序章 預言書 《アポカリョープス》
帝国歴一六八七年。
その年を境に、人々は歴史を「滅びの前」と「滅びの後」に分けて語るようになった。
始まりは、あまりにも静かだった。
北方の山脈で、大地が音もなく裂けた。
裂け目の底はどこまでも暗く、光も風も届かない。覗き込んだ者は皆、口を揃えて同じことを言った。
「何かが、こちらを見ている。」
その報告を境に、帝国全土で同じ現象が相次いだ。
森の奥。
砂漠の遺跡。
海底神殿。
天空回廊。
世界各地に黒い裂け目が現れ、人々はそれを《アビス》と呼ぶようになった。
アビスが現れた土地では魔素の流れが乱れ、生き物は姿を変え、植物は黒く枯れ、人の心までも蝕まれていく。
誰も、その原因を知らなかった。
◆
帝都エルディア。
皇城最深部には、皇帝と歴代の大神官しか立ち入ることを許されない石造りの書庫がある。
そこには、一冊だけ鎖で封じられた本が眠っていた。
預言書。
神代の文字で綴られたその本は、千年以上もの間、一度も開かれることはなかった。
いや――開けなかった。
どれほど優れた魔導師が解読を試みても、本は文字を変え、意味を隠し、読む者を拒み続けたのである。
だが、アビスが出現したその夜。
預言書は、誰の手にも触れられることなく、自ら頁を開いた。
誰もいない書庫に、低く澄んだ声が響く。
「調停者を選定する。」
書庫中の魔導灯が一斉に消えた。
黄金色の光だけが本から溢れ、最初の頁に文字が浮かび上がる。
«聖遺物《ホーリー水》に魂を捧げし者は、
神にも悪魔にも属さぬ存在となる。
深淵の片翼を討ち、
世界を調停せよ。»
その瞬間。
帝都地下に封印されていた聖遺物《ホーリー水》が、眩い輝きを放った。
◆
「……俺?」
帝国魔導技術局。
魔導通信術式設計課。
若き術式技師アダマン・ヴェルシールドは、皇帝直属の近衛騎士に呼び出され、間の抜けた声を漏らした。
「ええ、あなたです。」
「いやいや、何かの間違いだろ。俺は魔導通信網を設計してるだけだぞ?」
「預言書が、あなたの名を記しました。」
「預言書が?」
「はい。」
「俺、昨日まで魔導通信塔の保守計画書を書いてたんだけど。」
「それでも、あなたです。」
近衛騎士は真剣だった。
冗談ではないらしい。
アダマンは深いため息をつく。
「……嫌な予感しかしない。」
◆
同じ頃。
アビス最深部。
黒い霧に覆われた玉座で、一人の男がゆっくりと目を開く。
銀色の長髪。
漆黒の片翼。
瞳は血よりも深い紅。
その男の名を知る者は、今やほとんど存在しない。
深淵の片翼。
《セフィロス》。
彼は玉座から立ち上がり、ゆっくりと剣を抜いた。
刀身が現れた瞬間、世界中のアビスが共鳴する。
「預言書が……動いたか。」
その声は静かだった。
だが、その一言だけで山は崩れ、海は逆巻き、空には無数の黒い雷が走る。
「ならば始めよう。」
彼は微笑む。
「神も悪魔も届かなかった終焉を。」
◆
翌朝。
何も知らないアダマンは、皇城へ向かう途中、帝都中央市場に立ち寄っていた。
香ばしい匂いが通りいっぱいに広がっている。
「兄ちゃん、焼きたてだよ!」
屋台の主人が笑顔で串を差し出した。
「帝国うなぎだ。今日は特別に脂が乗ってるぞ。」
アダマンは財布を取り出し、苦笑する。
「世界が滅びそうだって噂なのに、腹は減るんだよな。」
一口かじる。
外は香ばしく、中はふっくらとしている。
「……へへ。」
思わず笑みがこぼれた。
「やっぱ帝国うなぎは美味ぇや。」
その何気ない一言が、やがて世界の命運を左右する合言葉になるとは、この時の彼は知る由もなかった。
その頃、皇城の地下では、《ホーリー水》が静かに主を待ち続けていた。




