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第一章 ホーリー水



 皇城の門は、夜明け前だというのに開かれていた。


 近衛騎士に先導されたアダマン・ヴェルシールドは、巨大な白亜の回廊を歩きながら何度も首をかしげる。


「本当に俺で合ってるんですか?」


「何度目の質問ですか。」


「五回目くらい。」


「答えも五回目です。あなた以外には考えられません。」


「だから、その根拠を聞いてるんだけど。」


 騎士は足を止めることなく答えた。


「預言書が、あなたの真名を記したからです。」


「真名?」


「人が生まれながらに持つ、魂の名です。偽ることも、書き換えることもできません。」


 アダマンは思わず笑った。


「俺、ただの技師だぞ? 剣なんて子どもの頃に木刀を振ったくらいだ。」


「調停者に必要なのは剣の腕ではありません。」


「じゃあ何だ?」


「選ばれることです。」


 その言葉に、アダマンは返す言葉を失った。


     ◆


 皇城最深部。


 七重の封印で閉ざされた「聖封殿」。


 巨大な扉が静かに開かれる。


 中には誰もいない。


 祭壇の中央に、一つの水晶の器だけが置かれていた。


 器の中には、透き通る水が満たされている。


 だが、その水は揺れていた。


 風もないというのに、生き物のように脈動している。


「これが……。」


 アダマンは息を呑んだ。


「《ホーリー水》……。」


 祭壇の奥から、一人の老人が姿を現す。


 帝国皇帝レグナス七世。


 齢八十を超えてなお、その眼光は若き戦士のように鋭かった。


「アダマン・ヴェルシールド。」


「は、はい。」


「近くへ。」


 祭壇の前に立つと、不思議なことが起こった。


 それまで静かだったホーリー水が、ゆっくりと光を放ち始めたのである。


 淡い黄金色の輝きは次第に強さを増し、水面には文字が浮かび上がる。


 誰にも読めなかった神代文字。


 だが、その瞬間だけはアダマンにも意味が理解できた。


«我は魂を映す鏡。

我は命を繋ぐ器。

我を飲む者は調停者となり、

世界の均衡をその身に宿す。»


 最後の一文だけが、ひときわ強く輝いた。


«されど、その代償として、

汝の魂は永遠に我と結ばれる。»


 文字が消える。


 同時に、ホーリー水は静寂を取り戻した。


     ◆


「……飲め、と?」


 皇帝は静かに頷く。


「そのために、お前を呼んだ。」


「ちょっと待ってください。」


 アダマンは頭を抱えた。


「つまり俺は、この得体の知れない水を飲んで、魂を預けて、世界を救えってことですか?」


「そうだ。」


「断ったら?」


「別の者を探す。」


「いるんですか?」


「いない。」


「じゃあ断れないじゃないですか。」


 皇帝は苦笑した。


「その通りだ。」


 聖封殿に、小さな笑いが響く。


 その笑いは、あまりにも人間らしかった。


     ◆


「一つだけ教えてください。」


 アダマンは真剣な表情で皇帝を見つめる。


「なぜ俺なんです?」


 皇帝は少しだけ目を伏せた。


「余にも分からぬ。」


「え?」


「預言書は理由を語らない。ただ、選ぶだけだ。」


 老人はゆっくりと預言書を開く。


 そこには新たな一節が浮かんでいた。


«調停者とは、

力ある者ではない。

正しき者でもない。


滅びゆく世界を前にして、

なお人を信じられる者である。»


「昨日、市場へ寄ったそうだな。」


「……え?」


「帝国うなぎを食べたそうじゃないか。」


 アダマンは思わず吹き出した。


「それが何か?」


「屋台の主人は金を受け取り損ねた。」


「えっ!?」


「お前は皇城への呼び出しを気にするあまり、代金を払わず立ち去った。」


「うわぁぁぁ!」


 顔が真っ赤になる。


「あとで謝りに行きます!」


「その後、お前は気づいて戻ろうとしていた。」


「……はい。」


「だが近衛騎士に急かされ、戻れなかった。」


 皇帝は穏やかに笑う。


「預言書は、その心を見たのだ。」


 アダマンは言葉を失った。


「世界を救う者とは、誰かを傷つけぬよう振る舞える者だ。完璧な英雄ではない。過ちを悔い、償おうとする者こそ、調停者にふさわしい。」


 長い沈黙が流れる。


 やがてアダマンは祭壇へ歩み寄った。


 黄金色の水面には、自分の顔が映っている。


「……分かりました。」


 器を両手で持ち上げる。


「俺にしかできないなら、やります。」


 そして静かに、《ホーリー水》を口にした。


 その瞬間。


 眩い黄金の光が聖封殿を包み込み、世界中のアビスが一斉に脈動した。


 遠く深淵の玉座で、黒き片翼の男がゆっくりと目を開く。


「契約は結ばれたか。」


 彼は静かに笑う。


「ようこそ、調停者。」


 世界を巡る長き戦いは、この一滴から始まった。

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