第36話「どうしても南へ行きたいんだ…㉞『その名はニケ! 銀の翼を持つ少女』」
「何だって? 蠅の王? 一体どういうことなんだ、風祭さん!
伸田君は!? 千寿は!? 二人はどうなっている!」
『ロシナンテ』の運転席で、鳳成治が思わず腰を浮かせた。
普段は冷静沈着な彼とは思えないほどの取り乱しようだった。
まるで無線の向こうにいる風祭聖子へ食ってかかるような勢いで怒鳴る。
車内にいた全員が息をのみ、そのやり取りに耳を傾けていた。
なかでも伸田の恋人であり婚約者でもある皆元静香は、二列目のシートで身を固くしたまま動けない。
静香は指先が白くなるほど両手を強く握り締め、運転席に座る鳳の後頭部を祈るような目で見つめていた。
『……非常に残念だけど、死にかけていたヒッチハイカーは雷の直撃を受けて、おそらく最終進化形態――"蠅の王"へと変貌したわ。
うちの所長……白虎は、あいつが操るハエの大群に飲み込まれて身動きが取れない。
そして今、決死の覚悟を決めた伸田君が、ベルゼブブとの最後の戦いに挑もうとしているところよ』
聖子の報告がスピーカーから流れ終わると、車内は水を打ったような静寂に包まれた。
誰も言葉を発せない。
ヒッチハイカーとの戦いで重傷を負った長谷川警部でさえ、最後列のシートで毛布にくるまったまま、傷の痛みを忘れるほどの衝撃を受けていた。
「ベルゼブブ……蠅の王だって?
ヤツは、元は普通の人間だったはずだ。それが、どうして……!」
鳳は握り締めた拳を運転席のドアへ叩きつけた。
ドンッ!
「くそっ!」
車内に沈黙が訪れると聖子が再び話し始めた。
『私にも分からない。でも……今回の事件は偶然なんかじゃない気がするの。
まるで、このすべてを陰で操る巨大な悪意が存在している――そんな気がしてならない』
途中から、聖子の声は考え込むように途切れがちになる。
その不安げな口調は、車内の空気をさらに重くした。
もっとも、その言葉の真意を理解できたのは鳳だけだった。
「聖子さん……私も同感だ。
今回の『ヒッチハイカー事件』は、何者かによって仕組まれていた可能性が高い。
千寿も私も、言うなれば『アテナ』側の人間だ。
ライラやバリーの所属する組織が暗躍し、さらにBERSに類似した薬剤まで関わっている。
そこから考えれば、アテナに敵対する闇の存在が裏で糸を引いていると見て間違いないだろう」
「いったい……あなたたちは何を話しているんですか!」
島警部補が、ついに声を荒らげた。
これまで黙って聞いていたが、理解できない話ばかりが続き、とうとう堪えきれなくなったのだ。
その思いは長谷川も、静香も同じだった。
全員が伸田と千寿の安否を案じている。
そんな状況で、自分たちだけが知らされない話を続けられれば、焦りと苛立ちが募るのも当然だった。
「……すまない、島警部補。」
鳳は短く息を吐いた。
「今、私と風祭さんが話していたのは、国家機密に匹敵する内容だと思ってもらいたい。
残念だが、君たちにも話すことはできない。
ただ、一つだけは言える。
今、伸田君が戦っている『蠅の王』を放置しておくと、近い将来、この国の存亡を左右しかねない存在となるだろう。
……作戦責任者である私が言うのも情けない話だが、今の我々には、伸田君の健闘を祈ることしかできない」
毅然とした口調とは裏腹に、握り締めた鳳の拳は小刻みに震えていた。
その震えが、彼自身の無念さを何より雄弁に物語っている。
組織は違えど、警察官である長谷川も島も、その苦しい立場を理解した。
だが――。
車内には、どうしても黙っていられない人物が一人だけいた。
「そんなの、あんまりです!」
静香が悲鳴にも似た声を上げる。
「どうしてノビタさん一人の肩に、国の存亡なんて重すぎるものを背負わせるんですか!?
彼は警察官でも政府の人間でもありません!
ただの普通の青年です!
……私の、大切な婚約者なんです!」
涙をこらえながら叫ぶ。
「国家なんて、私は知りません!
お願いです……彼を無事に私のところへ返してください!
私のお腹には……ノビタさんの子供がいるんです!」
静香の悲痛な叫びが、『ロシナンテ』の車内に響き渡った。
車内は水を打ったような静けさに包まれた。
誰一人として、静香にかける言葉を見つけられない。
そんな沈黙を破ったのは、無線越しに聞こえる聖子の声だった。
『落ち着いて、静香さん。
冷たい言い方になるけど、あなたが今取り乱しても状況は何も変わらないわ。
伸田君は、あなたとお腹の子供を守るために立ち上がったの。その気持ちを分かってあげて。
蠅の王となった今も、ヤツはあなたを狙っている。
あの異常な執着……いいえ、もはや執念と呼ぶべきね。
その執念からあなたを救うには、あいつを倒すしかない。
だから伸田君は、自分の意志で最後の戦いを選んだのよ』
静香は俯いたまま、黙って聖子の言葉を聞いていた。
やがて、大粒の涙が頬を伝い、膝へとこぼれ落ちる。
「ノビタさん……お願い……
どうか、死なないで……」
その切なる願いに、車内の誰もが胸を締めつけられた。
「何とかならないんですか、鳳さん!」
島が悲痛な声を上げる。
「伸田君は事件に巻き込まれただけの一般人なんです! どうか、彼を助けてください!」
「頼む……何とかしてやってくれ。」
最後列で横たわる長谷川も、苦しげな声を絞り出した。
鳳は二人の訴えを受け止めるように目を閉じ、すぐに無線へ向かって口を開く。
「風祭さん、『黒鉄の翼』はどうなっている?」
『黒鉄の翼は、重傷を負った安田巡査を救急搬送中よ。
だから、今すぐそちらへ向かうことはできない』
その返答に、鳳は歯を食いしばった。
「くそっ……!」
思わず拳を握り締める。
「この『ロシナンテ』はヒッチハイカー、そしてライラとバリーとの戦闘で大破している。
現状での戦闘は、ほぼ不可能だ。
そのうえ『黒鉄の翼』まで動けないとなれば……我々には、もう打つ手がない……!」
普段は決して取り乱さない鳳が、両手で頭を抱え込んだ。
そんな彼の姿を前にしても、誰も何も言えない。
応急処置としてビニールシートが張られただけの破壊された天井を、吹雪が激しく叩き続ける。
ビシビシと鳴り響く風雪の音だけが、重苦しい沈黙の中でやけに大きく聞こえていた。
――その時だった。
鳳が勢いよく顔を上げる。
「待て……!」
その目に、力が戻っていた。
「あった……!
打つ手が、一つだけある!」
車内の全員が一斉に鳳を見る。
「どうして今まで思いつかなかったんだ……!
この状況を打開できる存在が、一人だけいる!」
先ほどまで絶望に沈んでいた声とは別人のようだった。
表情には生気が戻り、瞳は確信に満ちている。
「風祭さん!
私の姪だ!
榊原くみに連絡を取ってくれ! 急いで!」
『……っ!
そうか、ニケね! 彼女を使うのね!
すぐ連絡するわ!』
鳳と聖子だけが理解している会話。
他の者たちは事情が分からず顔を見合わせるしかなかった。
それでも二人の弾んだ声を聞いただけで、不思議と車内の空気は変わっていく。
絶望に沈んでいた空気が、ほんのわずかに希望へと傾き始めた。
「急いでくれ、風祭さん!
くみ……いや、ニケなら間に合う!
彼女の極超音速飛行なら、この場所まで数分で来られる!」
鳳は興奮を隠しきれない様子だった。
「ニケ……?」
「極超音速飛行……?」
静香と島は顔を見合わせる。
最後列では長谷川も眉をひそめたまま首を傾げていた。
鳳の言葉は、相変わらず誰にも理解できない。
「あの……鳳さん。」
島が恐る恐る口を開く。
「榊原くみさんというのは……あなたの姪御さんなんですか?
本当に、その人がこの状況を変えられるんですか?」
鳳は後部座席を振り返った。
その瞳は、希望を見つけた人間だけが宿す強い輝きを放っている。
「ああ。」
力強く頷く。
「この状況を打開できるとしたら、彼女しかいない。」
一拍置き、鳳は断言した。
「なぜなら彼女は――ニケは、勝利の女神だからだ。」
********
「分かったわ、聖子さん。
今の話で、すっかり目が覚めたわ。
成治おじさんに伝えて。――すぐ向かうって。」
少女はそう告げると、スマートフォンの通話を切った。
時刻は午前四時三十二分。
冬の日の出にはまだ早く、外も室内も深い闇に包まれている。
ここは東京郊外。
安倍神社の裏手に建つ榊原家。
その一室でベッドに腰掛けていたのは、この家の一人娘――十五歳の少女、榊原くみだった。
つい先ほど、『ロシナンテ』の車内で鳳と風祭聖子が口にした「くみ」とは、まさに彼女のことである。
栗色の長い髪。
そして、澄み切った青い瞳。
その類まれな美貌は純粋な日本人ではない。
一目で普通の少女ではないことを感じさせた。
数分前まで眠っていたくみは、突然鳴り響いた着信音で目を覚ました。
相手は、千寿理が所長を務める探偵事務所の秘書・風祭聖子。
面識こそなかったが、叔父・鳳成治を通じて存在だけは知っている人物だった。
聖子から事件の概要を聞き、そして――
『あなたしか、この事態を止められない。』
その言葉を受け、くみは迷わなかった。
叔父を、そして現場で命を懸けて戦う人々を救うため、出動を決意したのである。
くみはパジャマを脱ぎ、黒い戦闘スーツへと着替え始める。
それは日本政府が極秘裏に開発した、ニケ専用特殊戦闘スーツ。
耐弾・耐刃性能はもちろん、耐熱性、耐衝撃性までも備えた最高峰の特殊装備だった。
「くみ。行くのね。」
扉の向こうから声がした。
そこに立っていたのは母、榊原アテナ。
流暢な日本語を話す彼女だったが、その姿は日本人とは似ても似つかない。
燃えるような金髪。
吸い込まれそうな蒼い瞳。
まるで神話から抜け出してきた女神のような、美しい白人女性だった。
その血を受け継ぐくみもまた、栗色の髪を除けば母によく似ている。
並び立つ二人は、まるで映画のワンシーンのような美しさを放っていた。
「ええ、ママ。
詳しい状況は聖子さんから聞いて。
飛行中にテレパシーで私へ伝えて。」
戦闘スーツへ着替え終えたくみが庭へ向かいながら言う。
アテナは穏やかに微笑んだ。
「分かったわ。
後は任せてちょうだい。」
内閣総理大臣・志村の命令によって製作された特注の戦闘スーツは、くみの長身で引き締まった身体へ寸分違わずフィットしていた。
庭へ漏れる室内の灯りが、その美しいシルエットを夜明け前の闇へ鮮やかに浮かび上がらせる。
くみは襟元へ右手を添え、小さなスイッチを押した。
プシューッ――。
空気が抜ける音とともに、背中の肩甲骨付近に二本の細いスリットが開く。
次の瞬間だった。
スリットから青白い光が噴き上がる。
その光は翼の形へ広がり――
やがて眩い輝きが収まると、そこには二枚の巨大な翼が現れていた。
銀色の羽根で覆われた、美しい翼。
まるで天使のように神々しく。
そして、生きた鳥のように力強く羽ばたく。
バサッ――。
バサッ――。
一枚一枚の羽根が夜気を切り裂き、静かな庭に風を巻き起こした。
「それじゃあ、行ってくるね。ママ。」
「今回の敵は手強いわ。
相手は蠅の王。
油断せず、成治叔父さんたちを助けてあげなさい。」
不思議なことに、アテナは電話の内容を聞いていない。
それなのに、鳳たちの危機も、敵がベルゼブブであることも、すべて知っているかのように話していた。
くみもまた、それを当然のこととして受け止めている。
この母娘には、常識では測れない秘密があった。
「分かった。
行ってきます、ママ。」
その言葉と同時に――
くみの姿は、その場から消失した。
常人の目に捉え切れない速度で天空へ舞い上がる。
「行ってらっしゃい。
私の愛しい娘――ニケ。」
夜空のはるか上空。
銀色の翼を広げたニケは、一直線に夕霧谷へ向かう。
さらに加速する。
音速を超え、ジェット戦闘機さえ置き去りにできるほどの飛翔速度。
ついにはマッハ二十を超え――極超音速の世界へ到達する。
夜明け前の空を銀色の軌跡だけが駆け抜けていく。
目的地まで、あとわずか。
――アテナ。
――ニケ。
神話の名を持つ、この不思議な母娘はいったい何者なのか。
その秘密を知る者は、ごくわずかだった。
********
『ウインドライダーシステム』のバックパックに搭載された六基のローターを全開にし、伸田は凍てつく大地から舞い上がった。
吹雪の中を高速で旋回しながら、蠅の王を中心に周回する。
狙うのは、ほんの一瞬の隙だった。
(聖子さんの言う通り……。
疑似結界シールドの中へ閉じ込められれば、ヤツの動きは止まる。
その瞬間に、『式神弾』を撃ち込む!)
そう考えた――次の瞬間だった。
「……っ!?」
目の前に、蠅の王の顔があった。
何の前触れもなく。
無表情のまま、口元だけをゆがめて囁く。
「何か企んでいるようだが、お前の思い通りにいくかな?」
「うわっ!!」
伸田は反射的に後方へ飛び退いた。
だが。
「つれないな。」
今度は耳元だった。
背後から、生暖かい吐息がかかる。
「俺と遊ぼうぜ。
その何とかシールドってやつを、早く試してみろよ。」
「くそっ!」
振り向きざま、『ヒヒイロカネの剣』を全力で薙ぎ払う。
カキィーン!!
蠅の王は片手で山刀をわずかに振り上げただけで、その一撃を軽々と受け止めた。
『ヒヒイロカネ』で作られた剣と『オリハルコン』製の山刀――
鋼をもたやすく切断する硬度は全くの互角だった。
いずれも刃こぼれ一つない。
「そうだ。
もっと足掻け。
もっと楽しませろ。」
(しまった……!)
伸田は息をのむ。
自分が考えて動くたび、蠅の王は常に先回りしてくる。
しかも――
疑似結界シールドの存在まで知っていた。
(まさか……。)
(こいつ……
僕の思考を読んでいるのか!?)
『その考え、案外当たっているかもしれないわ。』
ヘルメット越しに聖子の声が届く。
「聖子さん。じゃあ……やっぱり?」
『ええ、完全な魔族になった相手よ。
人間の思考を読むくらい、不思議じゃないわ。』
伸田は絶句した。
「そんな……。
それじゃ攻撃も回避も全部読まれる……。」
勝てるはずがない。
相手はこちらが考えた瞬間、すべてを覚っている。
その圧倒的な能力差を思い知らされ、伸田の心は深く揺らいだ。
「どうした?」
蠅の王が笑う。
「絶望したか? お前が来ないなら、こっちから行くぞ。」
ヒュンッ!!
マチェーテが閃く。
カキィーン!!
間一髪――。
伸田は無意識のまま剣を正面にかざすように突き出し、その斬撃を受け止めていた。
自分でも驚くほど自然な反応だった。
昨夜から続く死闘。
その極限状態が、伸田自身も気づかないうちに戦闘能力を飛躍的に引き上げていたのである。
もはや彼の反射神経は、普通の人間の域を超えていた。
「はははっ!」
蠅の王は心底楽しそうに笑う。
「いいぞ!
それでこそ面白い!
もっとだ。もっと俺を楽しませろ!」
再び斬りかかる。
ギュンッ!!
カキン!!
ギュオン!!
キィーン!!
夜明け前の闇に火花が散る。
空中を縦横無尽に飛び回る二人。
激突するたび、黄色い閃光が夜空を切り裂き、その一瞬だけ戦う二人の姿が浮かび上がる。
ヒヒイロカネの剣。
オリハルコンの山刀。
二つの失われた超金属の刃が、激しくぶつかり合う。
武器だけなら互角。
――だが。
剣を振るう者は違う。
気力も。
体力も。
速度も。
すべてにおいて、蠅の王が上だった。
互角に見える斬り合いは、決して実力伯仲ではない。
蠅の王が遊んでいるだけだ。
獲物をすぐには殺さず、じわじわと追い詰める猛獣のように。
「くそっ……!」
伸田は歯を食いしばる。
「ヤツは本気を出していない……。
少しでも気を抜けば、一瞬で殺される……!」
悔しさが込み上げる。
「やっぱり……
今の僕じゃ、蠅の王に一矢報いることさえ……
夢なのか……。」
********
「つまらない戦いだねぇ、バリー。」
離れた場所から空中戦を眺めていたライラが、大きくため息をつく。
「蠅の王……ベルゼブブか。
あんな化け物が相手じゃ、人間の小僧ごときに勝ち目なんてあるわけないじゃないか。
遊んでないで、さっさと切り刻めばいいのに。」
「ブモォ!」
バリーも低くうなり、同意するように頷いた。
正直なところ、二人は退屈していた。
ベルゼブブが伸田をじわじわと追い詰める様子を見ているだけでは物足りない。
むしろ、自分たちの手であの青年を八つ裂きにしたい――。
そんな残虐な衝動が膨れ上がっていた。
その時だった。
ライラの身体が、びくりと震える。
「……っ!?」
次の瞬間、彼女の表情が一変した。
「何だ……!?
何か来る!」
ライラは反射的に空を見上げる。
「こっちへ向かって、とんでもない速度で飛んでくる……!
くそっ!
速い……!
このアタシより速い!!」
「ブ……?
ブモォ?」
バリーには、まだ何も感じられない。
だが、ライラの取り乱した様子を見た瞬間、その巨体が驚きに震えた。
いつも冷静で、自信満々なライラ。
そんな彼女が恐怖に近い声を上げる姿など、一度も見たことがなかったからだ。
二人は同時に夜空を見上げる。
夜明け前。
厚い雪雲が空を覆い尽くし、吹雪が視界を遮っている。
――それでも見えた。
雲の下を一直線に突き抜ける、青白い光。
まるで流星。
いや、それ以上だ。
吹雪すら切り裂きながら、猛烈な速度でこちらへ迫ってくる。
その輝きは、見る間に大きさを増していくのだった。
********
ガキィィン!!
ひときわ凄まじい火花が夜空に弾けた。
伸田の手から『ヒヒイロカネの剣』が弾き飛ばされる。
くるくると回転した剣は、二十メートル以上も下の凍てついた大地へ落下し――
ドスッ!
刃を深々と地面に突き立てた。
「しまった!」
衝撃で痺れた右手を押さえながら、伸田は崩れた体勢を立て直そうとする。
その目の前に――
またしても、蠅の王があった。
「詰みだな。」
無表情のまま告げる。
「もう、お前と遊ぶのは飽きた。」
氷のように冷たい視線。
感情の欠片もない声。
蠅の王はゆっくりと山刀を振り上げた。
「さらばだ、脆弱な人間――ノビタ。
お前の首は、我が女への手土産にしよう。」
(……終わった。)
伸田は静かに目を閉じた。
父と母。
仲間たち。
これまで過ごした日々。
楽しかった思い出が走馬灯のように脳裏を流れていく。
そして最後に浮かんだのは――
静香だった。
最愛の人。
彼女が何かを語りかけている。
「シズちゃん……?」
「何て言ったの……?」
耳を澄ませる。
すると、優しく響く声が聞こえた。
『大丈夫……。
あなたは、死なない――。』
その言葉に導かれるように、伸田が目を開く。
――奇跡は、その瞬間に起こった。
シュビィィィィーーッ!!
青白い閃光。
夜明け前の闇を切り裂く二本の光が、天から一直線に降り注ぐ。
その光は、蠅の王が振り上げた山刀を正確に撃ち抜いた。
オリハルコン製の刀身へ。
まるでレーザー光線のように。
ズンッ!!
折れない。
砕けない。
ただ、刀身に二つの小さな穴だけを穿っていた。
信じられない光景だった。
雷撃を受けても傷一つ付かなかった伝説の超金属。
それを、たった一瞬で貫いてしまったのだ。
「ぐっ!」
蠅の王が驚愕の声を上げた。
山刀が手を離れ、地面へ落下した。
ヒヒイロカネの剣の隣へ突き刺さる。
伸田と蠅の王は思わず顔を見合わせた。
敵同士であることすら忘れたように。
そして同時に空を見上げる。
「何だ……あれは?」
声まで重なった。
そこにいた。
二人より三十メートルほど上空。
静かに浮かぶ、一人の人影。
黒い戦闘スーツに包まれた細身の身体。
しなやかな肢体から、それが若い女性であることが分かる。
だが。
人が空に浮かべるはずがない。
その理由は、一目で理解できた。
彼女の背には――
二枚の翼。
銀色の羽根で形作られた、美しく巨大な翼だった。
翼を広げれば四メートル近い。
猛禽のような荒々しさではない。
白鳥を思わせる気高く優雅な翼。
その一枚一枚が、青白い光を静かに放っていた。
不思議だった。
伸田は初めて彼女を見た。
それなのに、
敵だとは思わなかった。
山刀を撃ち抜いた光も。
翼からあふれる淡い輝きも。
そのすべてが、白虎の牙や爪が放つ神聖な光と同じだった。
蠅の王を包む禍々しい紫の魔気とは、まるで違う。
見る者の心を安らがせる、
優しく温かな光。
癒やしと勇気を与える光だった。
だから伸田は確信した。
理由などない。
ただ一目見た瞬間に信じられた。
――彼女は味方だ、と。
「私はニケ。
弱い者いじめは大嫌いなの。
だから――
ここからは、私が相手になるわ。」
その言葉と同時に、
ニケの青い瞳が輝いた。
シュビィィィーーッ!!
二条の青白い閃光が夜空を切り裂く。
光は銃でも兵器でもなかった。
少女自身の瞳から放たれていたのだ。
二条の光線が地上の白虎に群がった魔バエの山に降り注ぐ。
一瞬で焼き払われる魔バエ。
崩れ落ちる紫色の塊。
そして――
「ぐわおおおおっ!!」
白虎が咆哮とともに姿を現す。
「ぷはぁ……! やっと出られたぜ!」
その傷ついた身体は見る見るうちに再生していく。
伸田は息をのんだ。
(今のレーザー……
白虎さんには傷一つ付いていない。)
魔バエだけを焼き払い、
閉じ込められた白虎に一切傷を負わせない。
そんな精密な力の制御が、
あの少女にできるというのか。
伸田は見上げる。
吹雪の夜空。
銀色の翼を広げ、
静かに浮かぶ少女。
その姿は、
まるで神話から舞い降りた女神そのものだった。
(ニケ……
君は……
いったい何者なんだ……?)
伸田は蠅の王の存在すら忘れ、
ただ、その少女を見つめ続けていた。
【次回に続く……】




