その8
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未来視うんぬんがもしデタラメだったとしたら、アンナはとてつもない記憶力の持ち主か、さもなければ二〇世紀屈指の日本語散文家だ。
五限終了のチャイムが鳴った。
それまで、ぼくたちに巻き舌のRの発音を叩き込もうと孤軍奮闘していたロシア語のマリーナ・ザクレフスカヤ・ポグロヴァ先生は、素早く教科書を閉じてさっさと帰り支度をはじめた。もう生徒の顔も見たくないと全身でアピールしていた。
中年スラブ女のマリーナ先生は、もちろんたっぷり脂肪を身にまとっているので、そのアピールはぶるんぶるんとはち切れんばかりに肉感的になった。
ロシア人はロシア語に誇りを持っている。特に巻き舌のRの発音に誇りを持っているらしい。だからRとLの区別がつかない日本人に対してロシア語を教えているあいだは、みんな極度の愛国者になるのだった。
学級委員の栄村亜季が、起立、礼、着席のかけ声をかけたあと、質問するためにマリーナ先生の後を追いかけた。勉強熱心なことだった。だから学級委員長になれたのだろう。
教科書をしまっている最中に、隣の席から声をかけられた。
「おい、寒田、おまえアンナちゃんとデキてるってマジかよ」
と、恩島雅常がぼくを冷やかした。
「人聞きの悪い言い方はよしてくれ」
「お前がアンナちゃんをピンクにしたってマジかよ」
「下品な言い方はよしてくれ」
なあ、実際どうなんだ、と恩島はねじこんた。
ぼくは、教科書をしまいながら適当に答えた。
「どうなんだって、なにが」
「付き合ってるのか?」
「どう思う」
「突き合ってるのか」
「園丘さんがぼくを突けるか」
ぼくは、のらりくらりと話をはぐらかすことに専念した。
恩島はぼくの幼稚園時代からの友達だった。
恩島の父は合法雑誌の編集者で、母は教師。当然、どちらも統一農労党の党員だ。
ぼくの両親も党員だった。この当時、〈共和国〉人口における党員の割合は一〇パーセント以下。あからさまな社会のエリートだ。お互いに党員一家で家も近いというのは、付き合いを持つには十分なきっかけで、両親同士もなにくれとなく付き合いがあった。その縁で何となく知りあい、何となく友達になった。
恩島は基本的にはいいやつなのだけれど、人の世の常として『これさえなければ』という悪癖をいくつも持っている。
そのひとつが異常な女好き、もうひとつが異常な噂好きだった。
「それで、今度はだれに惚れたの?」
「そんな卑俗な言葉を使うのはよせ! あの女の美を汚す!」
恩島は、十九世紀の小説の登場人物みたいなせりふを吐いた。ぼくはいらっとした。
恩島はソ連経由で〈共和国〉まで亡命してきた共産主義者や、偉大なる同志スターリンに〈共和国〉へ強制移住させられた少数民族たちの末裔で、ロシア人やフランス人、イタリア人、リトアニア人などの血がごってり混ざっており、その容姿は一種の遺伝的奇跡であった。
すらりとした長身に、血管が青く浮き出るほど白い肌、ほりの深い顔立ち、灰色の瞳、完璧な巻き舌のRの発音をもつ。眉目秀麗、才気煥発、基本的には付き合っていて気持ちのいい好青年なのだが、そのぶん欠点もごってりとあって、その最たるものが惚れっぽさであった。
恩島は六歳の頃に、幼稚園の先生に恋をした。クレヨンで毎日先生の絵をかき、花壇からつんだ花をプレゼントして叱られ、お昼寝の時間の前にはいつも先生のエプロンにまとわりついた。
甘い甘い恋の詩を書いて、舌っ足らずな調子で毎日ぼくに読み聞かせ、感想を求めたので、幼いぼくは恩島から遠回しにプロポーズされているのかと勘繰ったほどだ。
その恋は、件の先生が結婚することで敗れた。
それを皮切りとして恩島は、かなわぬ恋に落ちては敗れることを一年に十二回ほど繰り返している。
恩島の自己陶酔的な演説にしばらく耐えた後、どうやら今度は何かの調査か実験のために高等部に来ている大学院生に惚れたらしいことがうすぼんやりと分かってきた。
「その先輩、知ってるよ。朝鮮共和国の人でしょ?」
「そう、そのひと。漢城大学から留学してきた」
ぼくたちの日本において、国際恋愛は非常に難しいということを、恩島も知らないわけではないだろう。統一農労党政権は、外国人の妻や夫を通じて国内の情報が海外当局に漏れたり、外の風がはいってくることを極端に嫌っていた。そのかたくなさは、たとえお相手が、国民の統制に関しては〈共和国〉よりもさらに上手である朝鮮民主主義人民共和国の出身者でも変わらない。
恩島が本当に惚れているのは、その困難自体にたいしてだった。
恩島は、成功の見こみの低い恋にこそ引き付けられる。これほどの男前にくわえて、ノリのいい性格なのだから、恩島は当然のようにモテる。彼の周りにはいつも女子と、おこぼれを狙う男子の輪があった。
積極的に女あさりする必要は、だからぜんぜんない。それがかえって、恩島をかなわぬ恋に引き付けるらしい。
何を隠そう、恩島は小学二年生の時に人妻に恋をした男である。
『神曲』の著者ダンテは九歳の頃に初恋をした。それはダンテの知性の高さを表していると歴史の先生が授業中の脱線話で力説していたが、その理屈は怪しいものだと思う。ダンテより三つも若い六歳で恋をした恩島は、ぼくの目には極端に行動力のある阿呆にしか見えない。
「それより、いまはアンナちゃんのことだよ」
急に恩島が正気に戻り、尋問を開始した。
恩島は鋭い。その追及をかわすため、ぼくは、
「で、その先輩とお近づきになる作戦は? どうせもう考えてあるんだろ」
と話題をそらした。
惚れっぽさに加えて、自己完結した恋話アウタルキーを構築している恩島は、自分の恋の噂を自分でして自分で消費するという恋愛ケインズ主義者でもあった。
恩島の色を好むこと古の世の光源氏かイタリア男のごとく、噂好きなことおばちゃんのごとし、とはナロ高風土記にも書いてある周知の事実である。恋と噂を愛する恩島は、しばしば、ひとり恋話マシーンと化す。そのたびに、ぼくはうざいとおもいつつ聞き流す。
案の定、その一言で恩島はまたぼうっとなり、大学院生のことを語り始めた。思った通り、自分の恋話について語りたくてアンナを口実に絡んできたのだった。
ぼくは恩島のこういうところにいつもいらっとして、恩島がさっさと熊みたいな毛深いビア樽大男に成長するよう、恩島のなかのロシア遺伝子にたびたびテレパシーで陳情書を送っているが、受理される様子はいまだなかった。
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部室に着くと、いつものように、すでにアンナがいた。
いつもアンナが先に部室にいる理由は簡単である。連れだって部室に行くのがなんか恥ずかしいので、ぼくがわざと遅れてゆくのだった。
「じゃ、今日もやろうか」
「うん」
こうしてぼくたちの秘密の『部活動』が始まる。
何の愛想もない第二部室棟の四角い箱の中で、アンナは四〇〇字詰めの原稿用紙を埋めていく。よどみないペンの動き。カリカリという心地よい音。
ペンの音は、ときどきはさむ指の屈伸運動以外、一瞬たりとも休むことなく、アンナは推敲する様子も、思い出そうと顔をしかめることもない。
その姿はあたかも、白い原稿用紙の列にあらかじめアンナにだけ見える文字が書かれていて、彼女はただそれをなぞっているかのようだった。
アンナが執筆しているあいだ、ぼくはアンナが作業に専念できるように働く。
お茶を切らさないように急須と茶葉とポットを管理する(アンナは熱々の煎茶を好んだ)。
持参のお菓子を用意する(アンナは甘いものから、おかきなどの塩っ気の強いお菓子まで幅広く好んだ)。
アンナが書き散らした原稿を床から拾ってページ数の順番にひもで綴る(アンナは最後の一文字を書き入れたとたん、原稿用紙を何の未練もなくテーブルからはじき出す、というなにか文豪めいた執筆スタイルの持ち主だった)。
絵本に出てくる働き者のこびと妖精のように、ぼくはかいがいしく働いた。
用のないときは部室の古びたプーシキン全集を読んだり、予習復習をしたり、統一農労党中央委員会機関紙『思想農労』や、日本民主人民共和国政府機関紙『前進』などの新聞各紙をチェックしたりして、静かにしている(これでもぼくは優等生なのだ)。
やがて、何の前触れもなくペンの音が止まる。アンナが椅子から立ち上がって、うーんと伸びをする。制服の袖から、尺骨の浮いた細い手首があらわになる。
それが合図だった。
ぼくが用意した葛饅頭をアンナがぱくついているあいだに、ぼくはようやくエサにありつけたパブロフの犬よろしく、アンナが書き溜めた『1984』にむしゃぶりつく。
アンナは甘味をむさぼり、ぼくはオーウェルをむさぼる。
これが、この数日でぼくたち二人が確立した、心地よいサイクルであった。
不定期に、美城上尉がこれに加わる。上尉はいちおう、わが文芸部の顧問教師ということになっていた。
その理由は単純で、職員のだれもが「ナロ高ピンク文芸部」の顧問になりたがらないなかで、すっかりやけっぱちな兵隊やくざと化していた上尉が、深く考えもせずに押し付けられた、というのが真相だった。
防衛教練や生活指導室がヒマなときなどに文芸部に遊びに来る上尉は、部室に入るや否や、流れるような動作で煙草をくわえる。煙草の銘柄は人民陸軍御用達の〈勝利〉タバコ、ライターはチェコスロバキア製のジッポーのパチモンである。
「火気厳禁です」
ぼくが床に山積みになった古雑誌類を指さしながら言うと、上尉は聞こえよがしに舌打ちをする。舌打ちはするが、ライターは素直にしまう。そして、火のついてない煙草をくわえたままピコピコと動かす。
物語中盤の、主人公ウィンストンと大物オブライエンの対話シーンを読み終わって、ぼくはふかくながいため息ををついた。
ふと、アンナを見る。
アンナは、甘い甘い葛饅頭を口に放り込んで、んんーー、とほっぺたを満足げに両手で包んでいた。
数日前、ぼくたちの祖国の破滅を予言したのと同じ口を。
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