第7話 心配と仕組み
昼を過ぎた渡り廊下は人の通りが多い。
召喚術科の校舎と本館を繋ぐ廊下で、シィミアは壁際を歩いていた。半歩後ろにゼッドがいる。すれ違う生徒が道を空けるので、歩く先だけが勝手に開いていった。
「主よ。この校舎は天井が低いな」
「あんたが大きいだけでしょ」
「頭が擦る」
「擦ってない」
シィミアは振り返らずに答えた。振り返ると顔が近いことを、昨日と今朝で学んでいる。
本館の扉が見えたところで、前から来た人の流れが割れた。
割れた先にメイミア・リスタースが立っていた。
死霊術科の制服を着ていた。襟の留め具の色が召喚術科とは違う。長い黒髪を背中へ流したまま、こちらを見ていた。
シィミアの足が止まった。
「シィミア」
「……お姉ちゃん」
周りの生徒が歩調を落とした。露骨に見る者はいないが、耳だけがこちらを向いているのが分かる。死霊術科の首席と、召喚術科の落ちこぼれが並んでいるところを見られるのは、入学してから何度もあった。
メイミアがシィミアの前まで来た。
「召喚の翌日に声をかけるのは、遅すぎたと思っているのだけど」
「ううん。忙しいでしょ」
「忙しくはないわ。どう言えばいいのか分からなかっただけ」
メイミアは妹の顔を見て、それから視線を上げた。
ゼッドはシィミアの半歩後ろに立ったまま、動かずにいる。メイミアより頭ひとつ以上高い。黒い装束は襟元まで閉じていて、露出しているのは顔と手だけだった。
「食堂で見たときより、近くにいるのね」
「……見てたの」
「昨日の夕食のときに。声をかけようとして、やめたわ」
メイミアはゼッドの顔を見た。
整った顔をしていた。妹の後ろに控えて、妹から目を離さない。
「これが、あなたの召喚獣ね」
「そう。ゼッドっていう」
「ゼッド」
メイミアが名前を口にした。
ゼッドがメイミアを見た。値踏みをする目だった。上から下まで一度通って、それで終わった。
「この娘の姉か」
「メイミア・リスタースと申します。妹がお世話になっています」
「世話をしているのはオレ様のほうだ。逆ではない」
「……そのようですね」
メイミアは目を細めた。
妹は昨日から、学年で一番の召喚をした生徒になっている。だが、実技の評価は保留になったとも聞いた。森の木を何本か倒したという話も、死霊術科まで回ってきている。
妹の後ろに控えている姿だけを見れば、主に忠実な召喚獣に見える。けれど、それが何なのかは誰にも判定ができない。
「シィミア。体は何ともないの」
「なんで」
「格の高い召喚獣を喚べば、術者の魔力は根こそぎ持っていかれるわ。調子が悪くなったでしょう」
「それはもう平気」
「今朝の実習は」
「……腕が熱くなっただけ」
メイミアの眉がわずかに動いた。
「熱くなるのは、魔力を通した量が多いからよ。腕を見せて」
シィミアが右腕を出すより先に、ゼッドが口を開いた。
「見るまでもない。何ともないと確かめてある」
「あなたが確かめたのですか」
「魔力を通した本人が、何ともないと言っている」
メイミアはゼッドを見上げた。
この男は嘘を言っていない。嘘を言う必要のある立場でもない。ただ、召喚獣の判断が正しいかは別の話だ。召喚獣には気付くことのできない異常があるかもしれない。
「シィミア。これから先、体に何かあったら医務室へ行きなさい。自分で平気だと思っても行くのよ」
「うん」
「それと」
メイミアは一度言葉を切った。
言うべきことが喉のところまで来ている。ただ、それを言うには根拠が足りなかった。妹の召喚獣は契約が成立しているし、学園も正式に登録した。危害を加えないという原則も働いている。危ないと言うための材料が、今の自分には何もない。
あるのは、妹の後ろに立っている男の顔が良すぎるという、それだけだった。
「困ったことがあったら言いなさい。何でもいいから」
「大丈夫だよ」
「大丈夫でなくてもいいの」
メイミアは妹の頭へ手を伸ばしかけて、途中で止めた。
周りに人が多い。それに、妹は昔からこういうことを嫌がる。
「では、実験の準備があるから行くわね」
「実験って」
「降霊の。教授の研究が進んでいるのよ」
メイミアはそれだけ言って、シィミアの横を通り過ぎた。
ゼッドの横を通るとき、異様な魔力の気配を感じた。圧を感じて、息を吸えない。
目を凝らせば、魔力の流れはメイミアの目に形を結んで見える。誰にでもできることではなかった。ただし、相手を正面に据えて、じっと見据えなければ見えない。すれ違うほんの一瞬では、押し寄せてくる圧しか分からなかった。
死霊術科で三年、格の高いものを扱ってきた。上級の死霊の気配も知っている。どれとも違った。一度通れば忘れようがない。
メイミアは廊下を曲がってから、深く息を吸った。
「……あれが、あの子の召喚獣なの」
メイミアは死霊術科の校舎へ向かった。
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シィミアは姉の背中が見えなくなるまで、その場に立っていた。
「行くぞ」
「……うん」
歩き出してから、シィミアは自分の返事を思い返した。
困ったことがあったら言いなさい、と姉は言った。大丈夫だよ、と自分は答えた。
仲が悪いわけではない。姉は昔から妹を気にかけている。ただ、並んで立つと周りが姉の名前を出す。出されるたびに自分の成績が引き合いになる。それが嫌で、廊下で見かけても声をかけずに済ませてきた。
姉のほうも、いつからか無理に声をかけてこなくなった。察したのだと思う。妹が避けているのを見て、そうしないほうがいいと判断したのだろう。
その姉が、自分から探して声をかけてくれた。それを大丈夫だよで済ませた。
「主よ。顔が下を向いている」
「……そうだね」
シィミアは顔を上げた。
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渡り廊下の反対の端に、ヒサーラ・メネトが立っていた。足元にティルが伏せている。
先輩の言っていた用事は、これだった。
私が一緒に行きたいと言ったのを断って、ここへ来た。妹に会うためではない。あの子を気遣うなら、とうに声をかけているはずだ。先輩が気にしているのは、あの子の後ろに立っているもののほうだ。
そうに違いない。
先輩は妹の体を気にする言葉をかけていた。けれど目はずっとあの男の顔を見ていた。名前を呼んだ。腕を見せろと言って、割り込まれて、それから黙った。横を通り過ぎるときには、苦々しい顔をしていた。
ヒサーラはティルの首の毛を掴んだ。
指が毛の奥まで入る。ティルが顔を上げてヒサーラを見た。ヒサーラは手を離さなかった。
あの人でさえ、気圧される。
それだけのものが、あの子の後ろに立っている。
――やっぱり、あれはあの子のところにいるべきじゃない。
ヒサーラは踵を返した。
死霊術科の校舎の地下へ向かう。実験室では、精神と魂を扱う術を間近で見られる。
自分は召喚術科であって、死霊術は専門ではない。それでも、精神と魂の術だ。私の求めているものがあるかもしれない。
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ナヤリス・ジャクターの研究室は召喚術科の校舎の四階にある。
扉を叩くと、中から返事があった。
入ると、部屋の半分が書棚で埋まっていた。残りの半分に机があり、その上にも本が積まれている。窓際に召喚陣の模型らしきものが置かれていて、真鍮の輪が何重にも組み合わさっていた。
「リスタースか。どうした」
ジャクターは椅子から立ち上がりかけて、シィミアの後ろを見て止まった。
ゼッドが扉を潜っている。
「先生。聞きたいことがあって来ました」
「座りなさい」
シィミアは椅子に座った。ゼッドはその横に立った。椅子は余っているが座らない。
「聞きたいことというのは」
「ゼッドが、どうしてわたしのところへ来たのかを知りたいんです」
ジャクターは立ち上がって、机の上の本を一冊どけた。
「本人に聞いたかね」
「聞きました。わたしが喚んだから、としか言いません」
「そうだろうな」
「先生なら分かりませんか。目録にないなら、どこかに記録があるとか」
「目録や記録に、喚ばれた理由が載っていると思っているのかね」
ジャクターは椅子へ戻って腰を下ろした。
「召喚に応じた理由は、召喚に応じた本人にしか分からない」
「それは……」
シィミアは膝の上で手を握った。
そこで終わるだろうとは思っていた。だが、ジャクターは話を続けた。
「だがちょうどいい、聞こうと思っていたことがあるのだが」
ジャクターが机の引き出しを開けた。
中から薄い冊子を出す。表紙の紙が茶色く変色していて、綴じ紐が新しいものに替えてあった。
「今朝の実習で、君の召喚獣が言ったことがある。術式を腕の中へ留めておく、という手順だ」
ジャクターはゼッドを見上げた。
「あれをもう一度聞かせてくれんか」
「効率が悪いのだろう」
「悪くて構わん」
「教えたところで、お前たちの術では使えん」
「使えるかどうかは、聞いてから判断する」
ゼッドは黙った。
それから、面倒そうに口を開いた。
「腕の中に道を作る。道の内側に術式を貼りつけて、出口を閉じる。閉じておけば漏れない。主が思えば開く」
「その道は、何で作るのかね」
「主の魔力だ。他に何がある」
「術者本人の魔力で経路を作るのか。召喚獣の側からではなく」
「両方だ。片方では持たん」
ジャクターが冊子を開いた。
頁を繰って、途中で止める。それから机の端にあったペンを取った。
「ここに、腕の中へ道を一本通す記述がある。行き先は契約だと書いてある。だが、それだけだ。魂については一言もない」
「わざわざ書く程のことではなかったのだな。当然、道は魂にも届く」
「契約へ通した道が、魂にも届くのかね」
「契約の先に魂がある。同じところだ」
「……同じところ」
ジャクターが冊子へ何かを書きつけた。
「閉じるというのは、外との縁を切るということかね」
「切らん。切ったら主に届かん」
シィミアは二人の顔を交互に見ていた。
言葉は聞き取れる。道、契約、魂。どれも知っている言葉だった。ただ、それが何と何を繋いでいるのかが分からない。
シィミアは椅子から身を乗り出して、ジャクターの手元の冊子を覗き込んだ。茶色くなった紙に細かい字が詰まっている。古い綴りで、半分も読めなかった。
顔を上げると、ゼッドの目が窓際の召喚陣の模型のそばへ動いていた。そこには何もない。ゼッドは黙ったまま、何かを目で追っているように見えた。
ジャクターが冊子へ書き込みをしている。書いては顔を上げ、同じことを何度も聞き直していた。
ゼッドは立ったまま答えている。面倒そうではあるが、拒んではいない。
シィミアは自分の右腕を見た。
今朝、ここに道が通っていたらしい。熱かったのは覚えている。
契約の先に魂がある、とゼッドは言った。シィミアは右手を握ってみた。手の甲の印から肘へ、肘から肩へと、さっき聞いた道筋を頭の中でなぞる。何も起きない。
ジャクターのペンが長く紙の上を走って、話が途切れた。
シィミアは冊子の古い綴りへもう一度目をやった。今の術とは組み方が違う、と今朝ゼッドは言っていた。
「先生。ゼッドがわたしのところに来たのって、こういう古い術と関係があったりしませんか」
ジャクターが冊子から顔を上げた。
「それはない。君が使ったのは講堂の床の陣だ。あれは今の術式で組まれている。古い術とは組み方がまるで違う」
ジャクターはそれだけ言うと冊子へ視線を戻した。ペンで何かを書きつけてから、またゼッドを見上げる。
「では、その道で通したものを、主の側はどう受け止める」
ゼッドは答えなかった。腕を組んで、机越しにジャクターを見下ろしている。
「老いぼれ。召喚術は召喚術だ。今のも古いのも根は繋がっている。まるで違うなどと、よく言い切れたものだな」
ゼッドは組んでいた腕を解いた。
「それに、主の問いは一言で切り捨てておいて、自分の問いには答えろと言うのか。オレ様が答えてやる理由はもう無い。帰るぞ」
ゼッドの手がシィミアの肩に置かれた。
ジャクターのペンが止まった。ジャクターは冊子を閉じずに脇へ寄せて、シィミアのほうへ向き直った。
「……すまん、リスタース。君の問いを一言で片付けた。言い切ったのも早かった。夢中になると周りが見えなくなるのは、昔からの悪い癖でな」
シィミアは肩の手を見上げた。
「いいよ、続けて」
「主の問いは片付いていない」
「わたしの腕の話なんでしょ。聞いても分かんないけど、聞いてたいの」
ゼッドはシィミアの顔を見た。しばらく見てから、肩から手を離した。
「……主がそう言うなら」
ゼッドはジャクターへ向き直った。
「受け止めさせるために道を作る。他に何がある」
「……なるほど。古い術式の組み方はそうなっているのか」
ジャクターは冊子へ細かく書きつけてから、また顔を上げた。
「それと、さっきの話だ。今の術と古い術の根が繋がっているというのは、どこで繋がっている」
シィミアは膝の上で手を組んで、二人の話を聞いていた。
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日が傾きかけた頃、シィミアは椅子から立ち上がった。
ジャクターが冊子から目を離した。
「リスタース。また話を聞かせてもらえんか。今日の続きを」
ジャクターが見ていたのは、ゼッドではなくシィミアの顔だった。
「わたしに言われても、答えるのはゼッドです」
「だから君に頼んでいる」
シィミアは横のゼッドを見た。ゼッドは腕を組んだまま、シィミアを見下ろしている。
「主が決めろ」
シィミアは少し考えてから、ジャクターに向き直った。
「……今日みたいに、わたしの話もちゃんと聞いてくれるなら」
「肝に銘じよう」
シィミアは研究室を出た。
ゼッドが後ろから出てくる。扉が閉まる直前、中でジャクターが冊子の頁を繰る音がした。
階段を下りる。四階から三階までの間は窓がなく、壁の魔導灯だけが点いていた。
「長かった……」
「お前が聞きたいと言ったからだ。あの老いぼれ、日が傾くまで離さなかった」
シィミアは階段の途中で足を止めた。
「あれだけ聞いてても、わたしには分からなかった」
ゼッドが二段上で止まった。
「分かる必要はない」
「わたしの腕の話だったのに」
シィミアは自分の右腕を掴んだ。
肘の上を制服の上から握る。今朝ここを持ち上げられて、肩から指先までを一本にしろと言われた。そのときも、何をされているのか分かっていなかった。
「三回も通したって言ってたよね。何が通ったのかも、わたしは分からなかった」
「知る必要がない」
「……それじゃ、わたし、ただの道具みたいじゃん。必要なのは召喚獣だけじゃん。そんなの」
シィミアは絞り出すような声で言った。
ゼッドが階段を一段下りて、シィミアと同じ段に立つ。距離が詰まった。
「知りたいなら、教える」
ゼッドがシィミアの右手を取った。
手首を掴んで、持ち上げる。自分の指を手の甲の召喚印へ置いた。
「ここから入る」
指が印の中心を押した。
「入って、腕を通る」
指が手首から肘へ上がっていく。制服の袖の上を、ゆっくりとなぞっていった。
「肘で一度溜まる。ここが一番熱い」
「……知ってる」
「肩まで上がって、背へ抜ける」
指が肘から肩へ届いた。
そこで止まらずに、指は肩から首の付け根へ回った。
シィミアの息が止まった。
ここは階段だ。逃げる場所がない。
魔導灯の下で、制服の襟のすぐ内側に指が触れている。
「ちょ、ちょっと」
「動くな。まだ途中だ」
「そこ首!」
「首も通る」
ゼッドの指が首筋を離れて、シィミアの後頭部へ回った。
掌が頭を包んだ。
「ここまで来て、止まる」
「……」
「お前が何かを思えば、ここから戻って腕の先まで行く。それだけの話だ」
ゼッドの手が離れた。
シィミアは動けなかった。
手の甲の印も、肘も、肩も、首も、頭も、全部同じ熱さで残っている。今朝のような魔力の熱ではない。通っていないのに熱い。
「分かったか」
「……分かってない」
「どこがだ」
「全部」
シィミアは両手で顔を覆った。覆ってから、覆った手が熱いことに気づいて下ろした。下ろしても顔が熱い。
ゼッドはそれを見下ろしている。
「顔が赤い」
「階段だから」
「階段は関係あるまい」
「あるの!」
シィミアは階段を駆け下りた。
三段下りたところで足が滑りかけて、腰を掴まれた。掴まれてそのまま抱え上げられる。
「だから! そういうのを!」
「転ぶからだ」
「下ろして」
ゼッドは三階まで下りたところで足を止めた。
シィミアを抱えたまま、廊下の窓のほうを向いている。
「腹が減っているのだろう」
「なんでそうなる!?」
「足がもつれるのは力が出ていないからだ。力が出ないのは食っていないからだ」
「階段を駆け下りただけでしょ」
「昼はあれだけでは足らんだろう」
ゼッドは窓へ歩き出した。
シィミアは自分が抱えられたままであることを思い出した。
「ちょっと。下ろしてって言ってるんだけど」
「売店はどこだ」
「北棟だけど、だから下ろして」
ゼッドが片手で窓を押し開けた。
外の風が入ってくる。窓の向こうに北棟の壁がある。隣に建っているとはいえ、間に中庭を一つ挟んでいた。
「向かいの棟へ跳ぶ。掴まっていろ」
「跳ぶって何!」
「階段より近い」
「届くわけないでしょ、そんなの!」
ゼッドが窓枠へ足をかけた。
シィミアはゼッドの装束を掴んで目を閉じた。閉じた直後に体が浮いた。
風が耳の横を通っていく。着地の音がして、体が一度沈んだ。
目を開けると、向かいの北棟の三階の廊下だった。
シィミアは振り返った。開いたままの窓の向こう、中庭を挟んだ先に、さっきまでいた校舎の窓がある。
「……なんで飛ぶの」
「すぐそこだからだ」
シィミアは腕の中で身をよじった。ゼッドが手を離さない。
ゼッドはシィミアを抱えたまま歩き出した。
廊下の先を見て、途中で足を止める。それから引き返して、反対側の端まで歩いた。
「無い」
「何が?」
「売店だ。この階にあったはずだ」
シィミアは腕の中から廊下を見回した。
並んでいるのは講義室の扉ばかりだった。北棟の三階に売店があったことなど、入学してから一度もない。
「売店は一階だよ」
「以前は三階にあった」
ゼッドは眉を寄せた。
「階を一つ丸ごと動かすとは、何を考えている」
「いつの話をしてるの」
「そう言われても、オレ様にとってはこの前だ」
ゼッドはまた窓へ向かった。
「一階だな」
「待って待って。今度こそ階段で」
窓が開いて、軽く風が吹き込んだ。
シィミアはゼッドの装束を掴み直して、目を閉じた。
落下の浮遊感を一瞬感じたと思ったら、外にいた。たった今出てきた窓が上に見える。
「……死ぬかと思った」
「三階程度で」
「人間はそうじゃないの!」
シィミアは腕の中で身をよじった。ゼッドが手を離さない。
「下ろしてってば」
「足がもつれる」
「もつれないから!」
シィミアは下ろされた。
下ろされてから、自分の髪が風で散らばっていることに気づいた。食堂で編んでもらった形が崩れている。
シィミアは毛先を手で押さえた。
「……入り口、こっち」
シィミアは歩き出した。
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売店は北棟の一階の奥にあった。
夕食前の時間で、棚の前には生徒が何人か残っていた。ゼッドが入ると、その全員が棚から離れて壁際へ寄った。
ゼッドは棚を一通り眺めてから、砂糖のかかった焼き菓子を四つ取った。パンや干し肉の並んだ段には目もくれなかった。ゼッドが払う素振りも見せないので、代金はシィミアが払った。
寮の自室へ戻ると、ゼッドは机の上へ紙包みを置いた。教本の上に直接置かれたので、シィミアは慌てて本を引き抜いた。
包みを開く。掌に収まるくらいの焼き菓子が四つ並んでいた。
「なんで菓子なの。腹が減ってるって言うなら、パンでよかったでしょ」
「女は甘い物が好きなのだろう」
シィミアは顔を上げた。
ゼッドは机の横に立っている。当然のことを言ったという顔だった。
「誰が言ったの、そんなこと」
「決まっている」
ゼッドはそれ以上言わなかった。
シィミアは菓子を一つ摘まみ上げて、口へ運んだ。
砂糖が舌に当たって、それから焼いた生地の味がした。中に果実の煮詰めたものが入っている。
「……おいしい」
「そうか」
ゼッドは満足そうに頷いた。
それから、シィミアの横へ屈み込んだ。目の高さが並ぶ。
「もう一つ食え」
「まだ一つ目が」
「食い終わったら次だ」
「見張らないでよ」
シィミアは椅子ごと横を向いた。
背中に視線が張りついている。昨日の寝台と同じだ。この男は主が何かを口に入れている間、それを見ていることを務めだと思っている節がある。
シィミアは二つ目を摘まんだ。
摘まんでから、手を止めた。
「あんたの分は」
「オレ様は要らん」
「四つもあるんだけど」
「足りなければまた買ってくる」
「そうじゃなくて」
シィミアは菓子を半分に割った。
割った片方をゼッドへ差し出す。
「はい」
ゼッドが手を出さなかった。
「主が食うものだ」
「わたしが分けたの。いいから受け取って」
ゼッドはシィミアの手の中の菓子を見た。
それから、指で摘まんで受け取った。口へ入れて、噛む。
「甘いな」
「そりゃ、お菓子だもん」
「舌が痺れる」
「大げさ」
ゼッドは残りを飲み込んだ。
それから、シィミアの口元に目を留めた。
「まだ残っている」
「なに――」
ゼッドの親指がシィミアの唇の端に触れた。
砂糖の粒を拭って、離れる。
シィミアは固まった。
昨日の食堂と同じ動作だった。あのときは布だった。今は布がない。
「……布使ってよ」
「持っていない」
「持ってきてよ」
「覚えておく」
ゼッドは立ち上がって、定位置へ戻った。扉のほうを背にして立つ。
シィミアは三つ目に手を伸ばして、やめた。
口の端が熱い。砂糖はもう無い。無いのに、そこだけ触られた感じが残っている。
シィミアは包みを閉じて、机の端へ寄せた。
「残りは明日にする」
「食え」
「明日にするの」
「なぜだ」
「……いいから」
シィミアは教本を開いて、顔を伏せた。
文字が頭に入ってこない。さっきから同じ行を何度も読んでいる。
背中の視線は動かなかった。




