第3話 召喚と死霊
寮の部屋へ戻ると、リシャは扉を閉めるなり自分の寝台の下へ手を突っ込んだ。奥から空の鞄を二つ引きずり出して床に並べる。
「私、三階の端に移るね」
シィミアは靴を脱ぎかけたまま顔を上げた。
「待って、なんでリシャが移る話になってるの」
「だって男の人と同じ部屋で寝るの、私が落ち着かないもん。三階の端は一人部屋で狭いから、その人と二人じゃ入らないでしょ。私が出るのが早いよ」
リシャは鞄の留め具を外しながら言った。
シィミアは口を開きかけた。言い返す言葉が出てくる前に、リシャは棚の衣類を鞄へ詰め始めていた。
「だから、移動は今日のうちにやっちゃわないとね」
リシャはそう言いながら、シィミアの傍らにいるゼッドに目を向けた。
シィミアもそちらを見た。
ゼッドはリシャを見ていない。話が自分のことだとも思っていない顔で、シィミアだけを見下ろしている。
――あんたのせいなんだけど。
顔を見ているだけで腹が立ってきた。これから友人を追い出すことになるというのに。他人事みたいな態度でいるのが許せなかった。
「わたしが移る」
シィミアは棚から自分の本を下ろした。二冊、三冊と床へ積んでいく。
「シィミア?」
リシャの手が止まった。
「狭いって言ったでしょ。その人と二人じゃ入らないって」
「二人でも入るって! わたしの荷物、これだけだし」
シィミアは自分の棚を指した。教本が並んでいるだけだ。リシャの側には鍋まである。
「……たしかに少ないけど」
「じゃあ決まり」
シィミアは寝台の下から鞄を引き出した。引き出しかけたところで、腕を掴まれた。
「待て。なぜ主が追い出される」
ゼッドが心底納得できないという顔をしていた。
「追い出されてない。自分で行くって言ってる」
「同じことだ」
「同じじゃない」
「オレ様がいるせいで部屋を出るのだろう。ならば話は簡単だ。オレ様が主と同じ寝台で寝ればいい。寝台が一つ空く」
シィミアは振り返って、持っていた鞄を取り落とした。
「ちょっ……無理無理無理、なに言ってんの」
顔が熱い。喉から先が言うことを聞かない。
「なんでそうなるの、そんなわけないでしょ、なんでそこに行き着くの」
「解決するだろう」
「全然解決してない!」
シィミアは寝台のほうへ両手を突き出した。何を否定しているのか自分でも分からないまま、とにかく遠ざけようとしている。
「ありえない、絶対ない、そういうのじゃないから」
同じ寝台で寝るのは、そういう仲になった二人がすることだ。順番があって、段階があって、最後にそこへ辿り着く。
向こうはそういうつもりではない。それは分かっている。分かっているのに、こちらだけが先の段階まで想像してしまった。
「どういうのだ」
「説明させないで!」
「オレ様は主の不利益を減らそうとしている。それのどこが不都合だ」
「だから! それが!」
シィミアの言葉が続かない。
「ねえ、ちょっと」
リシャが畳みかけていた衣類を置いた。
ゼッドがそちらを見る。
「主が嫌がることを主のためだって言って押し通すの、召喚獣としてどうなの」
「……っ」
ゼッドは何かを言おうとして、黙った。
シィミアはまだ顔が熱いまま、自分の手を下ろした。今のは、自分が言うべきことだった。言おうとして、言葉にならなかった。
「……今のは、わたしが言いたかったやつ」
「代わりに言っといたよ」
リシャは衣類を拾い上げて、また畳み始めた。
シィミアは息を整えてから、床の鞄を拾い上げた。話は何も進んでいない。
「とにかく、わたしが三階に移る。それでいいでしょ」
「許容できん」
「なんで」
「主の拠点が狭くなる」
「じゃあどうしろっていうの」
シィミアは寝台の縁へ腰を下ろした。
「同じ寝台は論外。わたしが移るのも駄目。じゃあリシャが移るしかないでしょ。わたしはそれが一番嫌なんだけど」
「そこは私が決めることだよね」
リシャが言った。
シィミアが振り向く。
リシャは紐の端を口にくわえて、包みを縛っているところだった。くわえたまま器用に喋る。
「同室だから知ってるでしょ。私、ここでよく頭ぶつけるんだよね。寝ぼけて」
二人部屋には上下二段になった寝台が備えつけてある。リシャは下段で寝起きしていた。
リシャは上段の底を指差した。何度もぶつけているせいで、板の角に擦れた跡が残っている。
「一人部屋なら、ぶつける段がそもそもないでしょ」
「それが理由なの」
「充分でしょ」
リシャは紐を結び終えると、顔を上げた。
「シィミアが自分の分を引き受けようとするの、悪い癖だと思うよ。今回はあなたのせいじゃないでしょ。学則に人型の想定がなかっただけ」
シィミアは言い返す言葉を探した。
探している間に、リシャが包みを一つ持ち上げた。
「はい、こっち持って」
「……分かった」
「素直でよろしい」
シィミアは包みへ手をかけた。
かけたところで、また腕を掴まれた。
「待て。なぜ主が他人の荷物を運ぶ」
「二回目だけど」
「何度でも言う」
「じゃあ、あんたが持てば」
シィミアはゼッドの手を振りほどくと、包みをそのまま押しつけた。
ゼッドが受け取る。
受け取ってから、自分が受け取ったことに気づいた顔をした。
「こっちも。それとその本も」
シィミアは次々に載せていく。
ゼッドは片手で二つの包みを提げたまま、本を積まれても揺れなかった。本と衣類と鍋まで詰めた包みが、重さのないように浮いている。
「落とさないでよ、それ教本だから」
「壊れんだろう」
「壊れなきゃいいって話じゃないの」
「三階の端でしょ。案内するから」
リシャが扉へ向かった。
シィミアもその後を追った。
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廊下へ出た途端、視線が刺さった。
談話室の扉が開いていて、中にいた寮生たちが一斉にこちらを向いた。
廊下の先で立ち話をしていた二人組も止まった。階段の踊り場から見下ろしている顔もある。
ゼッドは何も気にしていない。
荷物を提げたまま、悠々と歩いていく。
リシャも平然としていた。見ていた寮生の一人と目が合うと、軽く手を振っている。相手のほうが慌てて視線を逸らした。
シィミアは談話室の前で足を止めた。
中の四人が同時に目を逸らした。
誰も何も言わない。言わないまま、こちらが行き過ぎるのを待っている。
「三階の端、空いてるよね」
シィミアが聞いた。
四人が顔を見合わせた。
一番手前にいた上級生が、遅れて頷いた。
「あ、うん。空いてる、と思う」
「掃除ってどうなってるの。箒とかあるかな?」
「え、と……寮母さんに言えば、鍵と一緒に貸してくれる、はず」
「ありがと」
シィミアはそれだけ言って歩き出した。
背中で扉が閉まる音がした。
閉めたということは、その向こうでまた喋り出すのだろう。
それは構わない。
聞こえないところで喋る分には、こちらの知ったことではない。
「シィミア、強くない?」
リシャが横に並んだ。
「聞かないと分からないでしょ」
「いや、あの空気で聞くの、なかなかできないよ」
「あの空気を作ってるのは向こうだから」
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空き部屋へ向かう前に、三人は寮母のところへ寄った。
三階の端の部屋を使いたいと伝えると、寮母は鍵と掃除道具を貸してくれた。
ただし、シィミアの後ろに立つゼッドを見た瞬間だけは、完全に言葉を失っていた。
黒い装束の、どう見ても成人の男。
寮母はゼッドとシィミアを何度か見比べたが、結局何も言わなかった。
「ありがとうございます」
シィミアは鍵と掃除道具を受け取り、そのまま三階へ向かった。
三階の端の部屋は、確かに狭かった。
ゼッドが荷物を下ろすと、床がわずかに沈んだ音を立てた。
片手で運んできたものとは思えない重さだった。
「終わったぞ」
「ありがと。助かった」
リシャは包みを解きながら、感心したように言った。
「召喚獣って便利ねえ。死霊だとこうはいかないもの」
「もしかしてリシャも今日、実技?」
「うん」
リシャは指を組み合わせて、短い詠唱を唱えた。
床に薄い影が広がる。
影の中から、猫が出てきた。
灰色の、痩せた猫だった。
輪郭がわずかに滲んでいて、毛の一本一本が見えるのに、床に落ちる影がない。
「わあ」
「かわいいでしょ。ムールっていうの」
猫が歩き出した。
足が床を踏む音はしない。
歩く形をなぞりながら、部屋をゆっくり横切っていく。
積まれた荷物の前まで来て、そのまま進み、包みを通り抜けた。
布も本も動かない。
猫は何事もなかったように向こう側へ出て、窓辺で座る姿勢になった。
シィミアは床へ膝をつくと、猫のほうへ手を伸ばした。
指が輪郭を通り抜ける。
何の手応えもない。
「やっぱり、触れないんだ」
「触れないよ」
「授業では習ったけど、見るのは初めて」
「魂だけだからね。こういう普通の死霊は、物には触れないの」
リシャは荷物の紐を解きながら笑った。
「だから召喚獣みたいに、戦ったり荷物を運んだりはしてもらえない。その代わり、死霊が今できることを貸してもらうの。生きてた頃に知ってたことを教えてもらったり、この子が見たり聞いたりしてるものを、私も一緒に見せてもらったり」
ムールが窓の外を見ている。耳が動いた。
シィミアは猫を見た。
「この子は、何を知ってるの」
「ムールは昔この寮にいた猫でね。どの部屋に誰が住んでたとか、どこにネズミが多いかとか、全部」
リシャは畳んだ衣類を棚へ移した。
「人を降ろせば、その人が知ってたことを全部聞ける。事件の調べにも使うんだよ。殺された人を降ろして、誰にやられたか聞くの」
「……死霊術科がみんなに怖がられるのって、それ?」
「そう。死んだ人に聞けば分かっちゃうことって、けっこうあるから」
リシャは棚の前で振り返った。
「でも、死霊もただで力を貸してくれるわけじゃないよ。降ろすときに約束するの。あなたの悔いを晴らすから、その代わりに力を貸してください、って。それが死霊との契約。殺された人なんかは、たいてい犯人をどうにかしてやりたいと思ってるから、捕まえるって約束すれば喜んで出てくるくらい」
「……悔いが残ったものだけが死霊になるって、聞いたことがある」
「あれ、そこまで知ってるの」
「お姉ちゃんが、昔」
シィミアはそこで言葉を切った。リシャも聞き返さなかった。
「まあ、そういうこと。果たせなかったこととか、納得できなかったこととか。何もなければ、そのまま行っちゃうの」
シィミアは膝をついたまま、猫の顔を覗き込んだ。
「ねえ、あんた喋れるの」
「ムールは猫だから喋らないよ。分かることが伝わってくるだけ」
リシャも荷解きの手を止めて、猫の顔を見つめた。
「この子は寮を出たがってたみたい。外に興味があったのに、ずっと中で飼われてたから」
猫は窓辺から動かない。硝子の向こうを見ている。
リシャは棚に最後の衣類を押し込んだ。
「だから死霊術師の仕事って、降ろすことだけじゃないの。約束したとおり悔いを晴らして、送ってあげるまでが仕事。それを浄化っていう」
「送ったら、どうなるの」
「消えるよ。もう降ろせない」
リシャはあっさり言った。
「でも、それでいいの。残ってるほうがつらいんだから」
「くだらんな」
ゼッドが言った。
二人が振り返る。壁際に立ったまま、荷解きを眺めていた男は、心底どうでもよさそうな顔をしていた。
「死んだものは死んだものだ。降ろして何になる」
「何って、話が聞けるでしょ」
「聞いてどうする」
「どうって……」
「もう動かん。何もできん。物にも触れん。喋るだけだ」
ムールが窓辺で耳を動かした。
「死んだ後まで引きずり出して、悔いだの何だのと」
「じゃあ放っておけばいいって?」
「そうだ。終わったものは終わっている。話など聞いてやらずとも、強引に浄化してやればいい」
「そりゃあできるけど」
リシャが手を止めた。
「相手より強ければ、悔いが晴れてなくても力ずくで消せる。そういう浄化のしかたもあるにはあるの。ただ、こっちが強ければの話。生きてる頃に力のあった人ほど、死霊になっても強いから」
「ならば強い者がやればいい。簡単だ」
「そういう問題じゃないと思うけど」
言ったのはシィミアだった。
ゼッドが振り返る。
「ムールは、寮を出たがってるんだよね」
「そう伝わってくる」
リシャが答えた。
「なら、聞かなかったら、誰も知らないままだ」
ゼッドがシィミアを見つめて言った。
「知ったところで、猫は生き返らんぞ。外の風を感じる身体もなく外に出たとて何になる。悔いを晴らすも、強引に送ってやるのも、変わらん」
「生き返らなくても、感じる身体がなくてもさ……うーん」
シィミアは言葉を探しながら、ムールを見た。
「……でも、聞いちゃった」
「聞いたからどうした」
「聞いちゃったからには、何かしてあげたいと思う」
ゼッドはしばらく黙っていた。
「あんたにとっては無駄かもしれない。でも、わたしにとっては違う」
「……損だな」
「損じゃない」
言ってから、シィミアは口を閉じた。
同じ言葉を、今日すでに一度使っている。
講堂で、この男の腕へしがみつきながら。
ゼッドも気づいたらしい。
「……妙な主だ」
それだけ言って、また壁へもたれた。
リシャが小さく吹き出した。
シィミアが睨むと、リシャは何でもないという顔で棚へ向き直った。
その間も、猫はずっと窓辺に佇んでいた。
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部屋を出たのは、それから半刻ほど経ってからだった。
荷をほどいて本棚へ本を並べるだけのはずが、思ったより手間取った。
ゼッドが主を働かせるなとリシャに文句を言い、あんたがやったら本が傷むとリシャが食ってかかり、シィミアが二人へ交互に言い返す。
それを何度か繰り返した。
廊下は暗い。
魔導灯が半分落とされている。
シィミアは自分の部屋のほうへ歩き出し、途中で足が縺れた。
倒れる前に、ゼッドの腕が腰へ回った。
引き寄せられて、シィミアの背中がゼッドの胸へ当たる。
片腕で支えられたまま、シィミアの足は半分床から浮いていた。
顔を上げると、すぐ上にゼッドの顔がある。
「疲れているな」
「平気」
シィミアはゼッドの腕を押しのけて、自分の足で立った。
三歩進んで、また足が縺れた。
今度は肘を掴まれた。
「大丈夫でないと言え」
「言ったら何かいいことあるの」
「オレ様に嘘をつくな。すぐ分かる」
シィミアは掴まれた肘を見た。
振りほどいたところで、四歩目で同じことになる。
それは計算すれば分かる。
「……今日は魔力を使いすぎた。それだけ」
「そうだろう」
ゼッドはシィミアの手を取ると、自分の袖を握らせた。
「掴んでいろ。転ぶぞ」
シィミアは指に力を入れた。
入れてから、これは自分で決めたことだと言い聞かせた。
暗い廊下を、二人で歩いた。
角を曲がったところで、シィミアの足が止まった。
廊下の先にヒサーラが立っていた。
ヒサーラは動かなかった。
シィミアの手が、ゼッドの袖を握っている。
その一点を見ていた。
「昼間の娘だな」
ゼッドが言った。ヒサーラの肩が跳ねる。
「主に何か用か」
「ゼッド」
シィミアが呼んだ。ゼッドは聞こえていない顔で、ヒサーラへ半歩詰めた。
「……用は、ありません」
「ならばいい」
ヒサーラの背中が壁についていた。シィミアはその位置を見てから、ゼッドの袖を強く引いた。
「下がって。何もしないでよ」
ゼッドが下がり、シィミアはヒサーラのほうへ向き直った。
「今日のあれ、わたしがなんとか止めたけど」
ヒサーラの目が動いた。
「礼を言えって話じゃない。次があると困るから言ってんの。この人、わたしの知らないところで出た話も拾うから。文句があるなら、わたしに直接言って」
「……直接って、何よ」
「普通にわたしに話してくれりゃいいだけ」
シィミアはそれだけ言うと、ゼッドの袖を握り直して歩き出した。
ゼッドが横に並ぶ。
すれ違う瞬間、ヒサーラは顔を伏せなかった。
伏せずに、真正面からシィミアを見ていた。
何か言いたそうな顔だったが、口は開かなかった。
角を曲がってから、シィミアは息を吐いた。
「言わなきゃよかったかも」
「なぜだ」
「あの子、絶対いい取り方しないから」




