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21.深き淵に臨みて

 確信はあった。だが、実現されない確信は夢想に等しく、なんらの価値を有するものではない。だから、これは気のせいなのだと胸の奥に押し込んだ不安を呼び覚ましたのは、幾重にも木霊する呼び子の音だった。

 方位は耳のいいカシェットとフェリンが割り出した。

 体力のないセドリックとロッテ、それに重装備のヨシュアをあとに残して、ジークはフィリン、カシェットに先導されて走った。他の四人は当てにならない。先入観ではなく、呼び子の音に四人組が肝を潰すのがはっきりと分かった。あれでは戦うことなどできはしない。

「臭気が、強く……」

 カシェットが大きく顔をしかめた。耐えがたいほどの臭いを、その鼻に感じているのだろう。それを知覚できないジークとフィリンは、おそらく同じものを肌で感じていた。

 救援に近付くほどに、空気の粘性が上がるかのようだった。それはかつて経験した、どんな感覚とも異なる。粘りつく空気に呼吸が乱れ、ゆるゆると首を締め付けられるような恐怖がある。

 間違いない。この先には『悪魔』とも『死神』とも言われた存在がいる。それは強力な魔物の群れなどではない。瘴気とも言うべきものは、ほんの少しの乱れもなく、ただ一点から吹きつけてくる。

「冗談……」

 冷たい汗に総身を濡らして、フィリンは強張った口で呟いた。こんなものがただの生物であるはずがない。間近にいるだけで生物を死に至らしめるような禍々しさに、フィリンは聞き知った「魔王」という言葉を思い出さずにいられなかった。

 通路の向こうから断末魔の叫びが轟いた。恐怖に満ちた甲高い声は、半狂乱の絶叫に変わり、潰れたような声とともに途切れる。

 ゾッとする。何をどうすれば、そんな声が出るのか、想像すらできない。

 気を呑まれたフィリンを見てか、カシェットが鋭く声を発した。

「接敵する。ぬかるな」

 通路の向こうに灯りが漏れている。そこに別の班がいて、『悪魔』に襲われているはずだ。ジークは足を速めるととともに剣を抜き放ち、広間に飛び込んだ。

「え……?」

 地面に置かれていたカンテラの灯りが照らしているのは、真っ赤に染まった広間だった。赤い塗料をぶちまけたように、天井から壁、地面に至るまで、まだら模様の深紅に染め上げられている。交戦しているはずの班員の姿はなかった。遺体すら見当たらない。

 その中に背を向けて立つ、ひとつの生物の姿があった。――いや、一人だけ、まだ生きている探索者風の男の姿もあった。

 がしゃりと金属のぶつかり合う音とともに、それは振り返った。右手には漆黒の剣を持ち、左手には弱々しく抵抗する探索者を掲げ、銀色の全身甲冑に身を包んだ騎士は、面頬の覗き穴からジークを見たようだった。

「人、なのか?」

 感覚した悪寒は、この銀の騎士から打ち寄せている。だから、間違いはないはずだ。

 想像した異形の怪物はそこにはいない。銀の甲冑に黒いマントを羽織った騎士がいるだけだ。だが、その何と恐ろしいことか。気配は闇よりなお暗く、巨大なうねりとなって総身に打ちつけてくる。

 感じたのは圧倒的な暴力の波動だった。原始的な力そのものを肌で感じられるというのは、それだけでも異常なことだった。確信する。これは人ではない。

「その男を放せ!」

 呼びかけとともに踏み込んだ。本能的な判断だった。一刻も早く、こいつを排除するべきだと、本能が急きたてる。でなければ――恐怖に呑まれる。

 狙うは甲冑の隙間、胴鎧の終わる腰か、あるいは脇を刺し貫く。

 銀の騎士が左手を軽く動かし、ジークの前へ突き出した。探索者を盾にするつもりか。だが、それは同時に銀の騎士の視界も奪う。踏み込みのステップを切り替え、構えを中段から下段へと移す。

 盾にされた探索者を回り込み、一気に懐に飛び込めばいい。相手の獲物は大剣に分類されるような長尺だ。潜り込めば自由に振るうこともできない。

 人間の盾にぶつかる直前、今――ジークが軸足を蹴って移動方向をずらそうとした瞬間だった。

 ばちり、と何かが弾ける音がやけに鮮明に聞こえた。

「あ……」

 弱々しくもがいていた男の、それが最後の声だった。ジークの眼前で男が弾けた。鎧も筋肉も関係なく、内側から衝撃によってめくれ上がるような、異様な光景だった。

 赤い驟雨。飛び散った鎧の破片や骨の欠片が、剥き出しだったジークの四肢に突き刺さり、切り裂く。その向こう――紫電をまとう黒い剣が落ちかかる様を見た。

 ガオン!

 受けた白い刃との間で、凄まじい紫電が飛び散り、異様な音が響いた。

「ぐううっ!」

 頭上から押し込まれる凄まじい圧力に、ジークは渾身の力で抵抗した。両腕の関節が軋みを上げ、踏ん張る両足の筋肉が悲鳴を上げた。白鋼製でなければ、受けた瞬間に刀身が砕かれていただろう。

「ぐ、ぎっ、ぎぎ!!」

 歯を食いしばって全身の軋みに耐え、刀身を斜めに起こして圧力を受け流す。が、力学的に完璧な角度とタイミングを得ていたにも関わらず、受け流しざまに受けた余剰分の圧力によって、ジークの身体は後方に跳ね飛ばされていた。

 返り血と出血で血塗れになったジークの姿に、フィリンが悲鳴を上げた。

「ジーク!」

「撤退だ!」

 ジークは鋭く斬り返した。

「どうこう出来る相手じゃない! おまえたちはヨシュアに撤退しろと伝えろ! 早く! このままじゃ残る九十人、ことごとく死ぬぞ!」

「ジークは!?」

「俺は出来る限り足止めする。行け!」

 鋭い声に突き飛ばされるようにして、フィリンは元来た道を走り出した。その後ろをカシェットが追随する。

 これまで恐怖というものを知っているつもりでいた。心の揺らぎと知性がもたらす、副産物に過ぎないと古老は言っていた。だが、そんなものではない。それは本物ではない。本物は、

「真黒だ」

 すべてを黒く塗りつぶす恐怖は、心と知性の存在すら許さない。気が狂いそうだった。ジークを援護するタイミングは幾らでもあった。それだけの技量が自分にあることも知っていた。

 ダメだった。指一本を動かすのも、いや呼吸すらままならず、フィリンは立ち尽くしていただけだった。だからジークの言葉に従って、一目散に逃げるしかなかった。

 涙があふれた。これほど惨めだったことはない。

「あたし、ダメだ……何の役にも立たない」

「まだだ」カシェットが鋭く気を吐いた。何もできなかったのは彼女も同じだった。「後続と合流して立て直す。ジークリートを救出して、撤退する」

 フィリンはうなずいた。今はカシェットの言葉に希望を繋ぐしかなかった。



 行ってくれたか。フィリンとカシェットの離脱を見届けて、ジークは少しだけ気が楽になった。地面に剣を突き立てて、それを支えに起き上がる。

「こっちが立つまで待ってるとは、ずいぶんと余裕だな」

 立ち上がったジークは再び剣を構え、左足に走った激痛に顔をしかめた。吹き飛ばされた際に足首を痛めたらしい。だが、その痛みが驚異的な速度で引いている。四肢に負った傷もすでに血が止まり、皮膚の再生さえ始まっていた。

 こっちもこっちで化物だな。自身の肉体に、ジークはそう思った。ならば化物の相手は俺がするべきだろう。常人よりは多少なりと時間が稼げるはずだ。

 ヨシュアなら、判断を誤らない。呼び子で他班に撤退の合図を送るだろう。それまでジークはここで銀の騎士を足止めできればいい。

 その時、不意に地の底から這い上がるような、不気味な声が響いた。

『我が剛剣、受けた者は何人目か、何年振りか』

 どこからともなく発し、空間全体に響き渡る声をどうやって発しているのかは分からない。だが、その声を発した意思の所在だけははっきりと分かる。

 先ほどまでとは異なり、銀の騎士が大剣を肩に担ぐようにして構えを取っていた。

『久しく忘れていた。これが喜び。これが死合い』

「くそったれ……これからが本気ってわけか、この剣術バカめ」

『クッ、クフッ、ケヒッ……力の限りを尽くし、我が剛剣を凌ぐがいい。そしてなお及ばぬ力に歯噛みし、断末魔を響かせよ。その執着こそが、我が甘露なれば』

「馬鹿じゃなく変態か」

 銀の騎士が跳躍した。上ではなく、前方。そこに武術などという概念はない。獲物にとびかかる肉食獣と同じだ。重い甲冑など歯牙にもかけず、銀色の弾丸と化してジークに襲いかかる。跳躍の加速に、肩口から振り抜く遠心力を乗せて、漆黒の大剣が襲いかかる。

 再び広間に音響が炸裂し、小柄なジークの身体が吹き飛ばされた。

 壁面に背中を打ちつけられた衝撃が胸部にまで突き抜け、反動で反り返った後頭部が岩盤に打ちつけられる。脊椎と一部の臓器を損傷、頭蓋骨の陥没骨折。なかんずく剣戟の衝撃をまともに受けた右腕は膨大な圧力に耐え切れず、筋肉と腱が破断され、関節の外れた骨が肘から飛び出している。

「ぐううっ、あああっ!!」

 ずたずたになった右腕を引っ張り、骨を定位置に無理やり戻す。

 あらゆる損傷の回復プロセスが早送りで始まる。

 足首は完治した。脊椎と臓器もあと数秒で元通りになる。頭蓋骨は元より戦闘に支障ないらしい。右腕はしばらく使用不能。

 再び銀の騎士が襲いかかる。左手だけでは防御は無理だ。軌道を読み、ジークはサイドステップで回避――振り抜かれた剣風がジークに絡む。いや、違う。剣風ではない。剣圧でもない。絡んだのは迸った紫電。

「魔術……!?」

 直感が叫んだ瞬間、頭頂から爪先までを凄まじい衝撃が貫いた。一瞬で表皮が炭化し、血管が沸騰、内臓が煮えたぎる。

 倒れたジークは、それでも立ち上がった。ぼろぼろと炭化した皮膚がこぼれ落ち、その下には真新しい皮膚が再生されている。過剰な再生力の影響か、頭皮とともに剥がれ落ちた髪も再生し、長く伸びていた。

 凄まじい頭痛、まともに立っていられないほどの目眩、身体も異常なほど重い。

 あの大剣、元より普通の刀剣ではないとは思っていたが、いわゆる魔剣の類か。それもそれでデタラメな話だが、何の予備動作もなく魔術を使えると考えるよりはマシだ。いや、使えるのか?

 どちらにせよ、初動を捉えられなかった今の攻撃こそ、掴み上げていた探索者を内側から炸裂させた「手品」と同質のものだろう。

「ごふっ! がっ、げふっ!」

 咳き込むと大量の血が口から溢れた。電撃で肝臓は真っ先に焼きつくされたはずだ。他の臓器も似たような物か。心臓の機能は残っているが、電撃の影響で不整脈を引き起こしている。右目は濁ってよく見えず、左目はまったく見えない。潰れたか。

「……死なないってのも大変だ」

 がさがさにしゃがれた声で、ジークは呟いた。苦痛は際限がなかった。

 常人ならば、限度を超えた痛みは遮断されると言う。痛みは身の安全を守るための警鐘であるのだから、そのサインが重篤な負傷には適用されないのはむしろ当然だろう。だが、ジークは違う。即死するような致命傷も「限度を超えない」。

 不死ゆえに、死ぬ定めにある者には感じられない、限界を超えた苦痛を味わうことになる。肉体は不死身かもしれない。だが、その痛みの前に、尋常な精神は耐えられない。腰にまで伸びた長い髪は、果てしない苦痛によって色を失っていた。

『なぜ死なぬ? 人間ではないのか?』

「おまえにだけは言われたくはない」

『クフッ……それも良い。死なぬなら、永劫に甘露を絞り取るまでのこと』

 表面的なダメージの修復はもう終わっている。だが、深部までは修復が届いていない。荒い息の隙間から、とめどなく血がこぼれ落ちる。

 ここにフィリンやリサがいなくて良かったと思う。こんな姿はもう、とても人とは呼べない。こんな姿を見せられない。自分が何者なのか、という問いかけへの答、その一端がここにあった。

 俺はやはり人間ではない。いや、人間と呼ぶべきではない。薄々は感じていた異常な肉体は、やはり滅びようとしない。

 総身を赤く染めたジークは、再び剣を構えた。

 圧倒的な戦闘力と、それに伍する回復力。となれば、後は気力の勝負だった。敵が根負けするのが早いか、それとも俺が廃人になるのが早いか、突き詰めてみれば単純な勝負だ。

「今はこの身こそ天佑か。とことんまで付き合ってやるぞ、変態野郎」

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