第六章 調停者
セフィロスとの邂逅から七日。
帝国全土で、これまでにない異変が報告され始めた。
アビスは日に日に拡大し、空は昼なお薄暗く、魔素は各地で暴走を続けている。
しかし、それ以上に人々を恐怖させたのは、世界そのものが「歪み始めた」ことだった。
昨日まで流れていた川が消え、何もなかった平原に突然古代遺跡が現れる。
村人たちは昨日の出来事を思い出せず、親子が互いの顔を忘れることすらあった。
世界の「記憶」が崩れ始めていたのである。
◆
皇帝は最後の秘匿とされる地下神殿へ、アダマンを案内した。
巨大な円形の神殿。
天井は見えず、無数の光が星空のように瞬いている。
その中央には、一枚の巨大な天秤が静かに浮かんでいた。
「これが……。」
「世界の均衡を司る天秤。」
皇帝はゆっくりと言う。
「神代より、この世界は力によって支えられてきたのではない。」
天秤へ手をかざす。
「均衡によって支えられてきた。」
左の皿には白い光。
右の皿には黒い光。
だが今、黒い皿は大きく傾いていた。
「これがアビスの正体だ。」
「……。」
「世界が壊れているのではない。」
皇帝は首を振る。
「均衡が崩れているのだ。」
◆
その時だった。
ホーリー水が強く輝く。
天秤から無数の光が溢れ、神殿中へ映像が広がった。
それは千年前の記憶だった。
◆
燃え上がる世界。
崩れ落ちる天空都市。
無数のアビス。
そして、一人の青年。
今のアダマンとよく似た姿をしている。
青年の前には、プロマシアが跪いていた。
「調停者よ。」
蟲の王は静かに頭を垂れる。
「命を喰らう役目は終えた。」
次に現れたのは、黒い翼を持つ男。
セフィロスだった。
彼もまた剣を地面へ突き立て、静かに膝をついている。
「終焉は退けられた。」
そして最後に、一人の女性が姿を現した。
白銀の鎧を纏い、蒼い涙を宿した槍を持つ戦乙女。
ヴァルキリー。
彼女は青年へ微笑みかける。
「世界を救ったのですね。」
だが青年は首を横に振った。
「違う。」
その声は悲しみに満ちていた。
「私は世界を半分だけ救った。」
◆
映像が消える。
神殿には静寂だけが残った。
「半分だけ……?」
アダマンは呟く。
皇帝は苦しそうな表情を浮かべる。
「神代の戦いでは、人類の半数が命を落とした。」
「!」
「それでも調停者は、その選択をした。」
「なぜ。」
「世界そのものが滅びるより、人類を半分失う方を選んだからだ。」
言葉を失う。
それが調停。
誰も救われない選択肢の中から、最も未来が残る道を選ぶこと。
◆
その夜。
アダマンは一人、皇城の屋上へ立っていた。
帝都の灯火は美しい。
市場からは笑い声が聞こえる。
遠くでは子どもたちが走り回っている。
「……こんな世界を。」
滅ぼせるはずがない。
その時、背後から声がした。
「迷うのは当然だ。」
振り返る。
そこに立っていたのは、蟲の王プロマシアだった。
巨大な姿ではない。
人の姿を借りた老人として現れていた。
「驚かないのだな。」
「もう驚き疲れたよ。」
アダマンは苦笑する。
老人も静かに笑った。
「セフィロスは、お前に何を語った。」
「自分は終焉ではなく、証人だと。」
「……そうか。」
プロマシアは夜空を見上げる。
「奴は嘘をつかぬ。」
「じゃあ本当に敵じゃないのか?」
「敵味方という考え方そのものが、人の都合だ。」
老人は静かに答える。
「私は生命を司る。」
「奴は終焉を司る。」
「そして、お前は均衡を司る。」
その三つが揃って初めて、世界は成り立つ。
◆
突然、ホーリー水が激しく脈打った。
預言書が独りでに開く。
新たな文字が浮かび上がる。
«調停者とは、
神の代行者にあらず。
悪魔の討伐者にあらず。
世界を救う者ですらない。»
最後の一文だけが、赤く染まる。
«世界が選べなかった罪を、
ただ一人で背負う者である。»
アダマンは預言書を静かに閉じた。
ようやく理解した。
英雄になど、なりたくはなかった。
それでも、自分しか選べない未来があるのなら。
その罪だけは、自分が背負おう。
その決意とともに、ホーリー水はこれまでになく眩しい黄金色の光を放った。
その光は帝都を越え、大陸を越え、深淵の最果てまで届く。
黒き玉座に座るセフィロスは、その光を見上げ、小さく微笑んだ。
「……ようやく、本当の調停者になったか。」
彼は静かに立ち上がる。
「ならば、最後の預言を始めよう。」
世界は、終焉ではなく「選択」の時代へと足を踏み入れた。




