22.まどろみは甘く
鼻孔を甘い香りがくすぐっていた。細い指先が繰り返し髪を撫で、まどろみの中で柔らかな感触に頭をこすりつけた。
「ジーク……ジーク、いつまで寝ているつもりか。しまいには苔むしてキノコが生えるぞ」
優しい声に目を開ける。開けた視界に映るのは、数百年も変わり映えのしない小さな泉の畔だった。寝返りを打って仰向けになると、美しい顔がこちらを覗き込んでいた。
ああ、そうか。シーリアに膝枕をしてもらって、そのまま寝入っていたのか。
「万年動かないあんたには言われたくない」
「可愛くない。たまにこうして甘えてきても、憎まれ口は少しも減らぬ。……それとも、これもそなたなりの甘え方か」
「……そうかもしれない。ただ、なにもかも面倒だ。今は眠っていたい。もう少しだけ……」
シーリアの手が頭を撫でる。ずっとこうしていたい。ここはすべてが満たされた小さな楽園だった。だが、それが叶わぬ願いだとも知っている。失われた楽園の情景は夢に違いなかった。だから今は少しだけ、ほんの少しだけでいい、ここで眠っていたかった。
目覚めれば現実が待っている。そこは騒々しく、変化に富んだ、楽しみと悲しみの世界。それもまたいいだろう。悪くはないのだ。ただ――それは祭りなのだ。一過性の騒ぎに過ぎない。いずれ終わる事を知っていて、それだけに寂寥感が募る。
咲いて枯れる花なら、それも良い。だが、永劫に咲き続ける花は、冬の訪れに何を思うのだろうか。寄り添い続けたシーリアも、もう居ない。
「ジーク、眠りから覚める時が来た。兆しはすでにそなたの内にあり、目覚めの時は近い。傷を負いし我が騎士よ、その真なる目覚めの暁には、どうか余を恨んでおくれ」
「シーリア、なにを……」
「すべてを取り戻したその時に、恨む相手もおらぬでは寂しかろうから、そなたを過酷な運命に導いた余を恨んでおくれ。ジーク――いや、我が最愛の騎士ハルト」
悲しい笑みとともに身を屈めたシーリアは、そっと唇を重ねた。
覚醒したジークは眩しさに目を細めた。夕陽が目に眩しい。
夕陽? ここは『魔窟』ではないのか? 『悪魔』はどうなった?
記憶が錯綜して、うまく思い出せない。シーリアの夢を見たせいか、時系列がうまく把握できなかった。夢……そう夢の中で、彼女は何か重要なことを言っていたような気がする。
「……気が付かれましたか、ジーク様」
眩しさに慣れてきた目を動かすと、傍らにリサが座っていた。ベッドに寝かされているジークに付き添っていたのだろう。視線を巡らせると、ここが見慣れた宿の部屋だと分かった。
「俺は、どうなって……」
「まだ動かないでください。八日間も意識が戻らなかったのですから」
起き上がろうとするジークを、リサが押しとどめた。ジークは逆らわなかった。身体には強い疲労感が残っていたし、動かしてみて全身がボロボロの状態だと分かったからだ。休眠状態で再生効率が落ちていたのか、あるいは再生の限界に達しているのかもしれない。
「どうりで腹が減ってるわけだ」
「すぐに用意します。お水は?」
「もらう。喉が渇いた」
小さく笑みを見せて、リサはジークの上半身を助け起こすと、用意していたコップを差し出した。
「あ……」
それを受け取ろうとしたジークは、差し出した左手がないことに気付いた。肘から先が失われ、破断面は包帯に覆われている。
さすがに失われた四肢は再生しないのか。それとも再生する力が残っていなかったのか。それは分からない。だが、完全に不死ではないのだろうと自身を納得させる。
「ジーク様……」
ジークは右手でコップを受け取った。
「ありがとう」
「いえ。焦らず、少しずつ口に含んでから飲んでください」
ジークはうなずいて、言われた通りに少量だけ水を口に含んだ。じゅわりと広がる潤いに、生き返ったような気分を味わう。蓄積されていた倦怠感が洗い流されるように、ほんの少しだけ活力が蘇ってきた。
「リサ、俺はどうしてここに……?」
「ヨシュアさんたちが救出して、騎士団の施療院で治療を受けた後、意識が戻らないまま引き取ってきたんです」
「ヨシュアたちが?」
撤退しなかったのか。いや、それ以前に『悪魔』はどうなったのか。
「お食事を用意しますね。フィリンさんにも知らせないといけませんし」
立ち上がった彼女の顔がやつれていることに、ジークはようやく気付いた。眠る時間を削ってまで、ずっと看病していてくれたのだろう。
「リサ、心配をかけてごめん。それと、ありがとう」
「……いいんです。こうして目を覚ましてくれましたから。でも、もうこれきりになさってくださいね」
リサはそう言うと、寂しげな表情をして出て行った。
自分たちの無事を祈りながら、一人待っているリサを思うと、負い目を感じずにはいられなかった。それでもジークはまたリサにあんな顔をさせてしまうのだろうと思った。
再び件の『悪魔』に遭わねばならない。その理由があった。
錯綜していた記憶が徐々に蘇り始めていた。
『フールゲント』
銀の騎士はジークの持つ剣の名をそう呼んだ。
激痛に霞む知覚の中で、ジークは確かにその声を聞いた。その時にはすでに左腕はなかったように思う。
『そうか、フールゲント……我が剛剣を前に折れぬと思えば、そうか、そうだったか、貴様か!』
そして雷鳴のような哄笑を放った。それは他者をいたぶることに喜びを覚える、狂気の滲む笑声とは違っていた。愉快、というのでもない。どうにもしようがないほどの感情を吐き出すために笑っているような、危うい笑声だった。
「おまえは……俺が誰だか知っているのか?」
訳の分からぬままジークは問いかけたが、相手はそれに答えようとはしない。
『だが、どういうことだ? 貴様はなぜ、その姿のまま生きている? なぜ、貴様だけが……』
困惑したように銀の騎士は一歩、二歩と後ずさる。薄々とは感じていたが、こちらの言葉は届いていないかのような振る舞いだった。やはり精神を病んでいるということなのか。
「おい、教えろ、俺はいったい何者なんだ!?」
『いや、フールゲントは既に失われたはず……そう、そうだ、破壊された。貴様は、だから、そのために……だが、それは確かに……』
「何を言っている……?」
『そうか、クフフ……我を惑わす夢幻に過ぎぬ。そう、そうだ。これは幻術。でなくば、貴様が往時の姿で現れるなど、ありえぬ』
直後、漆黒の大剣が振り抜かれ、紫電がジークの全身を焼いた。倒れ込み、それでも起き上がろうとするジークを尻目に、銀の騎士は凄まじい跳躍で闇の中へと姿を消した。ジークを幻術と思い込んだ銀の騎士は、想像の幻術使いを探しに向かったのだろう。
緊張が解けたせいか、それとも純粋に限界に達していたのか、ジークの意識はそこで途切れた。
何から何まで理解できない敵だったが、たった一つだけ分かったことは、彼がジークの過去を知っている可能性があるということだった。
再戦しても勝てる見込みはまったくない。加えて意思の疎通が可能なようにも見えなかった。だが、手掛かりであることに変わりはない。
何とかする手段があれば、と記憶の整理を終えたジークが考えていたところで、打ち壊さんばかりの勢いで部屋のドアが開け放たれた。
「ジーク!!」
飛び込んで来たのはフィリンだった。部屋どころかベッドの上まで飛び込んで、フィリンはジークに抱きついた。
「バカバカバカ! ジークのバカ! 見つけた時、死んでるのかと思ったんだから! ぜんぜん起きないし、やっぱり死ぬのかと思って、死ぬほど心配したんだから! 食事だってぜんぜん喉を通んないし!」
「いや、最後のは嘘だろ」
ジークは冷静にツッコミを入れて、手元にあった手拭いでぐいぐいとフィリンの口元を拭った。べったりとソースが付いている。
「言葉の綾よ」
揚げ足を取られて、ぷっと頬を膨らませたが、フィリンはジークから離れようとしなかった。
「見つけた時、ほんとに心臓が止まるかと思ったんだからね。髪の毛は真っ白になってるし、左腕はなくなってるし、座り込んだまま動かないから。あのセドリックが軽口を叩かないから、コレほんとにヤバいんだって思って……」
ジークを見上げるエメラルドグリーンの瞳が涙に歪んだ。フィリンの頭を撫で、それから華奢な身体を抱き寄せた。
「大丈夫、もう大丈夫だ」
言葉が欺瞞に過ぎないと知りながら、ジークは繰り返した。少女の甘い体臭が心を抉る。
フィリンがうなずきながら、もう放さないとばかりに抱きしめる腕に力を込めてくる。万全とは言えない身体に痛みが走るが、それは我慢した。
そのフィリンの脳天に、がつんと衝撃が走った。
「いっ……たー!?」
「何をしているのですか。ジーク様は怪我人なんですよ。無茶をしないでください」
いつの間にいたのか、食事を乗せたトレーを片手に、握り拳を作ったリサが立っていた。
「だってぇ……」
「だって、じゃありません。早く降りなさい。ああ、もう……包帯がほどけてます」
テーブルにトレーを置くと、リサはフィリンを押しのけて、ジークの胸に巻かれていた包帯を締め直しにかかる。
「俺は大丈夫だよ、リサ」
「いけません。あっ、ちょっと、ジーク様!」
ジークは包帯を結んでいたリサを、少し強引に抱き寄せた。
「ほら、何ともないから」
「もう……」
怒った顔をしながらも、リサは抱かれるままに、ジークの肩に頭を預けた。
「リサだって同じじゃん」
「ち、違います!」
ジト目で呟いたフィリンに、リサは顔を真っ赤にして反論したが、ジークに寄りかかったままの姿勢では説得力など皆無だった。
「そんなに照れなくてもいいじゃない。夜はずっと添い寝してたわけだし」
「ちょっ、フィリンさん! ち、違うんですよ、ジーク様。何かあった時にすぐに対応できるようにしていただけで、他意があったわけではなくてですね……だいたい、フィリンさんだって反対側で――」
「いや、そんなに慌てなくてもいいんじゃないかな。ずっと看病してくれてたわけだろ? 二人ともありがとう」
それこそ他意もなく感謝を述べたジークに、二人は呆れ果てた顔で視線を交わした。




