第35話「どうしても南へ行きたいんだ…㉝『圧倒的な強さ! 雷より生まれ出でし”蠅の王”』」
上半身だけとなったヒッチハイカーが握る山刀へ、眩い白光をまとった特大級の雷が轟音とともに直撃した。
凄まじい爆発が雪原を揺るがし、伸田の前方の大地には、直径十数メートルにも及ぶ巨大なクレーターが穿たれていた。
その中心――黒煙に包まれた中に、一人の全裸の男が静かに立っている。
「あれは……。あの全裸の男は、ヒッチハイカーなのか……?」
やがて吹き荒れる猛吹雪が黒煙を押し流し、男の姿が少しずつ鮮明になっていく。
身長は一九〇センチほどだろうか。
伸田の車に乗り込んで来た時よりも一回り小柄になった感がある。
ただ、その全身に無駄な贅肉は一切なく、鍛え抜かれた筋骨隆々の肉体。
広い肩幅、厚い胸板、長い脚――まるでギリシャ彫刻に刻まれた神々を思わせる、非の打ちどころのない均整の取れた肉体だった。
しかし、その美しさ以上に伸田を驚かせたのは、男の全身が淡い紫色に輝いていたことだった。
ノビタを包む青白い光が見る者の心を穏やかにし、温もりを与える柔らかな輝きであるのに対し、その男の光はまるで正反対だった。
決して眩しいわけではない。
それでも視線を向け続けることが苦痛になるほど不快で、不気味な紫の光が全身からぼうっと滲み出ているのだ。
その姿を見つめた瞬間、伸田は悟った。
もし、この男がヒッチハイカーなのだとすれば――。
以前の昆虫を思わせる醜悪な怪物の姿よりも、はるかに強大な存在へと変貌を遂げている。
理屈ではない。
言葉に表現できない。
ただ、ここまで生き延びてきた彼の本能が、圧倒的な危険を訴えていた。
「もし……ヤツがヒッチハイカーだったとしたら、姿は人間形態に戻ったっていうのに……今までのどの怪物の形態より、とてつもなくヤバい感じがする……」
伸田の全身が瘧にかかったように震え始める。
それは吹雪の寒さが原因ではなかった。
「その通りだ。今度のヤツはヤバいぜ……」
突然、すぐ近くから低く響く声がした。
驚いて伸田が振り向く。
いつの間に現れたのか。
彼のすぐ左隣に、四肢を大地につけて静かに立つ白虎の姿があった。
白虎が静かに語る。
「俺の白虎としての五感に誓う。あれは間違いなくヒッチハイカーの再生した姿だ。
どうやら野郎は、真の魔族として覚醒しやがったらしい。
つまり今のヤツは、完全な魔界の存在そのものになっちまったってことだ。見た目は人間に見えるが、人間なんかじゃねぇ。
もう、お前さん一人で相手にできる相手じゃない。
……まあ、俺としちゃ不本意なんだがな。
手を貸してやるぜ、相棒」
孤独な戦いの中での感動の再会――。
つい先ほどまで恐怖に震えていた伸田は、これ以上ない頼もしい助っ人の登場に胸が熱くなる。
絶望的な暗闇の中に差し込んだ、一条の光。
そんな言葉が、今の心境にはふさわしかった。
それほどまでに、クレーターから現れた男の存在は伸田へ底知れぬ恐怖を植え付けていたのだ。
百メートル近く離れているはずなのに、肌を刺すような威圧感が押し寄せてくる。
その圧力は、これまで戦ってきたヒッチハイカーのどの姿よりも遥かに強かった。
だが、神獣・白虎が傍らに立った、その瞬間――。
無意識のうちに震えていた身体が、すっと止まる。
伸田はようやく、人心地を取り戻せた気がした。
「白虎さん、ヒッチハイカーが覚醒したっていうのは……?」
「ああ。もう巨大化したり、コケ脅しみたいな怪物形態を取る必要がなくなったってことだ。
いろいろ姿を変えてきやがったが、あのシンプルな人間の姿こそが、ヤツの最終進化形なんだろう。
……今度のヤツは手ごわいぜ。間違いなく、これまでみたいにはいかねぇ」
その声には、今までになく張り詰めた緊張感があった。
伸田は思わず、自分の左側に立つ白虎へ視線を落とす。
巨大な神獣とはいえ、四足で立つ白虎より人間である伸田の方が目線は高い。
だが、伸田にとって白虎の存在は山のように大きく安心して頼れる存在だった
しかし、その百戦錬磨の神獣・白虎でさえも、新たなヒッチハイカーから放たれるただならぬ威圧感を警戒しているのだ。
その事実に、伸田は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
再び前方へ目を向ける。
ヒッチハイカーはすでに雷で穿たれたクレーターから地上へ上がり、ゆっくりとした足取りで、まっすぐこちらへ歩み寄りつつあった。
「僕は確かに見たんです。
あいつ……まるで怪物の身体から抜け出そうとするみたいに、自分の身体を山刀で滅多斬りにして、人間体の部分だけを切り離したんです。
それに左腕だって、僕の攻撃を受けたあと、自分で切り離して消滅を免れた。
なのに今のヤツには、どこにも欠損部分がない……。
完全な人間の姿に戻ってるなんて……そんなバカなことが!」
話すうちに感情が高ぶったのか、最後は叫ぶような声になっていた。
「ああ、俺も見ていた。
だが今のヤツは、幽霊でも幻でもねぇ。
信じたくなくても、現実から目を背けるな」
白虎は近づきつつあるヒッチハイカーから目を離さぬまま、静かに言った。
「もうひとつ 、俺が気になっているのは……ヤツが右手に握っている山刀だ。
あれほどの特大級の稲妻をまともに受けたってのに、溶けるどころか形さえ変わっていねぇ。
あれは、ただの金属じゃない。
信じ難い話だが……俺の知る限り、あれに該当する金属があるとすれば――」
そこで白虎は言葉を切った。
まるで、自分自身も口にすることをためらっているようだった。
「そ、その金属って……?」
伸田が息をのむ。
「伝説の超金属――『オリハルコン』だ。
別名『オレイカルコス』。
海に沈んだとされる伝説の大陸アトランティスに存在したと言われる、幻の金属だ」
「えっ……あの伝説の金属……オリハルコン……?」
その名くらいは、伸田も聞いたことがあった。
「ああ。
日本古来の超金属『ヒヒイロカネ』に比肩し得る存在があるとすれば、この世にはオリハルコンしかねぇ。
だが、オリハルコンは伝説なんかじゃない。
『ヒヒイロカネ』同様、実在した金属だ。
お前さんは知らねぇだろうが、ついさっき俺は、オリハルコン製の武器を使う、とんでもねぇ殺し屋二人組と戦ってきたばかりだからな。
……もっとも、ヒッチハイカーがそんな伝説級の金属でできた刃物を持っていた理由までは、俺にもわからねぇが」
伸田は言葉を失った。
白虎でさえ理解できない話を、自分にわかるはずもない。
伝説の金属まで現れたことで、ヒッチハイカーという存在はますます謎を深めていく。
その張本人が、稲妻の直撃による大爆発をものともせず、再生した五体満足の姿で着実にこちらへ歩み寄ってくる。
ほんの少し前まで、青白く輝く光の玉となってヒッチハイカーを圧倒していた伸田だった。
しかし今、その心に精神的な余裕は微塵も残されていなかった。
「あんなヤツに……この僕が勝てるのか?
こっちの『ヒヒイロカネの剣』に匹敵する『オリハルコン』製の山刀。
しかも、ベレッタに残っている必殺の『式神弾』は、あと一発だけ。
僕がヤツより有利なのは……空を飛べることくらい、か……」
白虎の話を聞くほどに、伸田の胸を満たしていた自信は急速にしぼんでいった。
いや――しぼむどころか、完全に消え失せてしまったと言うべきだった。
「いや、残念だが……それも、もう有利とは言えねぇみたいだぜ。
……あれを見ろ」
前脚で指し示すことはできない白虎は、鼻先をヒッチハイカーへ向けて軽くしゃくった。
促されるまま、伸田は目を凝らす。
「何だ、あれ……?
ヒッチハイカーの身体から……紫色の煙が……?」
確かに、ヒッチハイカーの全身は淡い紫色の光を放っていた。
だが今度は、その身体から濃い紫色の煙――いや、霧のようなものが立ち上り始めていた。
普通の煙なら、この猛吹雪の中では一瞬で吹き飛ばされるはずだ。
しかし、その紫色の煙は違った。
風に流されることなく、まるで意志を持つかのようにヒッチハイカーの身体を包み込み、その周囲を離れようとしない。
明らかに物理法則を無視した異様な光景だった。
「あれは……ハエだ」
「え? ハエ……?」
白虎の言葉に、伸田は思わず聞き返した。
神獣である白虎の鋭敏な五感には、数十メートル先の光景まではっきり見えているのだろう。
だが、ウインドライダーシステムのゴーグル越しに見ても、伸田には紫色の煙が渦巻いているようにしか見えなかった。
それでも、その煙が吹雪に一切乱されないという事実だけで、十分に異常だった。
ヒッチハイカーは歩みを止めない。
ゆっくりと、しかし確実に二人との距離を詰めてくる。
やがて――。
吹き荒れる風の音に混じって、
ブゥゥゥゥン……。
虫の羽音が、伸田の耳にも届き始めた。
「まさか……!」
距離が縮まるにつれ、紫色の煙の正体がはっきりしてくる。
それは煙などではなかった。
無数の紫色をしたハエ。
耳障りな羽音を響かせながら飛び回る、おびただしい数のハエの大群だった。
数十万匹――。
いや、それ以上かもしれない。
多すぎて、想像もつかない。
その大群はヒッチハイカーを守護するかのように全身を包み込み、渦を巻きながら飛び続けていた。
その光景を目にした瞬間、伸田の胃がむかついた。
生理的嫌悪感が全身を駆け巡る。
「うっ……!
あの紫色の煙みたいに見えたのが……全部ハエなのか!?
あいつらはヒッチハイカーにたかってるんですか!?
それとも……ヤツが生み出しているんでしょうか!?」
思わず身をかがめるようにして問いかける。
「もちろん後者だろう。
あれも、雷によって復活した新生ヒッチハイカーの能力の一つなんじゃねぇか」
白虎は低くつぶやいた。
「いくら一匹一匹は小さなハエでも……。
あれだけの数に一斉に襲われたら……」
想像しただけで背筋が凍る。
伸田は鳥肌が全身へ広がっていくのを感じた。
「ああ。
たとえお前さんが空を飛んで攻撃を仕掛けても、あのハエどもが命懸けで阻止しようとするだろうな。
ヒッチハイカーの野郎……
まさに――『蠅の王』ってところだ」
その言葉を聞いた瞬間、伸田の全身に戦慄が走った。
「『蠅の王』……?
ベルゼブブ……まさか、ヤツが……?」
「何だ、そのベルゼブ……何とかってのは?」
珍しく白虎が伸田を見上げ、不思議そうに問い返した。
「『ベルゼブブ』です。
『蠅の王』と呼ばれる悪魔で……たしかキリスト教に伝わる存在だったと思います。
僕も詳しくは知りませんけど、旧約聖書に登場したはずです」
尊敬する白虎から真剣な表情で尋ねられ、伸田は記憶をたどりながら、おぼろげな知識を口にした。
「ヒッチハイカーが悪魔……。
蠅の王、ベルゼブブか……」
白虎は低く鼻を鳴らした。
「……ふっ、まさかな。
確かにヤツはこれまで、蜘蛛やトンボ、サソリみてぇな昆虫型へ姿を変えてきた。
だから今度はハエを操る能力を手に入れただけ……そう思いてぇ。
だが――」
白虎は一瞬だけ言葉を切る。
「……なんだか、この俺まで逃げ出したくなってきやがったぜ」
その声には、ごくわずかではあるが怯えにも似た響きが混じっていた。
伸田は息をのむ。
風俗探偵・千寿 理が変身した神獣・白虎。
その無敵とも思える存在が恐怖を口にするなど、考えたこともなかった。
ブウウウウウウウゥゥゥン――!
猛吹雪の唸りすらかき消すほどの羽音が、一段と大きくなる。
淡い紫色の光をまとった全裸のヒッチハイカーは、いつの間にか三十メートルほど先まで迫っていた。
「クソッ!
もう、どうにでもなれだ!
ノビタ、覚悟を決めろ!
まずは様子見だ。俺が突っ込む!
お前は油断せず、そこで見てろ!」
言い終えるより早く、白虎は雪原を蹴った。
「グワオオオオオオオッ!!」
大地を震わせる雄叫びとともに一直線に駆ける。
だが、その瞬間だった。
ブワアアアアアアアッ!!
轟く羽音。
紫色のハエの大群が、一斉に白虎へ襲いかかった。
無数のハエが白い毛並みに群がり、瞬く間に全身を覆い尽くしていく。
それはまるで、生きた紫色の竜巻だった。
「ぐっ……!!
ノビタァッ!!
気を付けろ!
このハエどもは肉食だ!!
貪り食われるぞ!!
ぐわあああああっ!!」
白虎はジグザグに駆け回り、必死に振り払おうとする。
しかし、その叫びを最後に姿は完全に見えなくなった。
紫色の大群が、神獣の身体を丸ごと飲み込んでしまったのだ。
それでも塊は激しくうごめいていた。
白虎はなお抵抗を続けている。
だが、その動きも次第に鈍くなり――。
「白虎さん!!」
ほんの数秒。
それだけの出来事だった。
伸田は目の前で起きた惨劇を前に、立ち尽くすことしかできない。
やがて紫色の塊は雪原の上でざわざわと蠢く小山へと姿を変え、そこからはもう白虎の姿はどこにも見えなかった。
「なっ……!
びゃ……白虎さんが……
ハエの群れに飲み込まれた……!」
顔面蒼白で叫ぶ。
その時だ――。
「ノビタ……」
突然の声に、伸田はハッと顔を上げた。
だが、声の主は白虎ではない。
いつの間にか十数メートル先まで歩み寄っていたヒッチハイカーが、静かにこちらを見つめていた。
「ノビタ……。
シズちゃんはオレがもらう。
お前は邪魔だ……死ね」
その声を聞いて、伸田は初めて異変に気づいた。
さっきまで全裸だったはずのヒッチハイカーの下半身が、紫色の煙に包まれていたのだ。
まるでズボンを穿いているかのように、腰から下だけが紫色の体毛に覆われているように見える。
もしこれが本人の意思によるものなら、ヒッチハイカーには今なお、人間だった頃の羞恥心がわずかに残っているということなのだろうか。
だが、そんなことはすぐに頭から消え去った。
伸田の視線は、別の異変に釘付けになっていた。
「……背中?」
ヒッチハイカーの背中へ紫色の煙が集まり始める。
それは左右の肩甲骨のあたりで凝縮し、見る間に二枚の巨大な翼を形作っていく。
もはや煙ではない。
完全な翼だった。
紫色に染まった猛禽類の翼が、ゆっくりと、しかし力強く羽ばたく。
バサッ――。
バサッ――。
その羽ばたきで、ヒッチハイカーの身体がふわりと宙へ浮いた。
以前の怪物形態で生やしていた、トンボのような四枚の昆虫の翅とはまったく違う。
それは鷲を思わせる巨大な翼だった。
「翼……。
鳥のような巨大な紫色の翼……。
『蠅の王』といっても、蠅の翅を持つわけじゃないのか……」
信じられない思いで見上げる。
ヒッチハイカーは猛吹雪など存在しないかのように高度を上げ、三十メートルほど上空で静止した。
そして、地上の伸田を見下ろす。
狙いを定めるように。
次の瞬間――。
一気に急降下してきた。
「来る!」
伸田は即座に脳波でウインドライダーシステムへ指令を送る。
身体は右後方へ十数メートル、一瞬で飛び退いた。
巨大な鳥の翼なら、小回りは利かない。
そう判断したからだ。
だが――。
「なっ!?」
予想は完全に外れた。
ヒッチハイカーは急降下の勢いを保ったまま、信じられない軌道で空中を切り返す。
横へ飛んだ伸田へ、寸分違わず張り付くように追従してきた。
あり得ない。
あれほど巨大な翼が、この猛吹雪の中で風の影響を受けないはずがない。
本物の鳥ですら飛行を避けるような嵐だ。
それなのにヒッチハイカーは、自然界の法則そのものを嘲笑うかのように飛んでいる。
そして次の瞬間。
端正な顔立ちの蠅の王が、すぐ目の前でニヤリと笑った。
「ふふふ……」
「う、うわあああっ!」
伸田は悲鳴を上げ、今度は右方向へ飛ぶ。
しかし――。
「ひいっ!! うわあああっ!!」
また、そこにいた。
まるで先回りしていたかのように。
いや――。
実際に先回りしていた。
蠅の王は追いかけているのではない。
伸田の動きを完全に読んでいるかのように。
「そ……そんな馬鹿な……。
僕の動きを予知しているっていうのか……?
しかも、一瞬で……?」
悪寒が全身を駆け巡る。
猛吹雪の寒さとは別の、底知れない恐怖だった。
「……こんなヤツ相手に……
勝てっこない……」
伸田は飛ぶことをやめた。
ウインドライダーシステムの六基のローターが静かに停止する。
逃げても無駄だ。
先回りされるだけなら、飛び続けるほどバッテリーを浪費するだけだった。
十メートルほど先。
蠅の王は悠然と空中に浮かんでいる。
逞しい両腕を胸の前で組み、紫色の翼をたたみながら、口元には嘲るような笑みを浮かべていた。
もう追い詰める必要すらない。
そう言わんばかりの余裕だった。
伸田の絶望を見抜いたのか。
あるいは、その心までも読み取っているのか。
雷によって生まれ変わった蠅の王は、すでに人知を超えた絶対的存在となってしまったのだろうか。
少なくとも蠅の王にとって、伸田など、いつでも殺せる獲物でしかない。
――果たして、もう伸田には打つ手は残されていないのだろうか。
********
「あれを見なよ、バリー。
ノビタとか呼ばれてたガキが、紫色の翼を生やした魔界の化け物に追い詰められて、一方的に嬲られてる。
なかなか面白い見世物じゃないか」
伸田と蠅の王が対峙する場所から数十メートル。
雪深い針葉樹林の奥で、一本の巨木の陰に身を潜めていたのはライラとバリーだった。
二人は白虎や鳳成治たちと別れたあと、伸田の行方を追跡していた。
そして雷がヒッチハイカーへ落ちる以前から、一部始終を見届けていたのである。
もちろん、白虎が現れた場面も見ていた。
永遠の宿敵とも言える神獣・白虎が、復活したヒッチハイカーから湧き出した紫色のハエの大群に飲み込まれていく様子も、すべて。
「あのノビタって小僧も惜しかったんだけどねぇ。
あと一歩でヒッチハイカーに止めを刺せそうだったのに、無粋な雷様のおかげで全部ひっくり返っちまった。
まったく、気の毒な話だよ」
言葉とは裏腹にライラは楽しそうに笑う。
「それにしても、復活したヒッチハイカーの姿と能力……。
あれは間違いなく『蠅の王』だ。
とんでもない化け物に化けやがったね。
魔界でも、あれだけの存在は上位に入るよ」
もしライラの言葉が事実なら――。
もとは人間だったヒッチハイカーは、薬剤の力によって魔界でも上位に位置する魔族へ変貌したことになる。
そんなことが、本当に可能だというのか。
「チャーリーから受けた今回の任務は、暗号名『ヒッチハイカー』の身柄確保。
生死は問わず――だったよね。
最初は退屈な任務だと思ってたけど、実際は大違いだった。
特務零課課長の鳳が出張ってたうえに、白虎まで現れやがった。
そのうえ標的の正体が『蠅の王』だなんてね」
ライラの口元が妖しくつり上がる。
「バリー。
アタシたち、ツイてるみたいだよ。
こうなったら、あのベルゼブブは何としてでもアタシたちのものにする」
「ブモウ!」
妹であり相棒でもあるライラの話を、バリーは黙って聞いていた。
難しいことは彼には理解できない。
だが、一つだけは分かっている。
ライラの言う通りにしていれば、自分は間違えない。
考えるのはライラ。
自分は実行するだけ。
そして長兄・チャーリーの命令を、二人で果たす。
それこそが、自分たち兄妹の役目だった。
――あのお方のために。
「とにかく、もう少しベルゼブブとノビタの戦いを見物しようじゃないか。
あれはあれで、なかなか面白いショーだからね」
男なら誰もが魅了される妖艶な美貌に、残忍で禍々しい笑みが浮かぶ。
その横顔を見つめたバリーは、満足そうに低く唸った。
「ブモー」
********
「ここまでか……。
もしヒッチハイカーが本当に『蠅の王・ベルゼブブ』になったのだとしたら……。
ただの人間である僕なんかが、万に一つでも勝てるはずがない……。
最後にもう一度だけ、シズちゃんに会いたかった……。
そして、お腹の中にいる、まだ見ぬ僕の子どもを一度でいいから抱いてみたかった。
……ごめんよ、二人とも」
蠅の王となったヒッチハイカーとの圧倒的な力の差を見せつけられ、伸田は絶望するしかなかった。
愛する皆元静香と、その胎内で育つ我が子。
二人の姿を思い浮かべた瞬間、悔しさが込み上げる。
頬を、一筋の涙が伝った。
その時だった。
『伸田君。諦めるのは、まだ早いわよ』
「!」
突然、聞きなれた女性の声が耳に響く。
声の主は、この場にはいない。
東京・新宿カブキ町にある『千寿探偵事務所』。
そこにいる風祭聖子が、ウインドライダーシステムの通信機を通じて語りかけてきたのだ。
「聖子さん……?」
そうだった。
ウインドライダーシステムのヘルメットには超小型のカメラとマイクが内蔵されている。
聖子は遠く離れた事務所から、伸田の見ている景色も、聞こえる音も、すべて共有していた。
『相手があんな化け物じゃ、絶望したくなる気持ちは分かるわ。
でも、あなたには愛する人がいる。
その人のお腹には、あなたの子どももいるんでしょう?
二人のためにも、絶対に諦めちゃ駄目。
生き残ることだけを考えなさい』
「僕だって生きたいんです……!
こんなところで死にたくなんてない!
でも相手は、あの白虎さんまで倒した怪物なんですよ!
あんなヤツに、人間の僕が勝てるわけ……」
恐怖で震える声。
だが返ってきたのは、慰めではなかった。
『泣き言なんて聞きたくないわね。
あなた、男でしょ?
股間に立派なものをぶら下げてるんじゃないの?
それに、うちの所長のことなら心配いらないわ。
満月の夜なら、あの人はフル装備の原子力空母と一人で戦ったって死にはしないんだから。
放っておけばいいの。
だから今は、あなたが一人で戦いなさい』
その言葉は厳しかった。
だが、不思議と心に火が灯る。
「でも……どうやって戦えばいいんですか……?」
泣き出しそうな声で伸田が問いかける
『ご覧の通り、ヒッチハイカーは完全に魔族になった。
だったら逆に、打つ手はあるわ。
あなたは今日ここまで、互角以上に戦ってきたじゃない。
この天才科学者・風祭聖子が開発したウインドライダーシステムでね』
一拍置いて、聖子は自信満々に言い放つ。
『忘れたの?
あなたはもう使ってるのよ。
――対魔族専用防御システムを』
「対魔族専用防御システム……?」
その言葉に、昨夜からの戦いが脳裏によみがえる。
「……そうか!
疑似結界シールドだ!」
『ビンゴよ!
それで身を守りながら戦いなさい。
私が陰陽術の結界まで研究して完成させた疑似結界シールドは、人外の存在を封じるための切り札よ。
ヒッチハイカーがどれほど上位の魔族になろうと、魔界の存在である以上、結界は必ず通用する。
実際、神獣となったうちの所長さえ封じ込められるんだから。
あとは――あなたの武器。
その意味は、もう分かってるわよね?』
その言葉を聞き、伸田の胸に、ほんのわずかな希望が灯る。
完全な絶望ではなくなった。
それだけでも十分だった。
彼は両手を見る。
右手には『ヒヒイロカネの剣』。
左手には、たった一発の『式神弾』が込められた自動拳銃のベレッタ。
「僕の武器は……
ヒヒイロカネの剣。
そして残り一発になった式神弾。
それに、疑似結界シールド……」
そこまで伸田がつぶやいた時だった
「もう、いいのか?」
低い男の声が割って入る。
顔を上げると、蠅の王が静かにこちらを見ていた。
「何かブツブツしゃべっていたようだが。
もう逃げ回るのはやめて、大人しく死ぬ覚悟でも決まったか?」
そこには嘲笑も侮蔑もない。
ただ淡々と告げるだけ。
だからこそ、不気味だった。
伸田は乾き切った喉で、生唾を飲み込む。
身体は寒さだけではない震えに支配されていた。
それでも――。
愛する人を、もう一度この腕で抱き締めるために。
彼は震える身体を押さえ込み、ゆっくりと構えを取る。
「ウインドライダーシステム、フル起動!」
キュイイイィィン――!
停止していた六基のローターが一斉に回転を始める。
ヴイィィーン!
轟音が吹雪を切り裂いた。
「行くぞ、ベルゼブブ!
この伸田伸也が、風に乗る者として――
いや、一人の人間として、お前に決戦を挑む!」
その宣言とともに、伸田の身体が雪原からゆっくりと浮かび上がる。
「来い、小僧」
蠅の王は、口元に笑みを浮かべて応えた。
吹雪が荒れ狂う雪山で――。
二人にしか聞こえない、最後の戦いのゴングが鳴り響いた。
【次回に続く……】




