第三章 蟲の王《プロマシア》
帝都での騒乱から三日後。
アダマンは皇帝の勅命を受け、北方辺境《黒樹海》へ向かっていた。
ホーリー水によって浄化されたはずのアシドーシスが、再び各地で確認されたのである。
その発生源は、すべて北方を指していた。
そこには古くから、人の立ち入りを禁じられた森がある。
黒樹海。
陽光さえ届かず、千年を超える巨木が空を覆う禁域。
神代には神々が眠り、現在では魔物すら近づかぬ死の森と恐れられていた。
「昔は巡礼地だったらしい。」
馬を進めながら、近衛騎士団長レオルドが地図を広げる。
「巡礼地?」
「ああ。神代では生命の恵みを授かる聖域だった。しかし百五十年前、一夜にして森が黒く染まった。」
「それから誰も戻らなかった、と。」
レオルドは静かに頷いた。
「生きて帰った者は、一人もいない。」
◆
森へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
湿っている。
いや、それだけではない。
森そのものが、生きている。
木々の根は脈打ち、地面の下では無数の何かが蠢いていた。
アダマンは胸元を押さえる。
ホーリー水が熱を帯びている。
「何かいる。」
その一言に、一行は足を止めた。
静寂。
風すら吹かない。
次の瞬間。
ガサリ、と茂みが揺れた。
兵士たちは一斉に剣を抜く。
現れたのは、一匹の鹿だった。
だが普通の鹿ではない。
身体中を黒い甲殻が覆い、角は昆虫の触角のように枝分かれしている。
目は濁り、口からは黒い体液が滴っていた。
「魔獣か!」
兵士が斬りかかる。
しかし剣は甲殻に弾かれ、甲高い音だけが響いた。
鹿は苦しそうに鳴いた。
その声には敵意よりも、助けを求める悲しみが宿っていた。
「待て!」
アダマンは兵士を制した。
「斬るな!」
彼はゆっくりと鹿へ歩み寄る。
ホーリー水が淡く輝く。
黄金の光が鹿を包むと、甲殻は砂のように崩れ落ちた。
鹿は元の姿へ戻る。
振り返ることなく森の奥へ駆け去っていった。
「救えた……。」
アダマンは安堵する。
しかし、その表情を見たレオルドは険しい顔をした。
「違う。」
「え?」
「今のは、一匹だけだった。」
彼は森の奥を指差す。
「聞こえるか。」
耳を澄ませる。
最初は風の音かと思った。
だが違う。
無数の羽音だった。
ブゥゥゥゥゥ……
地鳴りのような羽音が、森全体から響いている。
◆
日暮れ頃、一行は廃村へ辿り着いた。
家屋は朽ち、井戸は黒く濁り、広場には巨大な繭がいくつも並んでいる。
「誰かいる!」
兵士が叫ぶ。
一つの繭が割れ、中から老人が這い出てきた。
いや。
老人だったもの、と呼ぶべきだった。
肌は樹皮のように硬くなり、背中からは無数の脚が生えている。
それでも瞳だけは人間のままだった。
「逃げ……ろ……。」
老人は震える声で言う。
「王が……目覚める……。」
その瞬間。
地面が揺れた。
巨木が軋む。
森の中央で、大地がゆっくりと盛り上がっていく。
それは山ではなかった。
巨大な甲殻だった。
百を超える紅い眼が、一斉に開く。
世界そのものが息を呑んだ。
「来たか。」
低く響く声。
その巨体は、まるで森そのものだった。
無数の蟲が身体を這い回り、一本一本の脚が大樹ほどもある。
それが、蟲の王。
神代より生き続ける古き生命であった。
◆
兵士たちは恐怖に震え、剣を構える。
だが、プロマシアは動かなかった。
静かにアダマンだけを見つめている。
「調停者。」
声は意外にも穏やかだった。
「久しいな。」
「俺を……知っているのか?」
「いや。」
巨獣は首を振る。
「お前ではない。」
「では誰を……。」
「初代調停者。」
森がざわめく。
「千年前、我と契約を交わした者だ。」
アダマンは息を呑んだ。
「契約?」
「我は世界を滅ぼす存在ではない。」
プロマシアは静かに目を閉じる。
「生命は増え続ければ、やがて世界を食い潰す。」
「……。」
「ゆえに我は、命を喰らう。」
その言葉に誰も反論できなかった。
「死もまた、世界を保つ秩序の一つ。」
巨大な瞳がアダマンを映す。
「調停者よ。」
「お前は、本当に均衡を望むのか。」
「それとも、人だけを救うのか。」
答えられない。
正義だけでは世界は守れない。
悪だけを滅ぼせば済む話でもない。
調停とは、どちらかを選ぶことではなく、両方を受け入れることなのだ。
その時だった。
空が裂けた。
黒い羽根が一枚、ゆっくりと舞い落ちる。
プロマシアが初めて怒りの表情を浮かべた。
「来るな。」
誰へ向けた言葉なのか。
次の瞬間、森の彼方から冷たい笑い声が響く。
「相変わらず説教好きだな、蟲の王。」
漆黒の翼が空を覆う。
深淵の片翼が、ついに姿を現した。
彼は静かに微笑み、調停者へ視線を向ける。
「ようやく会えたな。」
その一言とともに、世界は再び終焉へ向けて動き始めた。




