第二章 アシドーシス
ホーリー水を口にした瞬間、アダマンは自分の身体がどこまでも深い水底へ沈んでいくような感覚に襲われた。
音が消えた。
光が消えた。
やがて闇すら消えた。
何も存在しないはずの空間で、ただ一人の声だけが響く。
「汝、契約を受諾せし者。」
男とも女ともつかない、不思議な声だった。
「世界の均衡は崩れた。神は天より去り、悪魔は深淵より溢れ、人は己の欲望に呑まれた。」
目の前に、巨大な天秤が現れる。
一方には黄金の光。
もう一方には底の見えない闇。
闇の皿は大きく傾き、今にも世界そのものが転げ落ちそうだった。
「調停者よ。」
声は静かに告げる。
「汝は、この均衡を取り戻さねばならない。」
アダマンが問い返そうとした瞬間、世界は激しく揺れた。
◆
「目を覚ませ!」
誰かに肩を揺さぶられ、アダマンは飛び起きた。
そこは聖封殿だった。
皇帝も大神官も近衛騎士も、安堵したような表情で彼を見つめている。
「丸一日、眠っていた。」
大神官が静かに言った。
「一日も?」
身体は重かった。
だが不思議と疲労はない。
むしろ、世界のすべてが以前より鮮明に見えていた。
壁の向こうを流れる魔素。
遠く離れた鐘楼の鐘の音。
人々の微かな鼓動。
今まで感じることのなかったものが、まるで呼吸をするように伝わってくる。
「これが……調停者の力?」
皇帝は頷いた。
「お前は世界そのものと繋がった。」
その言葉の意味を理解する前に、聖封殿の扉が勢いよく開かれた。
「陛下!」
一人の騎士が駆け込んでくる。
「西の城下町が……!」
◆
帝都西区。
そこは市場と職人街が並ぶ、活気ある町だった。
しかし今、その景色は一変していた。
人々が互いに殴り合い、店は炎に包まれ、悲鳴が絶えない。
兵士たちは暴れる市民を押さえ込もうとするが、誰も彼も目は赤く濁り、まるで別人のようだった。
「何が起きた?」
アダマンが駆け寄ると、一人の老医師が叫んだ。
「水だ!」
「水?」
「井戸だ! 井戸の水を飲んだ者から狂っていく!」
アダマンは井戸へ向かう。
中を覗き込んだ瞬間、胸が締め付けられた。
水は黒かった。
墨を流したような色ではない。
光そのものを飲み込むような、底知れぬ黒。
その水面からは、ゆっくりと黒い霧が立ち上っていた。
「これが……。」
脳裏に、預言書の文字が浮かぶ。
アシドーシス。
生命を穢し、心を侵し、魔素を反転させる禁断の霊薬。
「まさか、本当に存在したのか……。」
◆
「下がれ!」
突然、一人の少女が包丁を手に飛び出してきた。
目は赤く染まり、涙を流しながら叫んでいる。
「近づくな!」
「お父さんを返せ!」
「みんな死ね!」
アダマンは動けなかった。
少女は敵ではない。
助けを求めているだけだ。
その瞬間だった。
胸の奥が熱くなる。
ホーリー水が淡い黄金色に輝き始めた。
少女の身体を覆う黒い霧が、はっきりと見える。
「これは……。」
直感だった。
アダマンは少女へ手を伸ばした。
「大丈夫。」
自然と言葉が口をつく。
「もう終わる。」
掌から黄金の光が溢れた。
黒い霧は悲鳴のような音を立て、少女の身体から引き剥がされる。
霧は空中で一つの塊となり、人の顔のように歪んだ。
「調停者ァァァ……。」
低く響く怨嗟の声。
それは生き物だった。
アシドーシスは毒ではない。
意思を持つ災厄だったのである。
黄金の光と黒い霧がぶつかり合う。
激しい閃光。
次の瞬間、霧は砕け散り、風に溶けるように消えていった。
◆
少女はその場に崩れ落ちた。
「……お父さん?」
瞳は元の色へ戻っている。
周囲でも次々と人々が正気を取り戻し始めた。
歓声が上がる。
兵士たちは剣を下ろし、人々は互いを抱きしめて涙を流した。
だが、アダマンだけは膝をついていた。
「はぁ……はぁ……。」
身体が異様に重い。
まるで何年も眠っていなかったような疲労が一気に押し寄せる。
大神官が静かに支えた。
「無理をするな。」
「これくらいで……。」
「違う。」
大神官は首を振る。
「調停の力は、お前自身の魂を燃やして発動する。」
アダマンは凍りついた。
「魂を……?」
「ホーリー水は無限の力ではない。」
老人は遠くのアビスを見つめる。
「使うたび、お前は少しずつ人ではなくなっていく。」
その言葉を聞いた瞬間。
遥か彼方、空を裂く巨大なアビスの奥で、紅い瞳が静かに開いた。
「面白い。」
深淵の片翼は微笑む。
「ようやく我が退屈を終わらせる者が現れたか。」
世界を覆う黒い雲が、不気味に渦を巻き始めた。
調停者の戦いは、まだ始まったばかりだった。




