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ヒッチハイカー  作者: 幻田恋人


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39/39

第39話(最終話・後編) 「どうしても南へ行きたいんだ…㊲『南へ行きたかった… そいつの夢の行方』 ― 夜明け ―」

「ノ、ノビタさん……伸也(のびや)さん……ううっ……」


 愛する男の亡骸(なきがら)を抱きしめ、静香(しずか)は嗚咽(おえつ)を漏らした。


 白く冷え切った伸田(のびた)伸也の頬へ、自分の涙で濡れた頬をそっと寄せる。


 そして、ただひたすらに泣き続けた――。


 それは、美しくも切ない、恋人同士の最後の抱擁だった。


 少し離れた場所では、負傷した長谷川警部を支える島警部補が、その悲しい光景を見つめていた。


 二人とも、あふれる涙を止めることができない。


 視線を落とし、凍てついた地面を見つめる。


 警察官でありながら、一人の民間人を守れなかった。


 その無力さが胸を締めつけ、自分たちの不甲斐なさが心を焼く。


 吹き荒れる吹雪の音も、静香の慟哭(どうこく)をかき消すことは無かった。


 彼女の悲痛な叫びは、二人の胸に深く突き刺さっていた。


 永遠に続くのではないか――。


 そう思えた、その時だった。


「ううっ……うっ……。……えっ?」


 突然、静香の嗚咽(おえつ)が止まる。


 島と長谷川は同時に顔を上げた。


「の、伸也さん! 伸也さん! ああ……神様!」


 静香はそれまでよりも強く、思いっきり伸田を抱きしめた。


 恋人の頬へ、自分の頬や額を何度も押し当てる。


 悲しみの慟哭は、いつしか歓喜のすすり泣きへと変わっていた。


「ど、どうしたんだ!? 静香さん!」


 島が思わず叫ぶ。


「ノビタさんの頬が……温かくなってきたんです! 体温が戻ってきて……!」


 振り返って叫ぶ静香の言葉を、島も長谷川も信じられなかった。


 二人は顔を見合わせる。


「彼女はショックで……」


「ああ……無理もない……」


 悲しげに首を横へ振る。


 その時だった。


「う、動きました! ノビタさんの指が! 手が! ああ……まぶたが開く……!」


 二人は慌てて静香の横へ駆け寄り、彼女に抱かれた伸田の顔をのぞき込む。


 そして――。


 奇跡は、確かに起きていた。


 何度かのまばたきの後、伸田の両目がゆっくりと開く。


 その瞳は徐々に焦点を結んでいき、涙に濡れた静香の顔を、まっすぐ見つめ返した。


「わあああっ! ノビタさん! ああ……神様っ……!」


 歓喜の叫びを上げた静香は、愛しい男を力いっぱい抱きしめた。


 涙でぐしゃぐしゃになった顔を、その頬へ何度も押し当てる。


「警部……これは、本当に現実なのでしょうか?」


「ああ……。奇跡が起こったんだ。


 伸田君は、生き返った」


 歓喜に震える静香を見つめながら、島と長谷川の胸もまた、深い感動で満たされていく。


「ああ……これは現実だよ。


 本当に奇跡が起こった。


 伸田君は、愛する人のもとへ帰って来たんだ」


 それまで黙って見守っていた鳳 成治(おおとり せいじ)が、二人の肩へ静かに手を置いた。


 三人は顔を見合わせ、小さくうなずき合う。


「ですが、鳳さん……。


 私はまだ信じられません。


 こんなことが、本当に……」


 島の問いかけに、鳳は穏やかな笑みを浮かべた。


 どこか悪戯(いたずら)っぽい眼差しで二人を見つめる。


「昨夜から今まで、自分たちが経験してきたことを、もう忘れたのかい?


 この世には、人間の知らない不思議が、まだまだ山ほどある。


 人の生命力も――愛の力も、君たちが思っている以上に強いんだよ。


 ははは。


 いいじゃないか。


 結果が良ければ、それで。


 これが、ハッピーエンドってやつさ」


 そう言うと鳳は、この男にはめずらしく楽しそうに笑った。


 島も長谷川も、つられるように笑い声を上げる。


 三人の目の前では――


 固く抱き合った二人の恋人たちが、熱い口づけを交わしていた。


     ********


『千寿(せんじゅ)、聞こえるか? 私だ、鳳だ』


 『黒鉄の天馬(アイアンペガサス)』と化したロシナンテ。


 その運転席で、ライラとバリーを追跡していた千寿の元へ、鳳からの通信が入る。


「どうした?


 俺はクソッたれ兄妹の追跡で忙しい。


 それに貴様も分かっているだろうが、今の俺は非常に機嫌が悪いんだ。


 くだらない話なら、次に会った時、貴様の首を引き千切ってやるぞ」


 言葉どおり、その表情は悲しみと怒りに燃えていた。


 毛皮のような全身の体毛は、怒りを表すかのように逆立っている。


『おいおい、物騒なことを言うな。


 悪い報告じゃない。


 さっき、伸田君が生き返ったよ』


「!……何!?


 本当か、それは?


 もし嘘なら、今すぐ引き返して貴様をブチ殺してやる!」


 荒々しい口調とは裏腹に、千寿の顔は驚きと歓喜に染まっていた。


 旧友である鳳は、こんな悪趣味な冗談を言う男ではない。


 誰よりも、それを知っている。


 だからこそ――その言葉には真実の重みがある。


「しかし……ノビタは間違いなく息絶えていた。


 ずっと抱いて歩いた、この俺自身が確認したんだからな……


 ……待てよ。


 そうか!


 ニケか!」


 すべての謎がつながった。


「ハハハハハハハ!!


 そういうことか!」


 千寿は豪快に笑い声を響かせる。


『ニケだと?


 お前には心当たりがあるんだな?』


 戸惑いながら鳳が尋ねる。


「ああ。


 貴様の姪(めい)っ子だよ。


 ハハハ!


 あのお嬢ちゃんがやらかしてくれたのさ!


 彼女曰(いわ)く――『女神の祝福』ってやつだ!」


『おい、それはどういう――』


「また、いつか説明してやる。


 もう切るぞ。


 クソッたれ兄妹のヘリを捕捉した。


 言っただろう。


 俺は忙しいんだ!」


 そう言い放つと、千寿は一方的に通信を切った。


「スペードエース。


 超電磁加速砲(レールガン)用意。


 目標は前方のヘリ。


 今回使用する弾丸は――」


 そこまで命じたところで、千寿はニヤリと口元を歪(ゆが)める。


 そして獲物を前にした獣のように、ゆっくり舌なめずりをした。


『マスター、使用する弾丸は?』


 AI『スペードエース』が問い返す。


「俺のツメだよ」

 

『了解(ラジャー)!』


 千寿が発した意味不明の命令に『スペードエース』が即答する。


「待ってろよ、ヒッチハイカー。


 伸田の代わりに――


 この俺が、てめえを地獄へ送ってやるぜ!」


 千寿が不敵な笑みを浮かべながら力強く宣言した。


     ********


ガガガガッ――。

ピーピーピーピーッ!


 ライラとバリーが乗る『UH-60 ブラックホーク』の通信機が、突然けたたましく鳴り響いた。


 それは一般回線ではない。


 特殊な暗号化通信を用いた、仲間同士だけが使用できる専用回線だ。


 本来、第三者が割り込めるはずなどなかった。


「ブモーッ!」


 操縦席のバリーが警戒するように叫ぶ。


「分かってるよ、バリー!


 正体不明の割り込み通信だって?


 いったい、どこの誰だい?」


 ヒッチハイカーの首を回収するという任務を成功させ、上機嫌だったライラが美しい眉をわずかにひそめる。


『おい! 聞こえてるか、バカ兄妹!


 俺だ。


 お前らが天敵と恐れる風俗探偵の千寿(せんじゅ)様だ!』


 その声を聞いた瞬間、ライラは目を大きく見開いた。


 間違いない――ヤツだ。


 神獣・白虎こと千寿 理(せんじゅ おさむ)本人だ。


 しかし、憎むべき相手の声を聞いたにしては、彼女の口元には楽しげな笑みが浮かんでいた。


「はっ!


 今さらアンタが何の用だい?


 アタシたちはアジトへ帰るだけさ。


 それとも何かい?


 アタシの美しい顔を、もう一度拝みたくなったってのかい?


 足でも舐めるってんなら、考えてやってもいいよ!


 アハハハハハ!」


 ライラは高らかに笑う。


 どうやら天敵とのやり取りすら、彼女にとっては楽しみの一つらしい。


『バカ言ってんじゃねぇ。


 よく聞け、ライラ。


 お前たちのヘリは、『黒鉄の天馬』の超電磁加速砲(レールガン)が、すでにロックオンしている。


 その気になれば、一発で撃ち落としてやるぜ』


 ライラの笑みが消えた。


 レールガンをまともに喰らえば、ブラックホークなど一撃で終わる。


 操縦席のバリーも息を呑み、隣の妹を見つめる。


「何言ってやがる!


 背後からレディーを狙うなんて卑怯(ひきょう)じゃないか!」


 ライラが唾を飛ばしながら吠える。


『へっ!


 誰がレディーだと?


 しかも”卑怯”なんて言葉が、お前の口から出るとはな。


 笑わせるぜ。


 いいか。


 命が惜しかったら、お前たちが回収したヒッチハイカーの首を、今すぐ機外へ放り投げろ』


「けっ!


 何のことだか分からないね!


 アンタたちの国じゃ、こう言うんだろ?


 "無い袖は振れない"ってね!」


 ――ビシィッ!!


 鋭い破裂音が響いた。


 ライラの横にある強化樹脂製の風防へ、大きな亀裂が走る。


 砕けた隙間から、猛烈な吹雪が機内へ吹き込んだ。


「クソッ! 何だ!?」


「ブモーッ!」


 二人が同時に叫ぶ。


『今のは、わざと外した。


 レールガンの弾丸が生んだ衝撃波だ。


 次はヘリのローター基部を撃ち抜く。


 この距離なら、吹雪の中でも絶対に外さないぜ。


 どうする、ライラ?


 俺の指示に従うか?』


「くっ……!


 畜生っ!」


「ブモー……」


 兄妹は悔しそうに顔を見合わせる。


 そして視線は、後部座席の床に転がったヒッチハイカーの首へ向いた。


「クソっ!


 仕方ない……。


 悔しいが、ヤツの言うとおりにするしかない。


 今回の任務は失敗だよ、バリー!」


 ライラは苛立ちをぶつけるように怒鳴ると、シートを蹴るように立ち上がる。


 後部乗員席へ踏み込み、切断面を床につけて立っていたヒッチハイカーの首を、髪の毛ごと乱暴につかみ上げた。


「けっ!


 どぐされ探偵野郎が、アンタをご所望だとさ!」


 吐き捨てるように言うと、左側のスライドドアを勢いよく開け放つ。


 凄まじい吹雪が一気に機内へ流れ込んだ。


 ライラは左手で手すりをつかみ、機外へ半身を乗り出す。


 右手にはヒッチハイカーの首。


 後方から迫る『黒鉄の天馬(アイアンペガサス)』へ向け、ローター音にも吹雪にも負けない大声で叫んだ。


「アンタが欲しいのは、これだろ!


 こんな物、くれてやるよ!


 受け取りな、クソッたれ!!」


 叫び終えるのと同時に――


 ライラはヒッチハイカーの首を、後方の吹雪の中へ放り投げた。


     ********


「よし、いい子だ。


 ライラの投げた首に照準(ロックオン)……


 あばよ、ヒッチハイカー!」


 放物線を描く首へ、自動追尾装置の照準がピタリと重なる。


 そして、その首が軌道の頂点へ達した瞬間――


 千寿は迷いなく攻撃レバーの引き金を引いた。


バシュッ!!


 空気を切り裂く鋭い発射音が響く。


 次の瞬間――レールガンから放たれた特殊弾が、一直線にヒッチハイカーの首へ突き進んだ。


     ********


 ライラによって空中へ放り投げられたヒッチハイカーの首は、吹雪の中をくるくると回転しながら飛んでいた。


 放物線の頂点へ達し、落下へ転じようとした、その瞬間――


 それまで閉じられていたヒッチハイカーの両目が、不気味に開いた。


「……ちゃんっ!」


 首が何かを叫んだ、その刹那(せつな)――


 レールガンから放たれた特殊弾が、ヒッチハイカーの眉間(みけん)を正確に撃ち抜いた。


――パーンッ!!


 鈍い破裂音とともに、頭部が炸裂(さくれつ)する。


 砕け散った肉片は一片たりとも残ることなく、青白い炎を噴き上げて燃え始めた。


 大きな破片は白煙を引きながら地上へ落下し、小さな破片は燃え尽きて白い灰となり、吹雪の中へ消えていく。


 レールガンの特殊弾には、神獣白虎(しんじゅうびゃっこ)の右前脚の爪(つめ)の欠片(かけら)が仕込まれていた。


 魔界の者は、その爪によって傷を負った瞬間から、消滅の運命を逃れることはできない。


     ********


「やったぜ、ノビタ。


 これで、多くの犠牲を出した『ヒッチハイカー事件』も終わりだ。


 お前があそこまでヤツを追い詰めたおかげさ。


 あのバカ兄妹さえ現れなけりゃ、相討ちになったとしても、お前が間違いなく仕留めてた。


 結果的にゃ、どっちも命拾いした訳だが……


 やっこさんの後始末は、この俺がきっちり済ませておいたぜ。


 お前さんは愛しいシズカちゃんのそばで、ゆっくり養生しな」


 千寿は満足そうにニヤリと笑う。


 自分の役目は終わった。


 そう言わんばかりに、『黒鉄の天馬(アイアンペガサス)』の進路を、自らの住処である新宿カブキ町へ向けた。


 どうやら、ライラとバリーを追うつもりはないらしい。


 自分の命令に従ったライラたちを今回だけは見逃すようだ。


 しばらくして、何かを思い出したように千寿は鳳へ衛星通信を入れた。


 通信がつながる。


 だが、彼が告げたのは、たった一言だけだった。


「ミッション・コンプリート!」


『そうか……ありがとう』


 鳳の返事を聞くと、すぐに通信を切る。


 今交わされた短いやり取りだけで、二人には十分だった。


 それ以上の言葉は必要なかった。


 彼から依頼された任務は、すべて完了したのだ。


 もっとも、千寿が鳳から託された本来の依頼は――


 生死は問わない。ただし、ヒッチハイカーの肉体は一部でも回収すること。


 という内容だった。


 だが――千寿には、そんな気は毛頭なかった。


 たとえ肉片一つであろうと、この世に残しておくつもりはなかったのだ。


 日本国政府が何を望もうと関係ない。


 彼は誰の命令にも従う男ではない。


 旧友である鳳の依頼が自分の目的と一致したから引き受けただけだ。


 千寿の目的とは、カブキ町に蔓延(はびこ)る、人間を魔族へと変える薬物の一掃――それだけだった。


 何しろ、この千寿という男 は、自分が探偵事務所を営む新宿カブキ町をこよなく愛する、ただのしがない『風俗探偵』なのだから。


 『黒鉄の天馬(アイアンペガサス)』を操縦しながら千寿は、ふと思い出したようにつぶやいた。


「それにしても……


 ヒッチハイカーの野郎、最後の最後に誰の名を叫びやがったんだ……?


 白虎の聴力を持つ俺にも、あの部分だけは聞き取れなかった……」


 気になっていたのは、頭部が炸裂する直前に発した、


『……ちゃんっ!』


 という最後の言葉。


 その『……』という部分だけが、どうしても聞き取れなかった。


 果たして、ヒッチハイカーが最期に叫んだのは――


 「じいちゃん!」だったのか。


 それとも、「母ちゃん!」だったのか。


 いや……


 ひょっとすると、「シズちゃん!」だったのかもしれない。


 その答えを知る者は、もう誰もいない。


 なにしろ、ヒッチハイカーは……


 この世界から完全に消滅したのだから――。


     ********


 千寿が新宿カブキ町へ向けて飛び立つ少し前――。


 奇跡的によみがえった伸田は、愛する婚約者・静香の膝を枕に、穏やかな寝息を立てていた。


 静香は、自分が包まっていた毛布をそっと彼へ掛ける。


 二人の傍らでは、鳳と島が起こした焚火が、静かに燃えていた。


 鳳と島、そして負傷した長谷川は、恋人たちへ気を遣ったのだろう。


 三人は焚火を挟んだ反対側で暖を取っていた。


 応急手当を受けた長谷川は、保温性の高い緊急用寝袋に身を包み、地面へ横たわっている。


 開口部から顔だけをのぞかせた彼は、まるで父親が子どもを見守るような優しい眼差しで、二人の若者たちを見つめていた。


 静香は、自分の膝を枕にして眠る伸田にそっと語りかける。


「本当に良かった……ノビタさん。


 あなたは間違いなく死んでいたのよ。


 それなのに、こうして私のところへ帰って来てくれた。


 理由なんて分からなくてもいい。


 今、あなたが生きていてくれる。


 それだけで私は十分だから……


 それに、あれほど酷(ひど)かった傷まで、もうほとんど塞がってしまった。


 本当に信じられないことばかりだけど……


 神様、ありがとうございます……」


 静香は、雲間から差し込む朝日へ向かって両手を合わせ、静かに祈りを捧げた。


「あら……?


 ノビタさん、眠りながら笑ってる。


 ふふっ……何か、いい夢でも見ているのかしら?」


 確かに、眠る伸田の口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。


 もちろん、この場にいる誰も知らない。


 同じ頃――


 遠く離れた空では、千寿の放った特殊弾がヒッチハイカーの眉間を撃ち抜いたのだ。


 その瞬間を、眠る伸田はどこかで感じ取ったのだろうか。


 やがて――


 ここ数日にわたる豪雪と、怪物と化したヒッチハイカーが引き起こした破壊によって国道を塞いでいた土砂や瓦礫は、重機によってすべて撤去されたとの報告が鳳の元へ届いた。


 救助隊も、まもなく到着するという。


 もう何も心配はいらなかった。


 静香は、優しく伸田の髪を撫でる。


 腹部を貫き、背中まで突き抜けた山刀(マチェーテ)の傷。


 命を奪うほど深かったその傷は、信じ難いことに表面がほぼ塞がり、出血も完全に止まっていた。


 出血多量で紫色と化していた伸田の顔面は、ほんのりと赤みがさしていた。


 あれほどの重傷が、わずか一時間足らずでここまで回復するなど、誰が信じられるだろうか。


 暖かな焚火のそば。


 愛する静香の膝枕で眠る伸田の口元に、再び穏やかな笑みが浮かぶ。


 それを見守る静香も、思わず微笑んだ。


 そして――


 しばらく眠っていた伸田が、ゆっくりと目を覚ました。


「目を覚ましたのね……ノビタさん!」


 歓喜の声を上げた静香の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。


 透明な雫は頬を伝い、目覚めたばかりの伸田の顔へ静かに降り注いだ。


「し、シズちゃん……?


 ぼ、僕は……生きてるのか?」


「うわあああっ! ノビタさん!」


 ゆっくりと身体を起こした伸田の首へ、静香は泣き叫びながらすがりついた。


 もう二度と触れることができないと思っていた愛する人の温(ぬく)もり。


 その存在を確かめるように、彼女は何度も彼の名を呼び続けた。


 その声を聞きつけ、鳳と島が駆け寄って来る。


「……奇跡だ」


 抱き合う恋人たちを見つめ、島は驚きの声を漏らした。


 そして隣に立つ鳳の顔を見る。


 鳳は伸田を見つめたまま、静かにうなずいた。


 自分のすぐそばに立つ島と鳳の姿に気付いた伸田。


 しかし、彼には何よりも先に確認したいことがあった。


 静香に強く抱きしめられたまま、目の前に立った鳳へ問いかける。


「鳳さん……。


 ヒッチハイカーは?」


 いつもの鳳とは違う。


 彼の顔には、穏やかで優しい表情が浮かんでいた。


「ああ……。


 ヒッチハイカーは、この世界から完全に消滅したよ。


 ヤツの最後を見届けた千寿から連絡があった。


 間違いない。


 もう安心していいんだ」


 その言葉を聞いた瞬間、伸田は大きく息を吐いた。


 張り詰めていた力が、一気に抜けていく。


 その身体は、喜びに泣きながら抱きつく静香によって、小刻みに揺れていた。


「そう……ですか……。


 あの怪物が、ようやく……。


 本当に……長い夜だった……」


 伸田は、まぶしい朝日に目を細めながらつぶやいた。


 長く暗かった夜が、ようやく終わったのだ。


「そうだよ、伸田君。


 すべて終わったんだ。


 それもこれも、君が最後まで戦い抜いたからだ」


 島が心から称えるように言う。


 その後ろでは、緊急用寝袋に包まれた長谷川が、開口部から顔だけを出していた。


 彼は満面の笑みを浮かべ、何度もうなずいている。


 その目には、涙が浮かんでいた。


「たくさんの人が……ヒッチハイカーの犠牲になりました」


 島の言葉を受けた伸田は、静かに視線を落とす。


「僕の大切な仲間達も……」


 そこで初めて、伸田の目から涙がこぼれた。


「信じられないかもしれません。


 でも……死んでいった人達が、僕に力を貸してくれたんです」


 その告白を聞いた鳳は、ゆっくりとうなずいた。


「信じるよ、伸田君。


 昨夜も私は君に言ったはずだ。


 この世には、人間の常識では計り知れない出来事が、まだまだ存在する」


 伸田は思い出す。


 確かに鳳は、同じ言葉を以前にも口にしていた。


 そして今なら分かる。


 ここにいる全員が、昨夜から数え切れないほどの不思議を目撃してきたのだ。


 何より――


 ヒッチハイカーによって致命傷を負い、一度は心肺停止に陥った自分。


 数十分もの間、確実に死んでいたはずの自分が、こうして再び生きている。


 さらに、命を奪うほどの重傷が、わずかな時間で回復している。


 それを『奇跡』という一言だけで片付けるには、あまりにも現実離れした出来事だった。


 医学でも、人間の常識でも説明できない。


 だが――


 確かに、自分はここに生きている。


 そして、悪夢のような夜は終わったのだ。


 ただし。


 多くの犠牲があったことを忘れることはできない。


 伸田の仲間達。


 そして、県警SITの精鋭たち。


 それまでにもヒッチハイカーの犠牲となった多くの人々。


 失われた命の重さを思えば、単純に喜ぶことなどできなかった。


 その場にいた五人の間に、静かな沈黙が流れる。


 その時だった。


プルルルル……


 突然、誰かの携帯電話が鳴り響いた。


 全員が驚いて顔を上げる。


 音の主は、どうやら鳳のスマートフォンだった。


 しばらく通話を続けた後――


 電話を切った鳳の顔には、明るい笑顔が浮かんでいた。


「朗報だ」


 四人の視線が集まる。


「今の電話は風祭聖子(かざまつり せいこ)さんからだった。


 瀕死(ひんし)の状態だった安田巡査が……一命を取り留めたそうだ。


 現在は搬送先の施設で処置を受けている」


「おお……」


 鳳の言葉を聞いた四人の表情が、一斉に明るくなる。


「安田さんが……助かったのね。


 本当に良かった……」


 静香は伸田を抱く腕に力を込めた。


 その顔には、安堵の涙と笑顔が浮かんでいる。


「ああ……やったね」


 伸田も、嬉しそうにうなずき返した。


「隊長!


 やっぱり、安田の野郎は不死身なんですよ!」


 島は、寝袋の中から顔だけを出している長谷川へ向かって叫ぶ。


 長谷川は、しわくちゃになるほど顔をほころばせ、涙を浮かべながら何度も頷いた。


「ああ……。


 ヤツはこれからの我々SITの希望だ」


 だが――


 喜びに包まれていた空気の中で、鳳が静かに口を開いた。


「一命は取り留めた。


 だが、安田巡査の状態は決して楽観できるものではない。


 重傷……いや、正確には予断を許さない重体と言った方がいい」


 その言葉に、全員の表情が変わる。


「残念だが……。


 彼が警察官として現場へ復帰することは、難しいだろう」


「そんな……」


「あんまりだ……」


 先ほどまで安堵していた四人の顔に、悲しみが広がる。


「だが」


 鳳は続けた。


「安田巡査が、今回の事件における功労者の一人であることに変わりはない。


 彼の今後については、国が責任を持って保証する。


 もちろん――


 今回の作戦で命を落とした者たち。


 そして、重傷を負ったすべての関係者についても同じだ」


 そこで鳳は言葉を止める。


「今の私から言えるのは、ここまでだ。


 だが……私を信じてくれ。


 頼む」


 そう言うと、鳳は深く頭を下げた。


 その姿を見て、誰もそれ以上、安田のことを口にしなかった。


 彼らが信頼しているのは、作戦総指揮官としての鳳ではない。


 共に命を懸けて戦った仲間の一人としての鳳だった。


 何より、彼の言葉には偽りのない誠意が込められていた。


「安田が生きていてくれた。


 それだけで十分だ」


 皆を代表するように、長谷川が静かに言った。


 全員がうなずく。


「そうですね。


 あいつなら……きっと立ち直りますよ」


 島はそう言った。


 その目には涙が浮かんでいた。


 静香と伸田も、心優しい巨漢の安田を思い、静かに涙を流す。


 誰の心にも浮かんでいた。


 いつも明るく、優しく、そして誰よりも力強かった安田の笑顔が。


 この戦いを通じて、生き残った者たちの間には、家族にも負けない強い絆が生まれていた。


 安田を思う気持ちは、全員同じだった。


 しばらくの間、誰も口を開かなかった。


 やがて――


 少しずつ明るさを増していく空の下。


 沈黙を破ったのは、焚火の爆(は)ぜる音だった。


 そして、その静寂の中で伸田が口を開く。


「それにしても……」


 全員が彼を見る。


「ヒッチハイカーは……


 誰かの車に乗せてもらったら、いったいどこへ行きたかったんでしょうか?」


 伸田は明るさの増した空を見上げた。


「僕の車に乗って来た時、ヤツは言っていました。


 南へ行きたい……って」


 その言葉に、静香もゆっくりと身体を起こす。


 そして、その場にいる全員が首を傾げながら、朝日の方角へ顔を向けた。


 そこに答えがあるかのように。


 冷え切った身体を温めるほど強い日差しではない。


 それでも――


 その柔らかな光は、不思議と心を温めてくれるようだった。


「さあな……」


 皆を代表するように、鳳が静かに答える。


「今となっては、確かめる術(すべ)はない。


 誰にも分からないことだ」


 少し間を置いて、続ける。


「だが……。


 理由はどうあれ、ヤツはヤツなりに、命を懸けてでも南へ行きたかったんだろう。


 それだけは、ヤツにとって本当のことだったのだと思う」


 その時だった。


 数日間、この地を覆い続けていた灰色の雲が、昇り始めた朝日に押し流されるように、ゆっくりと動き始めた。


 厚く閉ざされていた空に、少しずつ青空が広がっていく。


 まるで長く続いた悪夢の終わりを告げるように――。


 その明るくなり始めた空の下。


 森を隔てて約1キロ離れた地点から、突然、銀色に輝く物体が地上から飛び立った。


 朝日を反射して眩しく輝くその姿は、流星にも匹敵する速度で上空へ駆け上がっていく。


 そして――


 まだ空の大半を覆っていた灰色の雲を一瞬で突き抜けると、東の空へ向かって飛び去っていった。


「な、何だ……あれは?」


 突然現れ、瞬く間に消えていった銀色の物体を目撃した島たちが驚きの声を上げる。


 しかし、ただ一人。


 鳳だけは、静かに空を見上げていた。


 そして、満足そうな微笑を浮かべる。


「ありがとう……ニケ」


 その小さなつぶやきは、冷たい朝の空気の中へ消えていった。


 風はまだ吹いていた。


 だが、雪はもう降っていない。


 長く吹き荒れた吹雪は、ようやく終わりを迎えていた。


 伸田は隣に立つ静香の肩に左腕を回す。


 静香は伸田の左肩に頭を預けた。


 静香の腹にそっと右手を当てて伸田が言った。


「……ここに、僕たちの子がいるんだね」


 静香は、その手に自分の手を重ね、優しく微笑む。


「そうよ。あなたが命を懸けて護ってくれた、私たち二人の大切な命よ」


 伸田の目に、温かい涙があふれた。


「……良かった。


 君も、この子も護ることができて、本当に良かった……」


 朝日の柔らかい光が二人の顔を優しく照らす。


「あの朝日が、僕たち三人の未来を照らしてくれているみたいだ」


 静香は空を見上げ、小さく微笑んだ。


「ええ……。


 本当に素敵な夜明け……」


 その時――


 凍てついた雪の上を、こちらへ近づいて来る音が響いた。


 救助隊のトラックが放つ力強いエンジン音だった。


「これで……帰れるのね、私たち」


 嬉しそうにつぶやく静香。


 その身体を優しく、そして力強く抱きしめながら、伸田は答えた。


「ああ。


 帰ろう、僕たちの街へ。


 そして、三人の未来へ……」


 伸田は静香を抱きしめる。


 もう二度と離さないと言うように力強く。


 二人は互いの存在を確かめるように、長く熱い口づけを交わした。


 こうして。


 生き残った者たちの胸に、それぞれの想いを残しながら――


 本来ならば、聖なる夜であるはずだった12月24日のクリスマスイブ。


 その夜に始まった恐怖の一夜は、ようやく終わりを告げた。


 雪に覆われた夕霧谷(ゆうぎりだに)に、数日ぶりに太陽の光が降り注ぐ。


 それは、絶望の夜を越えた者たちへ新しい未来の始まりを告げる――


 聖なる夜明けだった。




【完】

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