第4話 同室の一夜
部屋の扉を閉めると、急に静かになった。
二人部屋で窓際に机が二つ、壁際に寝台が一つ。寝台は上下に段が分かれていて、上がシィミア、下がリシャだった。下の段は今日から空いている。
シィミアは鞄を机へ置いて、息を吐いた。今日は長かった。
「もう寝る」
シィミアは梯子へ足をかけて、上の段へ上がった。靴は下で脱いである。
寝具が沈んだ。
シィミアが振り返ると、ゼッドが上の段へ乗り上げてきていた。装束の裾が枕の上まで来ている。
「待って待って待って」
シィミアは掛布を掴んで壁際まで下がった。
「なんで上がってくるの」
「主が寝るのなら、オレ様もここだ」
「下が空いてる」
「断る。顔が見えん」
「じゃあ狭いから。見て、わたしの寝る場所がもう残って――」
板の割れる音がした。
ゼッドの膝が沈んだ。敷布ごと下へ抜けて、膝から先が寝台の底へめり込んでいる。板が裂けて、めくれた縁が外側へ反り返っていた。
シィミアは掛布を掴んだまま固まった。
ゼッドが膝を引き抜く。板の穴が残った。人の頭ほどの大きさで、縁が割れたまま欠けている。穴の向こうに、リシャが使っていた下段の寝具が見えた。
シィミアは穴を見て、ゼッドを見て、もう一度穴を見た。
「なにしてくれてんの」
「板が薄い」
「あんたの膝が重いの」
「そうとも言うな」
ゼッドは自分の膝を見た。それから穴を見た。
「……なるほどな」
ゼッドは寝台から下りた。
「分かればいいの」
シィミアは穴の縁を指でなぞった。板が薄い。これは明日、寮母へ言いに行かなければならない。何と言えば伝わるのか、まるで見当がつかなかった。
「こんな脆い寝台に主を寝かせるわけにはいかない」
「あんたみたいなデカい男が寝るのは想定外なのよ……ここ、女子寮」
シィミアは掛布と枕を抱えると、梯子を下りた。
「どこへ行く」
「下で寝るだけ。あんたのせいでしょうが」
シィミアは下段へ枕を放った。リシャの寝具はもう運び出してある。板の上に敷布だけが残っていた。掛布を広げて、その上へ潜り込む。
上段の底板を見ると、さっきの穴が開いていた。
――リシャにまた笑われるだろうな、これ。
彼女の大笑いする姿が容易に想像できる。わたしのせいではないのに、不本意だ。
そんなことを考えながら、シィミアは壁のほうへ寝返りを打った。紐を引いて魔導灯を落とす。部屋が暗くなった。
目を閉じた。
三十を数えたあたりで、目を開けた。
見られている。
背中を向けているのに分かる。寝台のすぐ横にいるのが、気配で分かる。
シィミアは寝返りを打った。
ゼッドの顔が目の前にあった。
下段の高さに合わせて床へ膝をつき、枠へ片手をかけて、中を覗き込んでいる。顔が近い。段の中は逃げ場がなく、壁との距離は掛布一枚分しかなかった。
「なにしてるの」
「主の寝顔を見ている」
「なんで見る必要があるのか聞いてるんだけど」
「主が寝ている間の、召喚獣の務めだ」
「寝顔を見なくても、近くにいればいいでしょ!」
シィミアは上体を起こした。壁へ背中を預けて、膝を抱える。眠れるわけがない。
「あっち向いてて」
「断る」
「目の前で見られてると寝られない」
「これでも譲歩をしている。本来なら添い寝をするつもりだった」
「そっ……!?」
シィミアは掛布を頭までかぶった。
布の中が一気に暑くなる。顔が熱い。たぶん真っ赤になっている。暗くてよかった。
しばらくそのままでいた。ゼッドが動く気配はない。
シィミアは掛布を目の下まで下ろした。
窓の外で風が鳴っている。
シィミアは膝を抱えたまま、上段の底板を見た。眠気はあるのに、目が冴えている。今日一日で起きたことが多すぎた。
「ねえ」
「なんだ」
すぐ横から声が返ってくる。
「聞きたいことがある」
「言え」
シィミアは暗がりの中のゼッドを見た。
講堂で片膝をついた。手の甲へ口づけをした。何でも命じろと言った。抱え上げて、笑った相手を消そうとした。食堂で匙を持って、頬を拭いた。廊下で肘を掴んで、袖を握らせた。
全部、喚び出してから半日のうちに起きている。
「あんた、なんでわたしにあんなことするの」
「あんなこととは」
「全部。手にキスしたり、抱き上げたり、食べさせたり」
「主だからだ」
「他の召喚獣はそこまでしない」
「他と比べてどうする」
「比べるでしょ。今日一日で何回悲鳴が上がったと思ってるの」
ゼッドは少し黙ってから、口を開いた。
「召喚獣の力は、術者へ向ける情の深さに比例して増す」
「なにそれ」
「膂力も、術の出力も、傷の塞がる速さも、一様に上がる。好意と呼べる程度で二割から三割。それが最低限だ。古い時代に幾度も検証されている」
シィミアは掛布の端を握った。
「情のない召喚獣は、最初から二割を捨てて戦うことになる。合理的でない」
「……つまり」
「オレ様は自分に術をかけた。お前を好きになるようにな」
部屋が静かになった。
風の音だけが窓の外で続いている。
「かけたって、いつ」
「陣の上だ。お前が手を挙げた直後に」
シィミアは光を思い出した。装束の隙間から線が走って、胸の中心へ消えた。床の陣が一度脈打った。教師が息を呑んだ。あの時だ。
「みんな見てたじゃん、あれ」
「見せた」
シィミアは掛布を握る手に力を入れた。
「じゃあ、あれは……全部」
「術だ」
「術で、好意を」
「そうだ」
あっさりしていた。隠す気がまるでない。
シィミアは膝を抱え直した。頭の中で、今日一日が順番に並び直していく。片膝も、口づけも、匙も、全部同じ一本の線の上にある。効率という線だ。
「二割から三割って、それだけのために?」
「二割は大きい。最低限だ。場合によってはさらなる向上が見込める」
シィミアは言い返す言葉を探した。探しているうちに、別のことが引っかかった。
「その術って、どうやったら解けるの」
「解かん」
「解かないって、じゃあ一生そのまま」
「契約が切れれば勝手に戻る」
シィミアの膝の上で、掛布が止まった。
「手続きは要らん。契約が切れた時点で、術は自然に元へ戻る」
ゼッドは膝をついたまま、こちらを見ている。
「元って」
「お前を喚ぶ前の状態だ」
「わたしのことを、どうでもよくなる?」
「そうなるな」
シィミアはゼッドの顔を見た。暗くて目の位置しか分からない。
「それ、嫌じゃないの」
「なぜ嫌がる」
ゼッドは心底不思議そうに言った。
「術は術だ。かけたものが戻るだけの話だろう」
シィミアは何も言わなかった。
言うことがないわけではない。ただ、何を言えばいいのかが分からなかった。嫌がれと言うのも変だし、それでいいと言うのも違う。
膝を抱えたまま、掛布の端を指で折った。
「……ふうん」
「納得がいかんか、なぜだ」
「知らない」
シィミアは横になって、壁のほうを向いた。掛布を肩まで引き上げる。
「人間は、皆そう考えるものなのか」
ゼッドはぽつりと呟いた。
「何か言った?」
「……いや」
「もう寝るから」
「そうしろ」
ゼッドは動かなかった。膝をついたまま、寝台の横にいる。
背中に視線を感じる。さっきまでと同じ位置から、同じように見ている。
術でそうなっているだけなのだと、今は知っている。
知っているのに、背中が熱い。
シィミアは掛布の中で目を閉じた。
ゼッドは扉のほうへ一度だけ目をやった。
扉の下の隙間に、指の先ほどの明かりがある。廊下の側から差し込んでいるのではない。こちら向きに、じっと灯っている。
消してやってもよかった。だが今日、何もするなと言われている。
ゼッドは主の寝顔へ視線を戻した。
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廊下の突き当たりにヒサーラ・メネトが立っていた。
壁に背中を預けて、目を閉じている。掌の上に、指の先ほどの炎が浮いていた。
あの召喚獣のことが、頭から離れなかった。
講堂で微笑まれた。あの顔のまま殺されかけた。その同じ顔が、すぐ後であの子へ向けられていた。
何なのか知りたい。どういう存在で、なぜあの子を選んだのか。
直接聞ける相手ではない。あれはあの子の召喚獣だ。近づけばあの子が横にいる。恥をかかされているんだから、こちらから話しかけられるものか。
それに、目録にも載らない正体不明の召喚獣だ。同じ寮で寝起きすることになった以上、どういうものなのか確かめておくのは当然だ。
ヒサーラはそう考えて、消灯の後に炎を扉の下へ送り込んだ。
ヒサーラの召喚獣は炎の毛並みを持つ上級獣だった。その毛の一本を分けて灯した炎は、空気の震えを拾う。扉の下へ送り込んだ炎と手元の炎は、離れても魔力の糸で繋がったままになる。向こう側で交わされた声の揺らぎが、そのまま手元の炎の揺らぎになって返ってくる。
炎は震えている。一定の間隔ではなく、不規則に、何かをなぞるように揺れていた。
掌の上の揺らぎが、そのまま言葉になって頭の中へ入ってくる。
――術をかけた。好きになるように。
ヒサーラの指が動いた。炎が大きくなりかけて、慌てて抑える。
――契約が切れれば、勝手に戻る。
目を開けた。
魔導灯は全て落ちている。廊下に人影はない。
ヒサーラは掌の炎を握り潰し、壁から背を離した。
転科の申請書は、机の抽斗に入れたままになっている。書き終えて、出すだけになっていた。
死霊術科へ移るつもりでいた。
あの学科にはメイミア・リスタースがいる。
首席で、学科の誰よりも早く上級の死霊を扱えるようになった人だ。そして、今まで見た中で一番美しい人だった。
一度だけすれ違って、道を譲られたことがあった。近くで見ると、目の色が淡かった。こちらを見て、何も言わずに半歩下がる。その所作が静かだった。綺麗な人だと思った。思ったときには、もう息が止まっていた。
あの人と同じ場所で学べるなら、召喚術科の一番を捨てることに未練はなかった。
ただ一つだけ、どうしても腑に落ちないことがある。
あの人には妹がいる。
同じ学園にいて、何をやっても下から数えたほうが早い。あの人の妹なら、それ相応であるべきだった。あの人が気の毒だと、ずっと思っていた。
その妹が、今日になって学年で一番の召喚をした。
あの子の実力ではない。あの召喚獣が勝手に応じただけだ。しかもあの召喚獣は、自分にかけた術であの子を好きになっている。
あの術さえなければ、あの召喚獣は目を覚ます。目を覚ませば、誰に従うべきかくらい分かるはずだ。学年で一番の召喚をしたのは自分だ。契約など、結び直せばいい。
わたしは正しくないことを正すだけだ。
ヒサーラは申請書を明日破ろうと決めた。
召喚術科に残る。
損だとは思わなかった。今日ようやく、残る理由ができた。




