をひたすら祈り続けていたのだ。


 最初の凄まじい雷鳴が轟く少し前――。


 静香は、危機に陥った伸田の絶望にも似た叫びを、確かに聞いたような気がしていた。


 それでも、不思議と胸の奥では確信にも似た思いが湧き上がっていた。


 ――伸田は、きっと生き延びる。


 理由は分からない。


 けれど、そう信じられた。


 だから静香は、祈るように心の中で語りかけ続けていた。


 ――大丈夫。


 あなたは、死なない。


     ********


 再び、蠅の王が放った雷によって生じたオゾンの刺激臭が周囲に漂う。


 だが、その匂いも吹き荒れる吹雪に飲み込まれ、あっという間にかき消されていった。


「はははは……。


 これで邪魔な虫けらを一匹始末できたか。


 それにしても、たかが人間の分際で、よくここまで俺に歯向かったものだ。


 その勇気だけは記憶に留めておいてやろう。


 さらばだ、ノビタ――」


 勝利を確信した蠅の王が不敵に笑う。


 しかし、その笑みは次の瞬間、凍りついた。


「……む?」


 伸田がいた空域を覆っていた黒煙が、突風にあおられて一気に吹き払われる。


 その先に現れた光景を目にした蠅の王は、大きく目を見開いた。


 口を開けたまま、言葉を失う。


 そこには、黄金の光があった。


 再び現れた楕円形の黄金――。


 『イージスの盾』である。


 いつの間に移動したのか。


 ニケは伸田の前へ回り込み、両手で掲げたイージスの盾によって、蠅の王の大雷を完全に受け止めていた。


 ゆっくりと目を開いた伸田は、自分の目の前で銀色の翼を羽ばたかせるニケの後ろ姿を見つめた。


 それでもなお、自分が生きているという実感が湧かなかった。


 雷が放たれた瞬間、自分の人生は終わったと覚悟していた。


 脳裏に浮かんでいたのは、ただ一人――愛する静香の笑顔。


 無宗教の自分が、知る限りの神や仏の名を心の中で唱え、助けを求めていたことさえ思い出す。


 だが実際に自分を救ったのは、ギリシャ神話に語られる勝利の女神ニケと、女神アテナが誇る最強の盾だった。


「き、君が……僕を助けてくれたのか?


 ニケ……」


「ええ」


 イージスの盾を構えたまま、ニケはわずかに肩越しに振り返る。


 その美しい横顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。


「本当に、間一髪だったわね」


「ありがとう……ニケ。


 僕は、まだ死ねないんだ」


「分かってる」


 ニケは再び蠅の王へ視線を戻したまま答える。


「あなたには、守りたい人がいるんでしょう?」


 そして、静かに言った。


「ここから先は私に任せて。


 あなたは下がりなさい。


 早く」


 その言葉に、伸田は左手に持ったヒヒイロカネの剣を強く握り締める。


「正直に言えば……僕だってそうしたい」


 一度だけ息を吸い込む。


 そして、力強く言い放った。


「でも……!


 アイツだけは、この手で倒さなきゃならないんだ!」


 ニケは背を向けたまま、小さく首を振る。


「……無理よ」


 その声は静かだったが、決して揺るがない。


「ベルゼブブになった今のヤツは、あなたじゃ倒せない。


 いいえ――普通の人間には倒せないの。


 だから、行って」


 その言葉には情けも慰めもなかった。


 ニケは、目の前にいる蠅の王のような魔の存在を、伸田よりもはるかによく知っている。


 だからこそ、現実だけを口にしていた。


 しかし、伸田は一歩も引かなかった。


「ダメなんだ!」


 叫びは吹雪の中へ響き渡る。


「僕は、死んでいった仲間たちの無念を晴らすと誓った!


 愛する人を守るためにも、この手でアイツを倒さなきゃならない!」


 さらに一歩、ニケへ近づく。


「それに、アイツの狙いは僕なんだ!


 それなのに、女の子の君だけに戦いを押しつけて、自分だけ逃げるなんて……


 そんなこと、僕には絶対にできない!!」


 その叫びには、意地でも覚悟でもない。


 命を懸けても譲れない、伸田という人間の信念そのものが込められていた。


「…………もう!」


 ニケは小さくため息をついた。


「あなた、本当に頑固ね。


 最初は今どきの草食系男子かと思ったけど、心の中には誰にも曲げられない強い意志を持ってる。


 ……まるで、飄(ひょう)君みたい」


 ふっと懐かしそうに微笑む。


「そういう人……私、嫌いじゃないわ」


 そして、蠅の王と伸田を結ぶ一直線の軌道から、そっと身を外した。


「そこまで言うなら、やってみなさい。


 骨くらいなら、私が拾ってあげる」


「ありがとう、ニケ。」


 伸田は深く頷く。


「助けてくれたこと、本当に感謝してる。


 それと……厚かましいお願いなんだけど、一つだけ聞いてくれないかな」


「何?」


「その盾を……僕に貸してほし」


 一瞬、ニケは目を丸くした。


「……なるほど」


 すぐに納得したように小さく頷く。


「イージスを使うのね。


 そんな簡単なことに気づかなかったなんて、私もまだまだだわ」


 そう言うと、ニケは伸田のそばまで飛んできて、黄金の盾を差し出した。


「使って。


 これは地上最強――アテナの『イージスの盾』。


 どんな攻撃だって防いでみせる」


 だが、その直後、表情を引き締める。


「でも、ノビタさん。


 守るだけじゃ勝てないわ。


 勝算はあるの?」


 伸田は両手でイージスの盾を受け取った。


「……軽い」


 思わず漏れた声だった。


 地上最強の盾と聞けば、持ち上げることさえ困難な重量を想像していた。


 だが実際には、生卵一個ほどしか重さを感じない。


 黄金色の楕円形。


 表面には精巧な装飾と、伸田には読めない古代文字らしき文様が刻まれている。


「あなたが持っているのは、『ヒヒイロカネの剣』ね」


 ニケが静かに言う。


「うちのお祖父ちゃんの神社で祭祀に使われていた剣。


 成治叔父さんから借りたんでしょう?」


 さらに彼女の視線が伸田の腰へ向く。


「それに、そのベレッタ。


 残っている弾は一発だけ。


 ……『式神弾(しきがみだん)』ね」


 ニケの青い瞳が細められる。


「その弾には、お祖父ちゃんの強い念が宿ってる。


 それなら、ひょっとすると……」


 伸田は息を呑んだ。


 ヒヒイロカネの剣も。


 最後の一発となった式神弾も。


 ニケはすべて知っている。


 しかも、そのどちらも彼女の祖父に関係しているという。


 ――いったい、どんな人物なんだ……。


 一度会ってみたい。


 そんな思いが一瞬だけ頭をよぎる。


 しかし、それ以上考える時間はなかった。


 伸田の視界に映った蠅の王の様子が明らかに変わっていたのである。


「ニケ!」


 伸田が鋭く叫ぶ。


「また雷を撃つ気だ!


 身体中が帯電してる!


 僕から離れて!」


 言い終えるより早く、自らも左へ飛び退く。


 飛行しながらイージスの盾を左腕へ装着し、右手にはヒヒイロカネの剣を構えた。


「おい、蠅の王!」


 伸田は叫ぶ。


「お前の相手は、この僕だ!


 もう二度と、お前なんかに負けない!


 来い!!」


 ニケへ意識を向けさせない。


 そのための挑発だった。


「何だとぉっ!!」


 蠅の王が怒りに顔を歪める。


「そんなに死にたいなら、望みどおり貴様から殺してやる!」


 紫色の身体から無数の火花が弾ける。


 帯電はさらに激しさを増し、次の大雷を放つ準備は、すでに整いつつあった。


 だが、伸田は気づいていた。


 ニケが現れてからの蠅の王には、あの圧倒的な余裕がない。


 口調も態度も荒れ、まるで雷を浴びる前のヒッチハイカーへ逆戻りしているかのようだった。


 ――いけるかもしれない。


 怒りで冷静さを失わせれば、勝機はある。


 伸田はさらに叫ぶ。


「やれるものなら、やってみろ!


 ヒッチハイカー!!


 今度は僕がお前に、地獄を味わわせてやる!!」


「食らえぇぇぇっ!!


 ノビターーーッ!!」


 怒り狂った蠅の王が、渾身の大雷を解き放つ。


バリバリバリバリィィィーーッ!!


ビッシャァァァーーン!!


 閃光が天地を貫いた。


 果たして伸田は、ニケのようにイージスの盾で雷を防ぎ切れたのか。


 空ではニケが。


 地上では白虎が。


 固唾(かたず)を呑み、その結末を見守る。


 やがて吹雪が黒煙を吹き払い、漂っていたオゾン臭も消えていく。


 そして――。


 そこには、何もなかった。


「ノビタさん……!」


「ノビタ……!」


 ニケと白虎が、ほとんど呻き声のように同時にその名を呼ぶ。


 その直後だった。


ブシュッ!


「ぐああああぁぁっ!!」


 蠅の王のいる空域から、鮮血が吹き上がった。


 悲鳴も、飛び散る血も――伸田のものだった。


「ふふふ……惜しかったな、ノビタ」


 蠅の王が口元を歪める。


「俺の雷を盾で受け止め、その閃光と黒煙、吹雪の音に紛れて背後を取る……。


 悪くない作戦だった」


 勝ち誇るように笑う。


「だが残念だったな。


 俺には、お前の考えが読める。


 そのことを忘れていたようだ」


 右手に握られた山刀。


 その鋭い刃は、伸田の腹を深々と貫き、背中から血に染まった切っ先を突き出していた。


「が……ふっ!」


 伸田の口から大量の血があふれる。


 伸田はイージスの盾で大雷を防ぎ、その瞬間に生じた閃光と黒煙を利用して蠅の王の背後へ回り込んでいた。


 だが、思考を読む能力を持つ蠅の王は、その動きを見抜いていた。


 振り向きざまに放った一撃が、伸田の腹部を正確に貫いたのである。


「ノビタさん!!」


「ノビタ!!」


 空ではニケが。


 地上では白虎が。


 悲痛な叫びを上げる。


 腹部からあふれ出した鮮血は、吹雪に乗って宙を舞い、白い雪を一瞬だけ赤く染めた。


「長い夜だったな」


 蠅の王は伸田に語りかけた。


 親友にでも話すかのような口調で。


「お前の車に俺が跳ね飛ばされた、その瞬間から、お前の悪夢は始まった」


 ゆっくりと目を細める。


「戦いの中で、お前は強く進化した。


 それ以上に俺も進化した。


 言い換えれば、今の俺を生み出したのは、お前だ」


 薄く笑う。


「お前は死んでも、俺の記憶には残り続けるだろう。


 さらばだ、ノビタ」


 そう言って山刀を引き抜こうとした、その時だった。


「……ん?」


 右手が動かない。


 見ると、血まみれになった伸田の左手が、蠅の王の手首をがっちりと掴んでいた。


 まるで、自分の身体から山刀を抜かせまいとするかのように。


「……何のつもりだ?」


 蠅の王が眉をひそめる。


「気でも狂ったか?」


「つ……ついに……」


 口から血をあふれさせながら、伸田は笑った。


「お……お前を……捕まえた……ぞ……」


 大量の出血で顔色は青白く変わり、今にも倒れそうだった。


 それでも、その瞳だけは死んでいない。


「そんな身体で、お前に何ができる?」


 蠅の王は冷たく言い放つ。


 その口調には憐れみすら混じっていた。


 早く終わらせたい――。


 そんな苛立ちを隠そうともしていなかった。


「そ……そんなに……冷たく……するなよ……」


 伸田は苦しそうに笑う。


「お前に……プレゼント……だ……」


 震える右手が、ゆっくりと蠅の王の腹へ伸びる。


 冷たい金属が、腹筋へ押し当てられた。


「……!!」


 蠅の王の表情が凍りつく。


 それはSIT正式装備――ベレッタ90-Twoの銃口だった。


「き、貴様……!」


 思わず息を呑む。


「いつの間に……。


 なぜだ……?


 貴様の思考が読めなかった……。


 今も……読めない……」


 魔界でも上位に位置する存在となった自分が、伸田の行動を読めなかった。


 それが信じられなかった。


「ぎ……疑似結界……シールドを……」


 伸田は苦しげに息をつく。


「僕……自身に……張った……」


「……!」


「完全に……魔界の存在になった……お前には……。


 僕の思考は……読めない……」


 蠅の王の脳裏に、トンボ形態だった頃、自分を閉じ込めた緑色の結界がよみがえる。


「疑似結界……あれか」


 伸田は自らを疑似結界で包むことで、魔界の存在である蠅の王から思考も気配も完全に遮断したのだ。


 だからこそ、大雷を受け止めた直後、一瞬で背後へ回り込むことに成功した。


 戦闘の才能。


 その一点だけなら、伸田は最後まで蠅の王を上回っていた。


 だが、唯一の誤算があった。


 疑似結界は魔界の力を遮断する。


 しかし、オリハルコンで造られた山刀は、あくまで物質。


 その刃だけは結界をすり抜け、伸田の腹を貫いてしまった。


 本当にあと一歩だった。


 あと一歩。


 あと引き金を引くだけで、最後の『式神弾』は蠅の王の身体を撃ち抜き、勝負は決していたかもしれない。


     ********


 『式神弾』――。


 それは、伝説の安倍晴明(あべの せいめい)に匹敵すると謳われる現代最高の陰陽師、安倍賢生(あべの けんせい)が、一発一発に念を込め、五芒星(ごぼうせい)を刻んだ退魔の銃弾である。


 魔界の存在を文字どおり滅する力を秘めたその弾丸によって、蠅の王の前身であるヒッチハイカーも、かつて命を落としかけた。


 その安倍賢生こそ、東京郊外にある『安倍神社』の現当主であり、鳳成治の実父。


 そして、ニケこと榊原くみの父方の祖父でもある、稀代の大陰陽師だった。


     ********


「なるほど……」


 蠅の王は、伸田を見下ろしながら静かにつぶやいた。


「俺だけではなく……貴様も人間の身でありながら、戦いの中で随分と進化したようだな」


 その表情には、わずかな感嘆すら浮かんでいた。


「正直に言おう。恐れ入ったよ」


 しかし、すぐに口元を歪める。


「だが……死にかけの貴様の細腕が、俺の右腕を止められると思うか?」


 伸田の腹部に突き刺さった山刀を握り直す。


「そんな華奢な腕など、引き千切って抜け出してやる」


「ふんっ!」


 力を込め、山刀を引き抜こうとした。


 だが――。


「……何だと?」


 山刀は、びくともしなかった。


 驚いた蠅の王が、自分の右腕を見る。


 そこには、信じられない光景が広がっていた。


 伸田の左手。


 そして、その左手に重なるように絡みつく――半透明の八本の腕。


 それらの腕の持ち主は、伸田のすぐ側に浮かぶ四人の亡霊だった。


『ノビタ! 俺達も力を貸すぜ!』


『こいつだけは……絶対に逃がさねえ!』


 力強い声に、伸田はゆっくりと顔を向けた。


 そこにいたのは――。


 半透明の姿となった旧友、ジャイアンツこと幸田剛士(こうだ たけし)。


 その隣には、恋人の水木(みずき)エリ。


 そして反対側には、スネオこと須根尾骨延(すねお ほねのぶ)と、その恋人である山野ミチル。


 四人とも、かつてヒッチハイカーの犠牲となった仲間達だった。


 彼らの八本の腕が、伸田の左手と共に蠅の王の右腕を決して離さない。


『僕達は……いつもお前と一緒だよ、ノビタ』


 スネオの懐かしい声が響く。


 エリとミチルも、優しく微笑みながら頷いた。


「あ……ありがとう……みんな……」


 血を流し過ぎ、青白くなった伸田の頬を涙が伝う。


「も、もう一度……みんなの力を……僕に貸してくれ……」


「貴様らは……!」


 蠅の王の顔が怒りに歪む。


「俺が殺したガキどもの亡霊か!」


 右腕に絡みつく亡霊達を振り払おうとする。


「ええい! 鬱陶しい亡霊ども!


 手を放せ! 放せえっ!」


 だが――。


 魔界の力を得た蠅の王の強靭な腕力をもってしても、四人の亡霊達を引き剥がすことは出来なかった。


 彼らは右手で蠅の王を拘束しながら、左手でその身体を押さえ込む。


 まるで、伸田から絶対に逃がさないと言わんばかりに。


『ノビタ……今だ! 撃て!』


 ジャイアンツの声が響いた。


 その一言で、消えかけていた伸田の意識が戻る。


 ゆっくりと目を開く。


 焦点の合わない視界の中で、伸田は確かに見た。


 自分を守るように蠅の王を押さえる、四人の仲間達の姿を。


 しかし――。


 伸田の身体は、もう限界だった。


 大量出血によって力は失われ、意識も途切れかけている。


 脳波誘導で操るウインドライダーシステムも、正常な制御が困難になっていた。


 そして何より……。


 ベレッタ90-Twoを握る右手の指には、もう引き金を引くだけの力すら残されていなかった。


 伸田は震える左手を右手に添える。


 両手で必死に銃を握り直し、蠅の王の腹部へ銃口を押し当てる。


 そして、消えゆく意識と戦いながら、最後の言葉を絞り出した。


「は……蠅の王……。


 いや……ヒッチハイカー……。


 こ……これが……最後の一発だ……。


 みんなの……想いが詰まった……。


 式神弾を……喰らえ……!」


「や、やめろおおおおっ!!」


 恐怖に歪んだ蠅の王の絶叫。


 その腹部に押し付けられたベレッタの引き金を――。


 伸田は、残された最後の力で引いた。


ドッギュウウウゥーンッ!!


 吹雪の音しか響かない夜明け前の山中に。


 一発の銃声が轟いた。





【最終回に続く……】

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。