その7
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「何か、証拠とかある?」
と冗談めかしてきいてみた。
「未来が見えるなんて何の証拠もなしに言われても、ちょっとね」
なかば本音、なかばは会話をもたせる相槌であった。
部員がとまどっているのをいいことに、勝手に備品をいじりまわして着々とお茶の用意を整えていく上尉とアンナに対する反感もかすかにあった。
「そりゃあね。これで信じるのはただのおバカさんだよね」
アンナはあっさりと同意した。
「ソヴィエト科学アカデミーお墨付きなんだけどなあ。あ、写真みる?」
「へえ」
ぼくはアンナが財布から取り出した写真をのぞきこんだ。
白衣を着たロシア人に囲まれたアンナが、記号の書かれたカードを片手に、カメラに向かって不敵な笑顔で親指を立てていた。
「でも、これは証拠にはならないよ」
「だよね」
アンナは笑った。よく笑う女子だった。
「トランプとかあったかな」
ぼくは腰を浮かした。
ぼくが想像していた『証拠』は、シャッフルして伏せたカードの模様を当てたり、サイコロの目を当てたりするような、テレビでよく見るアレだった。アンナが、あの自信満々の笑顔で的中させてみせたら、さぞや絵になるだろうと想像したのだ。
しかしアンナは、そんなぼくのなまっちろいイマジネーションを軽々と一蹴した。
いつもそうだった。アンナは周囲の人々の想像を超越するのを楽しんでいた。
アンナは生粋のエンターティナーだった。
「これ!」
アンナはシルクハットからウサギを取り出して見せる魔術師さながらのおすまし顔で、通学カバンに手を突っ込んでみせた。
アンナが取り出したのは、大きな茶色い封筒であった。
厚さはさほどでもなかった。
真新しく、角もきっちりしていた。
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封筒をさし出されて、ぼくは手をのばさずに、反射的に後ろをふり返った。肩越しに、部室に積んであった雑誌を読みながらお菓子をつまんでいた美城上尉と目が合った。
ぼくの用心深さを知る上尉は、あげつらうように会釈して見せた。
ぼくは失礼を承知で席をたった。
ドアにしのび寄り、すばやく細く開く。誰もいなかった。
窓の外を確かめ、分厚いカーテンを引く。
そのまま室外に出て、部室棟をぐるっと一周してみる。
祖父に叩きこまれた技術を総動員して、周囲の風景を、特に人の出入りと足跡と電気の配線をチェックする。
マヌケの現場を取り押さえようと待機している風紀委員の一団の気配はなかった。
現場を二度ずつ確かめてから、ぼくはふたたび落書きだらけの古びたドアをくぐった。
席に戻ったぼくは、まだ封筒を片手に持っているアンナを、差し向かいでじっくりと眺めた。
アンナはぼくのあからさまな猜疑心に苦笑していたが、自己防衛モードにどっぷり入ったぼくの顔は赤くも青くもならなかった。
じっと、アンナの目を見る。その瞳は琥珀色で、眼にはいたずら小僧の輝きがある気がした。
一瞬、自分が自意識過剰なバカだと思えてくる。
しかし。
祖父の言葉がよみがえる。
「おめえ、眼なんか見たってなあ、そんなのでウソついてるかどうか分かりゃあ苦労しねえぞ。ニンゲン、ちょいと訓練すれば眼なんてだませる」
祖父は口癖のように言った。
「なにも信じるな。いいか、何もだ。自分も他人も信じるな。おれもお前も信じるな」
ぼくは考える。
もしこの封筒が、ぼくや、ぼくの父母をハメるための罠だったら。
もしこの少女が、悪意ある密告者であったら。
封筒を受け取るリスクと、受け取らないリスクについて天秤にかける。
もう一度室内を確かめて、上尉とアンナを確かめて、さらに一瞬逡巡してから――、結局ぼくは封筒を受け取った。
ここは密室だし、何よりぼくには新入部員がどうしても必要だった。
ぼくがアンナに非礼をわびると、アンナは苦笑いして許してくれた。
アンナはそのあいだ、ずっと封筒をさし出し続けていた。
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イタズラっ子の笑みを浮かべたアンナが、封筒を開けてみるように手ぶりでうながした。
祖父直伝の自己防衛モードから普段の気弱な高校生に戻ったぼくは、怖々と封筒を開けて、中に入っていたものを引き出した。
それは原稿用紙の束であった。
一枚目にタイトルが書かれていた。
何の気なしにタイトルを読んだぼくの心臓は、あやうく口から飛び出すところであった。
「オーウェルじゃないか!」
と思わず叫びそうになった、その「オー」のあたりで、いつの間にか背後にしのび寄っていた上尉に口をふさがれた。
美城美由紀上尉は人民陸軍の元精鋭で、片足を失った後も脚力以外は素晴らしい数値を維持している。防衛教練の時間では熊みたいな男子生徒が次々と組みついてくるのを、ぽんぽんと投げ飛ばす女だ。上尉は片手だけで万力のようにぼくの口を締め上げつつ、もう片方の手で耳元をくすぐる仕草をする。
盗聴器だ。
ほとんど呼吸できないなかでようやっと上尉の右手をタップすると、圧迫がはずれた。
ぼくはひりひりする頬をなでながら、原稿用紙に記された著者の名前と、タイトルの数字四文字をゆっくりとなぞった。
それは、〈こちら側〉の日本に存在するはずのない本であった。
ジョージ・オーウェル著『1984』!
ダーミーイ・モスクイ!
『1984』は、大英帝国の作家、評論家、ジャーナリスト、元植民地警察官にして左派活動家であったジョージ・オーウェルによって一九四八年に出版された。
架空の独裁国家を舞台に、全体主義と監視社会の危険に警鐘を鳴らした名著であり、当然、ぼくたちの日本では有害図書として発禁になっていた。
ぼくたちの日本が一九四九年に独立を宣言して以来、検閲対象でなかった時期が一瞬たりとも存在しなかった本書は、この当時、ぼくたち〈共和国〉の読書少年に「幻の本」としてあがめられていた。
「すごい、日本語だ……!」
ぼくの声は興奮で震えていた。
大学ではときどき地下印刷物として出回るという噂を聞いたことはあったが、現物を見たのはこれが初めてだった。
焦りと喜びがごっちゃになった感情が胸の中で吹き荒れて、頭がぼうっとなった。
なんとなく、うしろをふり返ってしまった。
「どこでこれを?」
ぼくは盗聴器を警戒し、単語をぼかしてたずねた。
「西側の本だよ」
アンナも言葉をぼかして答えた。
「西側の日本で邦訳された本」
こともなげに手をひらひらさせるアンナ。
ぼくは返事もおざなりに原稿用紙の束を夢中でめくった。
舞台は〈偉大なる兄弟〉率いる〈党〉が支配する、近未来の超大国オセアニア。真理省記録局に勤めるウィンストン・スミスの仕事は、過去の記録の改竄である。
ウィンストンは、法で禁じられている日記をつけていた。
日記は重大な思想犯罪である。過去の記録が絶えず改変され続けているオセアニアにおいては、個人の手になる記録はおそるべき反体制活動なのだ。
そんなある日、日課の〈二分間憎悪〉の準備をしていたウィンストンは、二人の印象的な人物と出会う。
一人は、名も知らない、どこか好きになれない女。
もう一人は、〈党中枢〉で働く謎の大物オブライエン。
ぼくはオーウェルの散文をむさぼった。
奇抜だがいやに説得力のあるプロパガンダ儀式〈二分間憎悪〉の、微に入り細をうがった描写が続く。
それは、反逆の温床となる日常の些細な不満を、国家の敵〈エマヌエル・ゴールドスタイン〉への憎悪に転嫁し、消費させるための、計算しつくされたセレモニーであった。
儀式の最中、ウィンストンはふと、大物オブライエンと心が通じ合ったような感覚をおぼえ……。
話はここで途切れていた。
ぼくはため息を吐いて、はじめて自分が呼吸をおさえていたことに気づいた。
「すごいでしょ?」
アンナは自慢げにニヤニヤしていた。
「うん、すごい。すごいな。すごい」
興奮のあまりボキャブラリーが貧困になっていた。のどの渇きをおぼえて、ぼくは冷めてしまったお茶を一気に飲み干した。渋みが口の中に広がった。
「これ、続きは?」
声をひそめてたずねた。盗聴対策はもちろんだが、興奮したようすを見られて、すこし恥ずかしくもあった。
アンナは空っぽになった封筒をひらひらさせて、
「続きはまだない。これから書く」
「これから?」
言われて、初めて気が付いた。原稿用紙のマス目を埋めるオーウェルの散文は、読みやすい几帳面な文字で書かれていたが、文字はどこか少女らしい丸みをおびていた。
「これ、園丘さんが書いたの? すごいな、どこで読んだの?」
「未来でだよ、もちろん」
アンナは最後の炒り豆を口にほうりこんだ。
「わたしは未来でこの本を読むんだ。五年後、この国が崩壊したあとで」
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