終章 世界を救うという罪
帝国歴一六八七年、冬。
世界最大のアビスは、ついに帝都の上空を覆った。
昼でありながら空は夜よりも暗く、大地には黒い雪が降り積もる。
人々は祈り、神官は聖歌を捧げ、兵士は最後の剣を握り締めた。
誰もが、世界の終わりを覚悟していた。
ただ一人を除いて。
◆
アダマン・ヴェルシールドは、預言書を抱え、アビスの中心へ歩いていた。
その足取りは静かだった。
恐怖も、迷いも、もうない。
あるのは、自らが選ぶべき答えだけだった。
深淵の最奥。
漆黒の玉座には、セフィロスが待っていた。
その傍らには、人の姿となったプロマシアが静かに立っている。
「来たか。」
セフィロスは穏やかに微笑む。
「来たよ。」
アダマンもまた、静かに答えた。
誰も剣を抜かない。
誰も殺意を向けない。
ただ、世界の命運だけが三人の間に横たわっていた。
◆
「教えてくれ。」
アダマンは預言書を掲げる。
「《アポカリョープス》とは何なんだ。」
セフィロスは目を閉じる。
そして、初めて真実を語った。
「人は、この書を『終末の預言書』と呼んだ。」
「だが、それは誤りだ。」
彼はゆっくりと立ち上がる。
「アポカリョープスとは、神代の言葉で『覆われた真実を明らかにする』という意味だ。」
預言書が淡く輝き始める。
白紙だった最後の頁に、黄金の文字が浮かび上がった。
«世界は滅びによって終わるのではない。
均衡を失った時、静かに朽ちてゆく。»
アダマンは息を呑む。
これまでの預言は未来を告げるものではなかった。
世界の仕組み、そのものだったのだ。
◆
「では……。」
アダマンは問い掛ける。
「俺は何をすればいい。」
今度はプロマシアが答えた。
「選ぶのだ。」
「命を増やすことも、命を奪うことも、調停ではない。」
「どちらにも偏らぬこと。」
セフィロスが続ける。
「神は創造を司った。」
「私は終焉を司った。」
「そしてお前は、その狭間を歩む。」
「だからこそ、調停者なのだ。」
◆
その時だった。
天が砕けるような轟音が響く。
世界中のアビスが暴走を始めた。
山々が崩れ、海が逆巻き、空そのものが裂けてゆく。
ホーリー水が激しく脈打つ。
アダマンの胸に、預言書の最後の一文が響いた。
«均衡は、誰か一人の犠牲によってのみ保たれる。»
静かに目を閉じる。
もう答えは決まっていた。
「俺が行く。」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
ホーリー水を両手で包み込む。
黄金の光が世界中へ広がり、暴走するアビスを一つ、また一つと飲み込んでいく。
その代わりに。
アダマンの身体は、少しずつ光へ変わり始めた。
◆
「やめろ!」
レオルドの叫びが遠くで聞こえる。
「戻ってこい!」
帝都の人々も叫ぶ。
しかし、アダマンは振り返らない。
不思議と悲しくはなかった。
市場で笑う子どもたち。
鍛冶屋の槌の音。
夕暮れの帝都。
そして、あの日食べた帝国うなぎ。
「……へへ。」
自然と笑みがこぼれる。
「やっぱ帝国うなぎは、美味ぇや。」
その何気ない記憶こそ、自分が守りたかった世界だった。
◆
光は、やがて世界そのものを包み込んだ。
アビスは閉じていく。
黒い雪は止み、空には青が戻る。
長い冬が終わり、春の風が吹いた。
誰も気づかない。
世界を救うため、一人の調停者が消えたことを。
◆
数十年後。
帝都中央市場。
一人の少年が、屋台の主人へ尋ねた。
「おじさん、帝国うなぎって、なんで帝国うなぎっていうの?」
主人は炭火を見つめながら微笑む。
「昔な、この国を救った旅人がいてな。」
「その人は、旅の途中でうなぎを食べながら『やっぱ帝国うなぎは美味ぇや』って笑ったそうだ。」
「本当?」
「さあな。」
主人は笑う。
「ただの昔話かもしれん。」
少年は焼きたてのうなぎを一口頬張った。
その瞬間、春風が優しく吹き抜ける。
市場の喧騒の中。
誰にも見えない空の彼方で、一枚の黒い羽根と、一粒の黄金の雫が寄り添うように舞い、やがて光となって消えていった。
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預言書は、その日を最後に二度と開かれることはなかった。
だが、その表紙には、新たな文字が静かに刻まれていた。
«世界を救うとは、世界を愛し続けることである。»
それは神の言葉でも、悪魔の囁きでもない。
一人の調停者が、自らの命をもって遺した、世界への最後の祈りだった。




