第8話 連携の成功
召喚術科の教室は、始業の鐘が鳴る前から騒がしかった。
教室は校舎の二階にある。長机が段になって並び、一番下に教壇が置かれている。生徒たちは自分の席に着かず、窓際の一角に集まっていた。
輪の真ん中にヒサーラ・メネトが座っている。
「ほんの少しなのよ。陣の上の空気が一度だけ揺れて、魔導灯が瞬いたくらい。でもそれで十分なの。今まで何度名を呼んでも、何も返ってこなかったんだから」
「それって、英雄の死霊が応えたってこと?」
ヒサーラの隣でカナン・アルサーが身を乗り出した。いつもヒサーラと連れ立っている生徒で、反対側にはマルネ・セハンが座っている。
「応えかけた、ね。ガルト先生は、あと少しだっておっしゃってたわ」
「でもさ、召喚術科なのに死霊術科の実験に呼ばれるなんて、すごい!」
カナンが声を上げると、輪のあちこちで頷く顔があった。
「ガルト先生が声をかけてくださったの。召喚術科の目で見て、気づくこともあるだろうって」
ヒサーラは膝の上で指を組んだ。誇らしげに、けれど何でもないことのように言う。
「死霊術科の実験室なんて、入ったこともないわ」
マルネが両手を頬に当てた。カナンも頷いた。
「どんな感じだったの。怖くなかった?」
「別に、召喚術科と変わらないわよ。私は魔力の流れを安定させていたの。先輩たちに混じって」
教室の扉が開いた。
シィミアが入ってきた。半歩後ろにゼッドが続いて、扉の上枠を潜る。
ヒサーラの顔がそちらを向いた。視線はシィミアを通り越して、その後ろで止まった。
「メイミア先輩の術式が組み上がれば、きっと喚べる。私、先輩のすぐ隣で補助をしてたの。先輩は最後まで少しも魔力を揺らさなかったわ。英雄の降霊もきっと、もうすぐよ」
ヒサーラの声が一段大きくなった。
シィミアは窓際の輪を横目に、自分の席へ向かった。
降霊、と聞こえた。昨日、渡り廊下で姉が言っていた。実験の準備があるから行く、教授の研究が進んでいる、と。あれのことらしい。
シィミアは輪の中心に座るヒサーラを見た。
ヒサーラは召喚術科の生徒だ。死霊術科の実験の場に、なぜいたのだろう。
少し引っかかったが、シィミアはそれ以上考えなかった。
輪の横を通り過ぎるとき、ゼッドが前を向いたまま言った。
「あの娘はうるさいな」
ゼッドは声を潜めもしなかった。輪の中の何人かが口を閉じ、ヒサーラの言葉が途中で止まった。
「聞こえる声で言わないでよ」
「聞こえるように言った」
シィミアは自分の席に着こうとして、椅子の背に手をかけた。その手より先に、ゼッドの手が椅子を引いた。ゼッドは座面を一度手で払ってから、椅子をシィミアの膝の裏へ寄せた。
「座れ」
「自分で座れるってば」
シィミアは言い返しながら座った。前の席の生徒が振り返って、慌てて前を向いた。
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鐘が鳴って、ジャクターが教室へ入ってきた。窓際の輪がほどけて、生徒たちがそれぞれの席へ戻っていく。
ジャクターは教壇に名簿を置くと、そのまま口を開いた。
「今日は教室でやる。召喚獣の力を主の腕へ通して、掌の上に灯として保て。大きさは親指の先ほど。膨らませすぎても萎ませすぎてもいかん。十を数えるまで保てば合格とする」
ジャクターは名簿を開いた。
「昨日の演習場とは逆だ。出す力ではなく、絞る力を見る。名簿順に。メネト」
ヒサーラが席で掌を上へ向けた。机の横に伏せていたティルが顔を上げ、ヒサーラの手首へ鼻先を寄せる。
ヒサーラの掌に、赤い火が一つ灯った。親指の先ほどの大きさで、揺れもしない。
ジャクターが十を数え終えるまで、火の大きさは変わらなかった。
「よろしい。メネト、合格」
カナンが手を叩き、マルネがそれに続いた。ヒサーラは火を握って消し、ティルの頭を撫でた。
それから何人かが続いた。灯が膨らんで袖を焦がしかけた者もいれば、灯が点かないまま終わった者もいた。
カナンの灯は点いた途端に肩の小鳥が羽ばたいて吹き消してしまい、マルネの灯は膝の上で丸くなった白い獣が眠り込んで、いつまでも点かなかった。
「リスタース」
シィミアが召喚印のある手を上へ向けると、横に立っていたゼッドが動いた。シィミアの背後へ回り込もうとしている。昨日の演習場と同じ位置だった。
「今回は触らないで。流す量もわたしが決める。下がって」
シィミアは前を向いたまま言った。
ゼッドは一歩だけ後ろへ下がった。たった一歩だった。
「命令には従ったぞ」
ゼッドが軽く微笑む。
後ろの列で、マルネが両手で口を覆った。
「始めなさい」
ジャクターの声で、シィミアは召喚印に意識を向けた。
腕の奥で何かが動いた。触れられていないのに、手の甲の印の真ん中から熱が入ってくる。契約で繋がっているかぎり、離れていても道は通るらしい。
掌の上に火が点いた。
点いた直後から、火は膨らみ始めた。親指の先ほどだったものが、見る間に拳ほどになる。熱が掌へ次々に押し寄せてくる。
シィミアは掌を見つめた。
止めないといけない。どうやって止めればいいのかが分からない。火を見つめるほど、シィミアの顔は掌へ近づいていった。
顎に指がかかった。
後ろから伸びたゼッドの手が、シィミアの顎を持ち上げる。シィミアの視線が火から離れて、教室の天井の近くまで上がった。
「下を向くな」
「触らないでって言った」
「顔は腕ではない」
ゼッドの指が顎から離れた。
教室のあちこちで、悲鳴に近い声が上がった。
シィミアの首から上が熱くなる。言い返そうとしたが、口が動かなかった。
顔を上げたままでは、掌の火が見えない。腕の中の熱だけが残った。
昨夜も、同じことをしていた。
教本を閉じて寝台へ潜り込んでから、シィミアは暗がりの中で自分の右腕をなぞった。手の甲の印から肘へ、肘から肩へ。階段でゼッドの指がたどった道筋を、自分の指で何度もなぞった。何も通らなかった。寝台の横で膝をついていたゼッドに早く寝ろと言われて、分かってると返し、それでもしばらくやめなかった。
何も掴めないまま、いつの間にか眠っていた。
今は熱が通っている。手の甲の印から入って、手首を抜けて、肘へ上がってくる。
肘で一度溜まる。ここが一番熱い、とゼッドは言っていた。
溜まった熱が、そこから掌へ引き返そうとしている。引き返して、火をさらに膨らませようとしている。
シィミアは肘に力を込めた。腕を曲げるのではない。そこで熱を受け止めるつもりで、肘の内側を固くした。
熱が肘で止まった。止まったぶんだけ、掌へ戻る熱が細くなっていく。
シィミアは顔を上げたまま、掌を見なかった。見なくても、火が縮んでいくのが掌の熱で分かる。拳ほどあったものが親指の先ほどに戻り、そこからさらに細くなっていく。
「一」
ジャクターが数え始めた。
ジャクターの声が十まで進むあいだ、シィミアは肘に熱を抱えたまま動かなかった。
「……十。よろしい」
ジャクターが名簿にペンを走らせた。
「リスタース、合格。昨日の保留も、これで取り消す」
ジャクターはペンを止めて、シィミアの掌を見た。
「指定より小さいが、消さずに保った。今日ここまで絞れた者は、他にいなかった」
シィミアは掌を見下ろした。爪の先ほどの火が、揺れもせずに灯っていた。
ゼッドが教室を振り返った。
「見たか。オレ様の主だ」
教室の端まで届く声だった。
言い終えると、ゼッドは口の端を上げた。講堂で片膝をついた後に見せたのと同じ顔で、教室を端から端までゆっくりと見渡していく。見渡しながら、一列ごとに生徒たちの顔を確かめていた。
一拍置いて、教室が沸いた。机を叩く者がいて、両手で顔を覆う者がいる。カナンが隣の生徒の肩を揺すって「今の聞いた? オレ様の主だって」と繰り返し、マルネは机に突っ伏した。
シィミアは掌の火を握って消した。
ゼッドの口の端が元に戻った。いつもの顔でシィミアへ向き直り、机に片手をついて身を屈める。ゼッドの顔がシィミアの目の前まで来た。息がかかる距離だった。
「よくやった」
いつもなら、ここで顔が熱くなる。
熱くならなかった。
シィミアは自分の頬に手を当てた。冷たい。これほど近くにゼッドの顔があるのに、自分の顔は冷えたままだった。
照れていない。そのことに、シィミアは自分で驚いた。
驚いた途端、頬に当てた掌の下から熱が上がってきた。
「近いって」
シィミアは椅子ごと身を引いた。引いてから、ゼッドを睨み上げる。
「……あの子の自慢をうるさいって言ってたのは誰」
「オレ様は事実を言っている」
ゼッドは身を起こして、悪びれもせずに胸を張った。
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ヒサーラは火の消えた掌を、膝の上で握っていた。
昨日の演習場も見ている。あの子は的の向こうの森まで撃って、評価を保留された。召喚獣の力に主が追いついていない、と先生は言った。
当然だと思った。詠唱で噛む術者と、目録にも載らない召喚獣では、格が釣り合っていない。釣り合わないものは、いずれ噛み合わなくなる。噛み合わなくなれば、契約も長くは続かない。
そう見込んでいた。昨日、あの子にもはっきり言ってやった。
それが一日で噛み合いはじめている。
あの子は何も揃えていない。一日で腕が上がるはずもない。道理に合わない。
おかしい。
ヒサーラは教室の後ろを振り返った。あの男は主の横に立って、主だけを見下ろしている。
地下講堂で、あの男の装束の隙間から光が走ったのを見た。光は胸の中心へ消えて、床の陣が一度脈打った。
寮の廊下の突き当たりで、炎が拾った声も覚えている。術をかけた。好きになるように。
ヒサーラの視線が、あの男の胸のあたりで止まった。




