17.白日
夏の日差しは強さを増し、昼時ともなると照りつける輝きに街並みが漂白されて見えるほどだった。テウス市の近くを流れる川から引き込まれた用水路は、わずかばかりの慰めを提供しているものの、暑いことに変わりはない。
「うーだーるー」
宿の部屋でベッドに突っ伏して、先ほどから呪詛のように同じ言葉を繰り返しているのは、暇を持て余したフィリンだった。
セドリックの負傷によって、休業を余儀なくされてから、すでに四日が過ぎていた。
初日の朝こそ上機嫌で観光に出かけたフィリンだったが、それも午前中だけのことで、容赦のない日差しに追い立てられるようにして帰って来てからは、ずっとこんな様子だった。
深い森の中で育ったエルフにとって、遮る物のない真夏の直射日光は天敵に等しい。わずか半日で白い肌を真っ赤にしたフィリンは軽度の火傷を負って、残り半日を水を張ったタライの中で過ごす羽目になった。
その後、このエルフはまったく外出せず、宿の中で日がな一日、何もせずに過ごしている。
一方のジークは、部屋に置かれたテーブルで、リサが纏めてくれた調査報告書を読み込むのを日課としていた。ここしばらくは忙しかったこともあって、せっかくの報告書に目を通せずにいたのだが、勤勉すぎるリサの調査結果は相当な量になっていた。
「白竜信仰か……」
報告書を読みながら、ジークは首を傾げた。まあ、神なのだから信仰されてナンボというのも分からないではないのだが、白竜の実態を知るジークとしては、いまいちピンとこない。
「力を使い果たして転生したんだから、俺の知ってるシーリアに力を感じなくても当然か」
「でも、それって五百年前でも大して変わらないんじゃないの?」
夏バテ対策の「酢の水割り」をちびちび飲んでいたフィリンが口を挟んだ。ベッドに突っ伏していた顔は、ぐっしょりと汗をかいて、自慢の金髪がべったり張りついていた。それどころか、薄いインナーも汗に濡れて、ところどころ肌が透けて見える。
少し目のやり場に困る。
「……そうかもな。そう言えば、エルフにはいつからシーリアが樹海に居るのか伝わってないのか?」
「うーん、長老が昔って言ってたから、それなりに昔なんじゃない?」
暑さにうんざりした様子のフィリンは、ぞんざいに答えた。地下五階層は別として、基本的に『魔窟』の中は地上より気温が低いせいで、身体が慣らされてしまっている。
「えらく適当だな」
「あたしたちは人間みたいに一年、二年なんて数えないもん」
「ま、分からんじゃない。あんな森の中じゃ、去年だろうと一昨年だろうと、違いなんかありゃしないんだ。……そんな止まった時の中で、あいつは毎年咲く花になにを思ってたんだろうな」
「え? なに?」
「いや、何でもない。それよりおまえ、ぐーたらしてないで、何かしたらどうなんだ」
ここ三日、宿の中に引き籠ってだらだらと過ごしている姿は、非常に不健康に見えた。するとフィリンは露骨に嫌そうな顔をした。
「ジークだって同じじゃない」
「俺は日がな一日、ごろごろしてるわけじゃない」
「あたしだってそうよぉ」
「そう見えないから言ってるんだよ」
「こう見えても、情報収集はしてるんだから」
額に張り付いた前髪をかき上げて、フィリンは偉そうに言った。
そう言えば、顔馴染みになった同宿の探索者と、なにやら世間話でもしているらしい姿を何度か見かけた記憶はある。ジークはテーブルに広げた調査報告書を眺めて、雲泥の差に溜息を漏らした。
「あ、バカにしたでしょ? そういうの、良くないんだからね。聞いてから判断しなさいよ」
「はいはい、悪かったよ。で、どんなすごい情報を手に入れたんだ?」
「それがね、地下七に悪魔が出るって――なによ、その顔!」
「言われた通り聞いてから判断しただけだ」
「全部聞きなさいよ! ほんとなんだから! 最近、地下七で行方不明者が続出してるんだって」
ジークは肩を竦めた。噂話をさも真実のように鵜呑みにするフィリンは、何だかんだと言っても純朴すぎるように思えた。
もともと地下七階層は危険が大きい。現状では探索者の踏み込める最深部と言っても過言ではないのだ。騎士団の過去の調査記録でも、地下七階層辺りから被害の増加が際立っている。そういう場所で行方不明者が続出したところで、不思議はない。
「それが全部、悪魔とやらの仕業だっていう証拠はあるのか? 強力な魔物の群れが現れただけかもしれないだろ。目撃者は?」
「見た人はいないよ。だって、悪魔に襲われたら生きて帰れないって……」
「そら見ろ。目撃者もいないのに、なんで悪魔の仕業だって分かるんだよ」
「うー、でも、ほんとに……」
「はいはい、もういいから寝てろ」
フィリンは「うー」と唸り声を上げていたが、ジークは無視して報告書に視線を戻した。
リサの調査は今のところ、確たる成果を上げられていなかった。だが、それでも一筋の光明として、五百年前という焦点を見出している。そこにシーリアが介入したのかどうか。その時、ジーク自身は何をしていたのか。
記憶を手繰り寄せる手掛かりになるかもしれないと思ったのだが、何も思い出せそうにない。
そのことに何とも言えないもどかしさもあったが、同時にジークは自分が本当に記憶を取り戻したいと思っているのかを疑っていた。
もちろん欲求はある。その核は不安だった。
命がいつ果てるかも知れないと言うのは、どんな生物でも同じことだが、やがて終わりが来ることは知っている。なのに、ジークは終わりが来るのかさえ知らない。それを生きていると言えるのか。ルーツすら分からず、茫漠とした時間を過ごし、その流れに終わりがないとすれば、それは不幸ではないかという不安だった。
リサもフィリンもいずれ死ぬ。彼女たちを含めて、ジークは永遠に知り合う人々を見送り続けることになる。いくら出会いを重ねても、いずれ置いていかれる。それは結果から見れば、だれと共に居ても、結局は孤独を埋める術がないということではないのか。
「孤独……」
常に傍らに居たシーリアを恋しく思う。こんな永遠なら悪くないのだと思わせたのはただひとつ、君が居たからだ。
生物の必然である死を持たぬ者どうし、シーリアとならば悠久の時を同じくできる。それは慰めだった。永遠を思い、日々乾く心にもたらされる、優しい慈雨。なにも痕跡を残さず、ただ白雪に埋もれていくような日々の中で、確かに彼女を愛していたのだと気付く。
比べて、ここは余りにも時の流れが早すぎる。それがなおさらに自らの境遇を知らしめる。癒されない孤独は心を冷やした。
「ジーク」
耳元で囁く声に、優しく抱きしめる腕に、半瞬、ジークは思い違いをした。彼女が戻ってきたのか。呼びかけるために口を開いて、すぐにそれが気の迷いだと知った。
「フィリン……?」
彼女は後ろから覆いかぶさるようにジークを抱いていた。優しいが、確信を持てない弱い抱擁――シーリアとは違う。
「なんか、今のジークは、遠くに行っちゃいそう」
「俺が……なんで?」
遠くへ行くのはフィリンたちではないのか。いずれ俺の追いつけない場所へと去ってしまう。
「分かんない。……分かんないけど、そんな気がした」
「そうか」
抱いてくれる細い腕に指を這わせ、ジークは心地よさを覚えた。同時に自嘲する。神だろうと人だろうと、やはり女には敵わない。男が理屈で考えるから気付かないものを、彼女たちは易々と見つけてしまう。その柔らかな感性に包まれる時、ジークは安らぎを覚えた。
置き去りにされる恐怖を紛らわすならば、こちらが立ち去ればいい。矛盾を孕んだ解が、いつの間にか心を支配していたことを悟った。どのみち一人になると知っていても、そこまでの道程は選ぶことができる。
フィリンの細い腕が、そのことを教えているように思えた。
「ありがとう。もう落ち着い……」
迂闊に振り返ったジークは、触れ合うほど近いフィリンの顔を見て、言葉を途切れさせた。
白皙を彩る朱色の頬、伏し目がちな翡翠の瞳……こもる熱気に当てられたのか、少女の顔を美しいと思った。綻ぶ蕾のような生気を備え、熱い吐息は青味を帯びた芳しさでジークの頬に触れる。
汗を含んで、しっとりと吸いつくきめ細かな肌の感触が、艶めかしく感じられる。
「ジーク」
熱を帯びた声。名前を読んだ薄紅色の唇が、そっと近づいたように思った。
これは何だ? 何がどうなって、こうなった?
白昼夢のようだった。いや、夢なのかもしれない。ジークは身動きのできないまま、近付いて来るフィリンの顔をまじまじと見つめていた。
「目、閉じて」
唇がそう動いたように見えた。フィリンの腕に少しだけ力がこもり、ジークの顔を引き寄せた。
ああ、もう、いいや……。
窓から聞こえていた喧騒は遠くなり、遠く虫の鳴き声だけが聞こえるような、不思議な感覚だった。日差しと影のコントラストの中、目を閉じかけたジークは、その直後に突き刺さったどす黒い殺気に、目を見開いた。
「あらあら、昼間からいい御身分ですわね」
いつからそこに居たのか、部屋の入口にはこめかみに青筋を浮かべたリサが、形ばかりの笑みを浮かべて立っていた。




