第五章 深淵の片翼《セフィロス》
聖都陥落の報は、帝国中に衝撃を与えた。
白亜の神殿群は黒き炎に包まれ、千年守られてきた結界は一夜にして崩壊した。
神官たちは口々に「悪魔の仕業だ」と叫んだ。
しかし、現場から生還した者は誰一人として、悪魔を見たとは語らなかった。
彼らが見たのは、ただ一人。
黒い片翼を持つ、一人の男だけだった。
◆
皇帝は玉座の間にアダマンを呼び寄せると、一枚の古びた羊皮紙を差し出した。
「これは、神代の戦記の一節だ。」
羊皮紙には、掠れた文字でこう記されていた。
«深淵の片翼は、世界を滅ぼす者にあらず。
されど、世界が滅びる時、必ずその傍らに立つ。»
「……どういう意味ですか。」
「分からぬ。」
皇帝は静かに首を振る。
「千年もの間、誰にも解けなかった。」
アダマンは羊皮紙を見つめた。
滅ぼす者ではない。
それなのに、滅びのたびに現れる。
まるで、終焉そのものを見届ける存在。
「セフィロス……。」
その名を口にした瞬間だった。
胸元のホーリー水が熱を帯びる。
「来る。」
◆
夜空を覆っていた雲が左右に割れた。
月明かりの中、一枚の黒い羽根が静かに舞い落ちる。
続いて、もう一枚。
さらにもう一枚。
羽根は地面に触れる前に黒い霧となって消えた。
「久しいな、調停者。」
その声は穏やかだった。
振り返ると、城壁の上に一人の男が立っていた。
銀色の長髪。
漆黒の外套。
そして背から伸びる、ただ一枚の黒き翼。
深淵の片翼。
彼は争う様子もなく、ただ静かに夜景を眺めていた。
「帝都は美しい。」
彼は微笑む。
「千年前と何も変わらない。」
アダマンは剣を抜かない。
セフィロスもまた、剣には手を掛けなかった。
二人の間には、不思議な静寂だけが流れていた。
「なぜ世界を滅ぼそうとする。」
アダマンが問いかける。
セフィロスは小さく笑った。
「誰がそう言った。」
「お前は……。」
「私は一度も滅ぼすとは言っていない。」
紅い瞳が、真っ直ぐアダマンを見据える。
「世界は、すでに滅び始めている。」
「……。」
「私がいるから滅ぶのではない。」
夜風が吹き、黒い翼が静かに揺れる。
「人は均衡を失った。」
「神は世界を創ったが、永遠を与えなかった。」
「悪魔は欲望を与えたが、理性を与えなかった。」
「ならば誰が世界を裁く?」
アダマンは答えられない。
セフィロスはゆっくりと空を見上げた。
「私は終焉ではない。」
「終焉を見届ける証人だ。」
その言葉に、プロマシアの声が脳裏によみがえる。
――死もまた、世界を保つ秩序の一つ。
もし、それが真実なら。
もしセフィロスもまた、世界に必要な存在なのだとしたら。
自分は何を調停すればいいのだろう。
「迷っているな。」
セフィロスは静かに笑う。
「それでいい。」
「迷わぬ調停者など、ただの独裁者だ。」
その言葉は、まるで諭すようだった。
「だが覚えておけ。」
彼はゆっくりと剣を抜く。
漆黒の刀身が月光を受け、青白く輝いた。
「いずれ、お前は選ばねばならない。」
「一つの命か。」
「一つの国か。」
「それとも、世界そのものか。」
剣を鞘へ納める。
それだけで、空気が震えた。
「その時、お前は私を理解する。」
黒い羽根が舞い上がる。
気づけば、セフィロスの姿は消えていた。
その場に残されていたのは、一枚の羽根だけ。
アダマンが手に取ると、それは黒ではなく、深い群青色へと変わっていく。
ホーリー水がかすかに震えた。
まるで、この羽根を知っているかのように。
その夜。
預言書には、新たな一節が刻まれた。
«深淵の片翼を討つ者は、
深淵の片翼を理解せねばならない。
理解なき勝利は、新たなる滅びを生む。»
アダマンは預言書を閉じる。
その胸には、戦う理由ではなく、問いだけが残っていた。
──セフィロスは、本当に敵なのか。
その答えは、まだ誰も知らない。




