第9話 事実上のデート
実習の翌日は、学園の休みの日だった。
朝のうちに、シィミアの部屋の扉が叩かれた。
扉を開けると、リシャが立っていた。私服で、髪を後ろで一つに結んでいる。リシャの足元を抜けて、灰色の猫が足音もなく部屋へ入ってきた。ムールだった。
「聞いたよ、昨日の実習。合格だって」
「もう死霊術科まで話が回ってるの」
「回ってる。灯が一番小さくて、一番揺れなかったって話になってた」
リシャはシィミアの横をすり抜けて部屋へ入ると、寝台の端に腰を下ろした。扉の横に立っていたゼッドへ、ひらひらと手を振る。
「おはよう、ゼッド」
「ああ」
ゼッドは短く返して、床を横切っていくムールへ目をやった。ムールは机の脚を通り抜けて窓辺まで行くと、そこで座る姿勢になった。
「……その死霊はまだいるのか」
「この子はまだまだ未練があるの」
ムールは窓の外を見ている。耳が一度動いた。
リシャはシィミアへ向き直った。
「シィミア、強くなりたいって言ってたよね」
「言った……っけ? そりゃ、強くなりたいけど」
「召喚術師が強くなるのって、結局は召喚獣と息が合うかどうかにかかってるよね。昨日だってそれで合格したんでしょ」
「……まあ、そうかも」
「つまり、デート!」
「何がつまりだ!?」
シィミアの声が部屋に響いた。リシャは寝台の上で膝を抱えて、平然としている。
「息を合わせるには仲良くならないと。仲良くなるには一緒に出かけるのが一番。今日は休みだし、街に行ってきなよ」
「でーと、とは何だ」
扉の横からゼッドが口を挟んだ。
「好きな人と二人で出かけることだよ」
「主と出歩くことか。それならいつもしている」
「学園の中じゃなくて、街に行くの。お店を見たり、何か食べたり」
ゼッドは腕を組んで、少し考える顔をした。
「主と息が合えば、オレ様の力も通りやすくなる。昨日の実習がそうだった。……悪くない。行くぞ、主よ」
「勝手に決めないで! 行くなんて一言も言ってない」
「強くなりたいのだろう」
「それは言ったけど、それとこれとは別でしょ」
「別じゃないよ」
リシャが寝台の上から口を挟んだ。
「息が合えば強くなる。昨日それで合格した。今日は休み。行かない理由ある?」
シィミアは言い返す言葉を探した。探しても出てこない。強くなりたいと言ったのも、昨日息が合って合格したのも、自分だった。
「……行けばいいんでしょ、行けば」
「決まりだな」
ゼッドが扉の横から背を離した。
リシャはそこで、ゼッドの頭から足先までを眺めた。黒い装束が襟元から裾まで隙間なく閉じている。
「……その格好で街に出たら、騒ぎになるね」
「何が悪い」
「全部。人間に見える服にして」
ゼッドは眉を寄せた。それから片手を胸の前で軽く振った。
黒い装束の表面が波打った。布が動き、形を変えて、別の衣装になっていく。
裾が床まで届く黒い長衣だった。肩から腰へ斜めに革帯が渡され、帯には金具がいくつも下がっている。襟は高く立ち、袖口には細かな刺繍が入っていた。
「これでどうだ」
「昔の絵に出てくる人じゃん」
リシャが即座に言った。
「人間の服だ」
「数百年前のでしょ。今それで歩いたら、劇団の人だと思われるよ」
「知ったことか」
ゼッドはそっぽを向いた。
シィミアは二人を見比べた。服のことはシィミアにはよく分からない。分からないが、ゼッドの長衣が街で浮くことだけは分かる。
「ゼッド、リシャに任せる。リシャの言う通りにして」
ゼッドが振り返った。明らかに嫌そうな顔だった。
「……主の命なら」
リシャが寝台から立ち上がった。
「まず、その帯を外して。金具も全部」
ゼッドが手を振ると、革帯と金具が消えた。
「裾はもっと短く。……それでも長いな。上着にしよう。襟は立てないで寝かせて。中に白い襟の服を着て、一番上の留め具は開けて」
ゼッドは黙って手を振った。一度振るたびに、ゼッドの顔が険しくなっていく。
「袖は肘まで捲って。……そう、それ」
リシャはゼッドの頭へ目を上げた。長い黒髪が、肩から背中へ流れている。
「髪も。そのまま下ろしてると重たく見えるから、後ろで一つにまとめて。高くしないで、首の後ろくらいの低いところで」
「髪まで口を出すのか」
「出すよ。任せられたでしょ」
リシャは自分の手首に巻いていた紐をほどいて、ゼッドへ差し出した。ゼッドはシィミアを一度見た。シィミアが黙って頷くと、ゼッドは紐を受け取った。
ゼッドが両手を首の後ろへ回して、髪をまとめる。紐が二度巻かれて、結ばれた。
「前の髪、少しだけ残して。全部上げると怖いから」
ゼッドは眉間に深い皺を寄せたまま、こめかみのあたりの髪をひと筋だけ指で引き出した。
リシャが一歩下がりかけて、止まった。視線がゼッドの喉元で止まっている。
「あ、待って。それ」
開いた襟の奥、喉の少し下に、印が浮かんでいた。二本の細い線が一度だけ絡み合った、結び目の形だった。
シィミアは自分の手の甲を見た。同じ形がそこにある。
召喚獣の側にも、主と同じ印が出る。授業では習っていた。習っていたが、自分の印がこの男の喉元に刻まれているところを、シィミアは初めて目にした。
首から上が熱くなった。
「印が見えてたら、召喚獣だってすぐ分かっちゃう。人間に見えるようにって話なんだから、そこも隠して」
「隠す必要がどこにある」
「あるの。細い帯でいいから、首に巻いて」
ゼッドはシィミアを一度見た。シィミアが目を逸らしたまま頷くと、ゼッドは喉元へ軽く手をやった。黒い細い帯が現れて、印の上をひと巻きした。
リシャが一歩下がった。
黒い上着に白い襟、捲った袖から前腕が覗いている。飾りは一つもない。長い黒髪は首の後ろで一つに束ねられ、こめかみにひと筋だけ残った髪が頬の線にかかっていた。開いた襟から首筋が見えて、喉元には黒い細帯が巻かれている。
リシャは両手で口を押さえた。
「……指示したのは私だけど、これはまずい」
「何がまずい」
「全部」
シィミアは窓のほうを向いた。窓辺のムールと目が合う。ゼッドの姿が視界の端に入っている。見ないようにしているのに、首から上が熱くなってきた。
「主よ。これでいいのか」
「……いいんじゃない」
シィミアは窓の外を見たまま答えた。
「じゃあ次はシィミアね」
リシャが自分の鞄から服を一揃い取り出した。淡い色の上着と、膝下までの長さの裾広がりのものだった。
「私の服だけど、背丈は同じくらいだから」
シィミアは服を受け取って、ゼッドを部屋の外へ追い出してから着替えた。
着替え終えて、壁に掛けた小さな鏡を覗く。袖が少し長い。腰回りが余っている。制服ならどこに何があるか分かっているのに、借りた服はどこを直せばいいのかが分からない。
扉を開けると、廊下にゼッドが立っていた。
ゼッドはシィミアを上から下まで見た。
「丈が合っていない」
「分かってるよ」
「買えばいい」
ゼッドはそれだけ言って、シィミアの袖口を指でつまんだ。長く余った袖を二度折り返して、手首が見える位置で止める。もう片方の袖も同じように折った。
「行くぞ」
部屋の中から、リシャが手を振っていた。
「私は行かないから。二人で楽しんできて」
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学園の門を出て坂を下ると、街がある。
石畳の通りに店が並び、休みの日の昼前で人が多い。シィミアとゼッドは並んで通りを歩いた。
すれ違う人が振り返る。一人が振り返ると、その隣の人も振り返る。視線はゼッドの顔に集まって、それからゼッドの隣にいるシィミアへ移った。
ゼッドは視線に構わず歩いている。通りの車道側を歩き、シィミアを建物の側へ置いていた。シィミアが歩く速さを変えると、ゼッドの歩幅も同じだけ変わった。
シィミアたちの十歩ほど後ろを、リシャが歩いていた。
部屋で二人を見送ってから、十を数えて後を追った。露店の陰に入り、人の背中に隠れ、角を曲がるたびに壁に身を寄せる。気づかれてはいないはずだった。
リシャの足元をムールが歩いている。
ムールが寮の外へ出るのは、これが初めてだった。ムールは通りの角で立ち止まって、風の吹いてくるほうへ顔を向けた。坂の上から吹き下ろす風が、露店の布をはためかせている。
ムールの灰色の毛は、一本も揺れなかった。
ムールはしばらくそのまま座っていた。リシャは露店の陰で目を閉じた。
死霊術師は、繋がっている死霊の見聞きを共有できる。まぶたの裏に、通りが映った。坂の上から吹き下ろす風に、露店の布がはためいている。ムールの目には、布の端が揺れる様子がはっきり見えていた。けれど、毛に当たる風の感触は、どこにもなかった。
リシャは目を開けた。長く続けると、頭の奥が重くなる。ムールを手元に呼ぶように、小さく指を鳴らした。
ムールは立ち上がって、リシャの後を追った。
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服を売る店は、通りの中ほどにあった。
店の中は吊るされた服でいっぱいだった。シィミアは棚の間を歩きながら、一着を手に取った。膝下まである、深い青の裾広がりのものだった。
「長い。裾が脚に絡む。走れん」
ゼッドが後ろから言った。
「走らないよ。デ……デートなんだから」
シィミアは手に持った服を胸の前で握りしめて、ゼッドから顔を背けた。
「何があるか分からん」
シィミアはその一着を戻して、別の一着を取った。明るい黄色の上着だった。
「目立つ。遠くからでも見える。守りにくい」
「守らなくていいから」
「守る」
シィミアは次の一着を取った。薄い布の、袖の短いものだった。
「冷える」
「自分で選ぶって言ってるでしょ」
「選べばいい。オレ様は口を出しているだけだ」
「出しすぎなの!」
シィミアは服を棚へ戻して、ゼッドを振り返った。振り返った先で、ゼッドは店の窓のほうへ目をやっていた。
「お前の友人が外から覗いているぞ」
シィミアが窓を見ると、窓枠の端から覗いていた頭が引っ込んだ。引っ込んだ頭のすぐ横に、灰色の耳が二つ残っていた。耳も遅れて引っ込んだ。
ムールだった。
寮を出たがっていた、とリシャは言っていた。何かしてあげたい、と自分は言った。言っただけで、まだ何もしていない。
「……放っておいて」
「最初から放っておいている」
ゼッドは棚の奥へ手を伸ばした。吊るされた服の中から、一着を引き抜く。
淡い若草色の、膝丈の服だった。襟元に小さな白い縁取りがあり、裾が少しだけ広がっている。
「それにしろ」
シィミアはその一着を見た。明るい色だった。
「なんで」
「……目立たん」
「さっきと逆のこと言ってる」
「いいから着てみろ」
ゼッドは服をシィミアの腕へ押しつけて、棚のほうへ顔を背けた。
シィミアは奥の仕切りへ入って、着替えた。
仕切りの中の鏡に、若草色の服を着た自分が映っている。丈は膝のすぐ下で止まり、肩の縫い目がちょうど肩の上にある。袖を折り返す必要もない。焦げ茶色のおさげが、淡い色の上によく映えていた。
シィミアは鏡の前で、しばらく動かなかった。
シィミアが仕切りから出ると、ゼッドは店の台の前に立っていた。懐から何かを取り出して、台の上に置く。
金貨だった。掌に載るほどの大きさで、縁が少しすり減っている。表には見たことのない紋章が刻まれていた。
店の者が金貨を手に取って裏返し、また表へ返した。困った顔でシィミアを見る。
シィミアは台に身を乗り出して、金貨を覗き込んだ。
「これ、いつの時代のよ」
「金だろう。何が不満だ」
「今はこんなの使ってないの」
ゼッドは眉を寄せた。
「どうしてオレ様が金を持っていないように扱う」
「持ってないように見えたからだよ」
店の者が、通りを二つ先へ行けば両替の店がある、と教えてくれた。シィミアは借りた服に着替え直して、若草色の服を取り置いてもらった。
両替の店は狭く、奥の台に年配の店主が一人座っていた。ゼッドが金貨を台に置くと、店主は拡大鏡を目に当てて、長いあいだ黙っていた。
それから顔を上げて、ゼッドとシィミアへ交互に目をやった。
店主が台の上に数えて並べた銀貨は、シィミアのひと月の小遣いの何倍もあった。
「……こんなに?」
シィミアは銀貨の山とゼッドの顔を見比べた。ゼッドは銀貨を一瞥しただけで、店主に言って革の袋へ入れさせた。
服の店へ戻る道で、シィミアはゼッドの手元の袋を見た。
「金貨、どこで手に入れたの」
「もらった」
「もらったものなのに、いいの」
「金は使うものなのだろう」
ゼッドは袋を片手で揺らした。袋の中で銀貨が鳴った。
服の店へ戻ると、シィミアはもう一度若草色の服に袖を通した。ゼッドが袋から銀貨を一掴み出して台に置き、店の者が慌てて多すぎる分を返した。借りた服は店の者に包んでもらい、その包みをゼッドが持った。
ゼッドが店の扉を押し開けた。片腕で扉を支えたまま、戸口に立っている。
シィミアは扉と、ゼッドの腕の下とを見比べた。通るには、ゼッドの腕の下をくぐるしかなかった。
腕の下を抜けようとしたところで、ゼッドの視線が降ってきた。若草色の襟元から、裾の先まで、ゆっくりと下りていく。
「何」
「それでいい」
ゼッドはそれだけ言った。
「……選んだの、ゼッドでしょ。自分で選んだ服を褒めてるだけじゃない」
「そうだ。オレ様の目に狂いはなかった」
シィミアは言い返そうとして、口を開けたまま止まった。服を褒められたのか、自分を褒められたのか、分からなかった。分からないまま、頬が熱くなっていく。
シィミアは顔を背けて、ゼッドの腕の下をくぐり抜けた。背中で、扉の閉まる音がした。




