15 御神木
もしあの世とやらが有るのなら、まず行くのは三途の川だろうか。川には渡し舟という定期船があると聞く。代金は六文だとか。
「六文って現在の価値でいくらなのよ。三途の川を泳いで渡るなんてやーよ」
「六文は、現在の価値で百円程だそうですよ」
「そーなの? でも財布忘れたから、一円も持ってギャ!」
腹に圧力を受けて、変な声が出た。
「いつまで寝ぼけているんですか。早く目を覚ましてください」
「んなこと言ったって、あたし魂を取られて死んじゃったのよ。って、あの世に行くのは魂だけよね。ヤバイ、行けないじゃなギュ!」
再び、潰れた蛙のような声が出た。
「誰!? 何度も人を踏みつけるバカは!!」
「バカはあなたです。第一、神道なら死後の世界は、あの世(彼岸)ではなく、黄泉の国でしょう? 本当にバカですね」
「バカバカ言うな!」
ガバリと起き上がった真琴の前にいたのは一華だった。
「バカでしょう。だって真琴、あなたは生きてます」
「生きてる? なんで?」
ようやく起きたというのに、真琴は未だ呆けた顔だ。一華は容赦なく、
「あだっ、いたたたたっ、何すんのよ!」
真琴の頬を思いきり引っ張った。全くもうと零しながら、一華は真琴の上に掛けられていた上着を回収し、丁寧に畳んでいる。修司の上着だと理解したが、理解できたのはそれだけで、頬をさすりながらボンヤリと眺めた。
「青柳という男が来たんですね?」
真琴はハッとして彼女を見た。
「そうだ、あいつを止めなきゃ! あいつ、バイトのフリしてずっと神社に居たのよ! 神様の世界に入れなかったあいつは、卯槌って人の奥さんを襲ったんだけど、逃げられて、でもあたしが連れて来ちゃったから連れて行かれて……そういえば、病もあいつの仕業だったの! 皆の魂を奪って力を付ける為にあたしを利用して! って、ああもう! あんたに言ったって始まらない! 何とかしなきゃ! じゃないと、……あれ? あいつの目的って何だっけ?」
「蟠桃ですか?」
――蟠桃は……俺のものだ。
「それよ! あいつ、蟠桃を狙ってるんだ! ……でも、それってなんで?」
「仙人になりたいそうですよ」
「仙人に? 仙人になってどうしたいのよ」
「さぁ、それは分かりませんが、不老不死の仙人になるのが目的だそうです」
「あんた、それ誰に聞いたの?」
青柳を知らない一華が、彼の目的を知っているのを不思議に思った。
「青柳さんの、元・師匠と名乗る仙人です」
「はぁ? 仙人?」
真琴の目は点だ。この現代社会に、仙人?
「他者の魂を自分の力に変える行為は、仙人界でタブーとされているそうです。しかし昇仙出来なかった青柳さんは、力を欲して他者の魂を奪うようになった。それが師匠の安曇さんにバレて破門されたそうです。その彼が、この地の神が蟠桃を祝う宴――蟠桃会に目をつけ、蟠桃を手に入れたいと思ったのではないか、と伺いました」
――昨日までの雨は、あいつの力を感じた。
突飛な話に驚く真琴を見ながら、一華は安曇の話を頭の中で反芻した。
「俺が美人のにーちゃんを山で拾ったのは、大神実の領域・桃源郷へ行こうとしたからだ。だが、妙なもんが張ってあってな」
「妙なもの?」と、良が尋ねた。
「結界。外からの侵入を拒む壁だ」
「おれが出た時は見当たらなかったぞ?」
「あの手のモノは、出るのは容易いが、入るのが骨なんだよ」
しばらく考え込んでいた良が頭を上げた。
「おれはあまり他の例を知らない。だが、結界を張って侵入を拒む世界なんて、聞いたことがないな」
良が思い浮かべているのは、十年前、安曇の領域から桃源郷へ戻った時の記憶だ。他者の領域ギリギリを通る最短ルートを選択したが、ギリギリを通るという事は、所々で入り込んでしまったとも言える。よく分からない者達に襲われた記憶はあるが、壁に弾かれた記憶はない。
「そりゃそうだ。自分の領域に入って欲しくないのなら、入り込んだ者を惑わせて追い出す幻術をかけとくのが普通だ。結界まで張る奴はそうはいねぇ。疲れるからな」
襲われたと思ったものは幻術だったのか、と納得したが、新しい疑問出てきた。
「ならばなぜ、桃園は結界なんてモノを張っているんだ?」
「そこよ。そもそも俺がこの地に来た理由は、蟠桃会が開かれるって聞いたからだ。蟠桃会は大神実の開く宴、つまり客が来てなんぼなんだよ。それがなぜ外から来る客を締め出す結界なんぞ張っているんだ?」
ふと、良は自分を襲った正体不明の存在を思い出した。鬼切りを持つ危険な者がうろついている。それに対抗する為だろうか。
「そうか、ならあの地震は、雨による穢れを祓おうと……」
「兄さん?」
千紘は一華の視線に少し逡巡したが、ポツリポツリと話し始めた。彼はずっと、雨や地震から只ならぬ力を感じていた。しかし地震はともかく、雨は違う力のように感じて疑問を持っていた。だが病の件から、全て神の仕業と思い込んでしまったのだ、と。
「僕は、本当は君の叔父じゃないんだ。……そこの男が言う通り、大神実の眷属だ。こちらの世界に居る事が許されて、朝霧の人形師の傍にいるようになった。君たちは神にとって重要な存在だからね」
「人形師が重要ってのはどういう意味だ? 大神実の本体は桃の巨木だ。人形は関係ねぇだろ」
立花神社の御神木は桃の木だ。樹高は十五メートルもあり、五階建てのマンションに相当する。野生の桃で十メートル、栽培用に改良されたものなら三~五メートル程しかないのだから、御神木がいかに飛び抜けているかが知れる。だがこの木が最も飛び抜けているのは、大きさではなく寿命だ。桃は他と比べて寿命の短い種であり、一般的には二十年と言われている。長いものでも五十年ほどだ。
「百年前にこの地で疫病が流行った時、神はその病を一手に引き受けて力を失った。御神木に花が咲かなくなったのはそのためだ」
少なくとも、百年前から存在が確認されていた。口伝によると何百年以上も在り続け、町を見守ってきたと言う。口伝でしか残っていない理由は、戦時中に社殿古記録がことごとく焼失してしまったからだ。
「今の神は、朝霧が献上した人形の御神体に宿る事で町を守っている。先の戦争で、町は確かに被害にあったが、その被害を最小に抑えられたのは……神のお力だ」
千紘は途中まで饒舌に語っていたが、段々と消沈していった。
「僕はあの方が分からない。慈悲深い一面もあるが、十和子ちゃんを殺したり……。僕には、サッパリ分からないんだ」
「お母さんは病気じゃなかったんですか!? 殺されたって、どういう意味ですか!?」
一華が叫び、千尋に詰め寄った。大人しく話を聞いていた少女が突然、感情を爆発させたのだ。良と安曇は驚き、目を見開いた。千紘は痛ましそうな顔をしている。
「ごめん、詳しくは分からない。ただ、十和子ちゃんが急に病に伏せったのは、神と対面して直ぐの事だった。僕は彼女を助けてくれと訴えたけど、聞き入れて貰えなかった。彼女は、まるで魂を抜かれたかのように衰弱して……だから僕は……」
――神様、お母さんを助けて下さい。
千紘の痛切な告白は、一華の幼いころの記憶を呼び起こした。懸命に祈り、願った、神を信じていた頃の記憶だ。
一華は自室に駆けて行った。自分には追いかける資格が無いと思っているのか、千紘は糸の切れた人形のように、座りこみ、俯いた。
彼女の後を追ったのは良だった。そっとしておいた方がいいと安曇は言ったが、また一人で泣いているかもしれないと思うと、放っておけなかった。
一華は部屋の入口に背を向け、千紘のように力なく座り込んでいる。
良はなんと声を掛けてよいか分からず、近くに寄って、黙って腰を下ろした。彼女の膝の上には人形が乗っている。雨の日もそうだった。本当に人形が好きなんだな、と思ったが、よくよく見ると、あの時の人形とは違うもののようだった。
俯く彼女の前には、立派な雛壇が飾られている。
「それは?」
雛壇にあるただ一つの空席から、目星はついていたが、彼女の口から聞きたかった。
「わたしの、お雛様です。母が……作ってくれました」
「……そうか」
思い出の品なのだろう。手持ち無沙汰もあって、彼女の頭に手をやり、撫でてやった。
「人形は、元々、持ち主の災いを肩代わりさせる、身代わりとして作られ始めたんです」
ポツリと零した言葉に、聞いたことがあるな、と返した。
「わたし、それを初めて聞いた時、身代わりにされる人形が可哀そうだと思いました。でも人形は、制作した母が死んでも、父が死んでも、何年も、何十年も残るんです。肉と骨で出来た人間は、あんなにも呆気なく、人であった形すら失ってしまうのに……」
彼女が何を思い出し、どんな思いを抱いているか分からないが、これまで刹那でも触れてきた人達の顔が浮かんだ。父も、母も、妹も弟も、共に身命を賭して戦った仲間もいた。
「だから人間なんだろうな」
「……?」
「終わりがあるから人間なんだろう。おれが出会った人は、みな輝いていたよ」
有限の時の中で懸命に生き、その生を終えていった者達。誰もが輝き、眩しく見えた。
鬼は人の成れの果てだ。良は自ら進んで人を止め、新たな生命を得た。あの時はコレしかなかった。成し得なければならない大事を前に、唐突に生命を落とした。だから人としての生命の先を望み、人と偽って、父を、仲間を騙し、目的を果たした。
以来、オマケのような長い余生を送っている。死を拒んだ代償なのか、死ねなくなった身体を抱え、移りゆく時代をさ迷い歩く日々だ。時々、思い出したように死を欲する時があるが、自らが望み、あまつさえ目的まで果たせた果報者だと自覚している。
それに、オマケの生も中々楽しかった。自分と違って儚い人達との別れを恐れた時期もあったが、人でありたいと望んだ良は、可能な限り人として生き続けた。沢山の出会いがあった。紙(戸籍)の上だけでも息子として生きてくれ、と言う者もいた。
そうやって永い時を生きるうちに、新たな欲が生まれた。此処まで来たのなら、いっそ畳の上で安らかに死にたい、という欲が。そしていつの日か……。
「おれが死んだら、君のように泣いてくれる者が居たら嬉しいな」
一華の眼鏡を外し、目尻に溜まった涙を指の腹で払ってやった。濡れた瞳がパチッと瞬くと、僅かに残っていた涙が散った。その涙が光を弾いて、やけに綺麗に見えた。
「君、眼鏡を外した方がかわ……だっ!!」
唐突に頭に衝撃が来た。静かに拳を持ち上げた一華が、そのまま振り下ろしたのだ。まさかそんな行動がくるとは思わず、そのまま受けてしまった。だが、彼女の方にもダメージがあったようで、痛そうな顔をしている。
「馬鹿なこと言わないでください! あなたの為になんて二度と泣いてあげませんから、何がなんでも死なないで下さい! ああ、もう、なんだか腹が立ってきました。ここで分からない事を悩むより、行動した方がよっぽど建設的です!」
良を睨みながら早口でまくし立てた一華は、憤りを隠すことなく、乱暴な足取りで雛壇に向かった。
「戻ってきたら、あなたにも出来る限りの事をしますから」
しかし一転、優しい手つきで人形を戻した。
良は気づかなかった。戻された人形の顔の一部が欠けていた事も、良に背を向けている一華が、泣くのを我慢して唇を噛み締めていた事も。
そして一華も気づかなかった。良が、殴られた頭に手を当て、目を細めているのを――。
一華と良が出て行いってしばらく、安曇は一人で紫煙を燻らせていた。
「兄ちゃん、あんた大神実の眷属とはいえ、桃園の詳しい事情はサッパリみてぇだな」
千紘は、チラリとだけ視線を向けてまた戻した。
「……僕は、彼らからみたら年若く、未熟な存在だ。でも僕は此処に居る。僕は一華を守りたいんだ。出来るならあの子の望みを叶えたい、だけど……」
ポツポツと心情を吐露する千紘に、安曇は四本目となる真新しいタバコの火を消した。千紘が何とはなしに彼に目を向けると、畳に額をこすり付ける姿があった。
「すまねぇ。今回の件は、俺のせいでもある」
千紘は眉をひそめた。
「わたしにも教えてください」
戻ってきた一華と良も話に加わった。頭を上げた安曇は、一度大きく溜息を吐いた。
「昨日までの雨は、あいつの力を感じた。かつての弟子、青柳の力を」
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