第9話 父の懐へ飛び込め
「若殿、東の道に武田の騎馬が現れました!」
夜明け前の冷たい空気を裂いて、物見の声が響いた。
甲府の西にある飯富家の詰所では、松明の明かりを頼りに郎党たちが武具を整えていた。湿った土の匂いに馬の汗が混じり、遠くでは犬が吠えている。
武田義信は報告を聞くと、広げていた地図を畳んだ。
「父上も早いな。こちらに夜明けまで休む暇を与える気はないらしい」
飯富虎昌が険しい顔で歩み寄ってきた。
「若殿、物見によれば敵は八十ほど。率いておるのは我が弟、三郎兵衛にございます」
「ほう、三郎兵衛か。それは手強い相手が来たものだ」
「笑っておられる場合ではございませぬ。こちらは三十余人、しかも急いで集めた郎党ばかり。まともに戦えば押し潰されますぞ」
虎昌の懸念は当然だった。
父の信玄が差し向けたのは、飯富三郎兵衛が率いる追討隊である。のちに武田家屈指の猛将となる男だが、この時点でも一軍を預かるだけの実力を備えていた。
しかも三郎兵衛は、義信と虎昌の双方を知っている。こちらの人数や武具、戦い方まで見当がつく相手だった。
「兵部。父上は俺を生け捕りにせよと命じておられるはずだな」
「そのように聞いております」
「ならば、まだ勝ち目はある」
義信は地図の東側を指した。
「父上は俺たちが西へ逃げ、兵を集めると考えておられる。だから東から三郎兵衛を向かわせ、逃げ道を塞ぎに来た。西にも別の兵が回っているかもしれんな」
「そのとおりでしょう。御館様は追い詰めた敵を逃がすようなお方ではございませぬ」
「では、こちらから東へ進もう」
虎昌は思わず顔を上げた。
「東へ? 御館様の兵が待ち構えておりますぞ」
「承知しておる。だからそこへ行くのだ」
義信は立ち上がり、壁に掛けてあった槍を取った。
「父上は俺が兵を増やす前に捕らえたい。俺は父上と直接話をつけたい。ならば、こんな詰所に籠もっておっても仕方あるまい」
「されど、三郎兵衛を突破せねば館へは近づけませぬ」
「突破するさ。ただし、あいつらを殺して進むつもりはないぞ」
義信は不敵に笑った。
「兵部、俺たちの相手は他国の兵ではない。昨日まで同じ釜の飯を食っていた武田の者たちだ。ここで何十人も殺してしまえば、父上から家督を奪ったところで恨みしか残らん」
虎昌はしばらく考え込み、頷いた。
「ならば、槍の穂先へ布を巻かせましょう。無論、敵が真剣を抜けば、その限りではございませぬが」
「それでよい。刀も抜かずに済むなら抜くな。ただし、自分の命を捨ててまで相手を傷つけまいとする必要はない。生きて帰るのが第一だ」
義信は郎党たちを集めた。
戦える者は三十余人。うち数人は昨夜の騒ぎで打ち身を負っており、無理に走らせられない。
義信は動ける者と負傷者を分け、負傷者には馬を用意させた。詰所に残っていた飯富家の使用人たちも、戦いへ巻き込まぬよう先に避難させる。
「よいか。俺たちは甲府へ戻る。父上の館を攻め落とすためではない。父上の前に立つためだ」
集まった郎党たちが顔を上げた。
「戦うことになれば、俺が先頭へ出る。お前たちは合図に従え。勝手に敵を追いかけるな。逃げる相手を背後から斬ることも許さん」
一人の若い郎党が尋ねた。
「若殿、敵が大勢で押し寄せれば、いかがいたしましょう」
「そのときは俺の後ろへ下がれ。大勢に囲まれる前に、相手の頭を押さえる」
義信は槍を肩へ担ぎ、豪快に笑った。
「なに、相手は三郎兵衛だ。話の通じぬ男ではあるまい!」
虎昌だけは、素直に笑えなかった。
弟が主君への忠義を曲げぬことを、誰よりも知っていたからである。
◇
飯富三郎兵衛は、詰所の東にある街道沿いで兵を止めていた。
左右には畑と用水が広がり、道が狭くなる場所には歩兵を置いている。義信たちが西へ逃げれば追撃し、東へ戻ろうとすれば正面から押さえる構えだった。
「三郎兵衛様、詰所より人が出て参りました!」
物見の報告を聞いた三郎兵衛は、眉をひそめた。
「西へ向かったか」
「いえ、こちらへ進んでおります。先頭には若殿と思しきお方が!」
「……何だと」
想定外だった。
義信には逃げる道が残っている。西へ進み、飯富家と縁のある者たちを頼れば、兵を増やせる可能性もあった。
ところが、わずか三十人ばかりを率いて自分たちの方へ向かってくるという。
三郎兵衛はすぐに左右の兵へ命じた。
「勝手に動くな。若殿は生け捕りにする。弓は構えてよいが、命なく放つことを禁ずる」
しばらくすると、薄明かりの街道に義信の姿が現れた。
槍を肩に担ぎ、まるで稽古場へ出向くような足取りで歩いている。その後ろには虎昌と郎党たちが続いていた。
「三郎兵衛! 朝早くからご苦労だな!」
義信が大声で呼びかけた。
三郎兵衛は馬を進め、道の中央で止まった。
「若殿。これより先へは通せませぬ。御館様より、若殿と兄を捕らえよとの厳命を受けております」
「承知しておる。だが俺は父上に会いたい。道を開けてもらえんか」
「なりませぬ」
「やはりそうか。お前ならそう答えると思っておった」
義信は笑った。
三郎兵衛はその笑顔を見ても、槍を下ろさなかった。
「若殿。これ以上の抵抗はおやめくだされ。すでに御館様は、ほかの道にも兵を向けておられます。ここで戦っても逃げ切れませぬ」
「逃げるつもりはないぞ」
「では、武器をお渡しくだされ」
「それも断る」
義信は槍を持ち直した。
「三郎兵衛。お前は父上の命令で俺を捕らえに来た。俺は父上に家督を譲っていただくため、甲府へ戻ろうとしている。どちらも退かぬなら、仕方あるまい」
その言葉に、三郎兵衛の表情が険しくなった。
「若殿、まさか本当に我らと戦うおつもりですか」
「できれば戦いたくない。だが、俺の後ろには兵部と郎党たちがおる。お前の後ろにも武田の兵がおる。ここで互いに意地を張れば、大勢が怪我をする」
義信は一歩前へ出た。
「だから、俺とお前で決めよう」
「……一騎討ちをお望みか」
「そうだ。お前が勝てば俺は武器を捨てる。俺が勝ったなら、俺たちが父上のもとへ向かうのを邪魔せんでほしい」
三郎兵衛は即答しなかった。
信玄から与えられた命令は、義信と虎昌の捕縛である。勝手な約束によって、その命令を変えることはできない。
「若殿。某には、そのような取り決めをする権限がございませぬ」
「もっともだな」
義信はあっさり頷いた。
「では約束はせんでよい。俺がここを通る。お前は命令どおり止めろ。互いにできるだけ死人を出さぬ。それだけだ」
三郎兵衛は思わず息を吐いた。
「……若殿は、随分と無茶を仰せになる」
「父上の息子だからな」
義信は槍を構えた。
三郎兵衛も馬を下り、部下から槍を受け取る。
後ろの武士たちが緊張した面持ちで見守るなか、二人はゆっくりと間合いを詰めた。
◇
最初に動いたのは三郎兵衛だった。
槍の穂先が義信の肩口へ伸びる。義信は身体を開いてかわしたが、すぐに二の突きが腹を狙った。
穂先を外すと、今度は柄が横から迫ってくる。
義信は自分の槍でそれを受け、足を踏み替えた。
鋭い。
前世で道場の師範を務め、数多くの門弟と向き合ってきた義信でも、これほど実戦的な槍を扱う相手は多くなかった。
しかも三郎兵衛は、力任せに攻めてこない。義信の反応を確かめながら、少しずつ退路を狭めている。
「よい槍だ、三郎兵衛。兵部が自慢するだけのことはある!」
「お褒めにあずかり光栄ですが、某も退けませぬ!」
「だろうな!」
三郎兵衛の踏み込みに合わせ、義信は槍を大きく引いた。
相手の突きを外側へ流し、柄を滑らせるようにして手元へ迫る。三郎兵衛は即座に後退したが、義信はそれを追わず、足元の土を強く踏みしめた。
三郎兵衛が再び前へ出る。
その瞬間、義信は穂先を下げ、相手の槍を下から跳ね上げた。
互いの柄がぶつかり、乾いた音が響いた。
三郎兵衛の両腕がわずかに浮く。
義信はその隙へ身体を入れ、槍を持つ手首に自分の柄を押し当てた。力で奪うのではない。相手の踏み込みを利用し、身体の向きを変えることで重心を崩す。
三郎兵衛は倒れまいと足を踏ん張った。
さすがに簡単には崩れない。
義信は笑みを深くし、今度は自分から身を沈めた。
相手が押し返してきた力を受け流し、肩を入れて腰を浮かせる。
三郎兵衛の身体が横へ傾いた。
そのまま地面へ倒れかけたところで、義信は槍を捨て、相手の腕を掴んだ。
二人は土の上へ転がった。
義信が上を取ったとき、三郎兵衛の喉元には義信の前腕が当たり、刀を抜く右手も押さえ込まれていた。
「……そこまでだな」
義信が言うと、三郎兵衛は荒い息を吐いた。
「お見事にございます、若殿」
「いや、危なかったぞ。あと半歩間合いを詰められておれば、俺の方が押し倒されていた」
義信は腕を解き、三郎兵衛を立ち上がらせた。
周囲の武士たちから驚きの声が漏れた。
飯富三郎兵衛は、武田家でも腕の立つ武将である。その男を義信が正面から組み伏せたのだ。
しかし三郎兵衛は、槍を拾いながら厳しい表情を崩さなかった。
「若殿。勝負では某の負けにございます。ですが、兵を退くわけにはまいりませぬ」
「分かっておる」
義信は頷いた。
「お前は父上の家臣だ。自分の判断で兵を退けば、命令に背くことになる」
「左様にございます」
「ならば、父上へ使者を出してくれ。俺はここで待つ。父上の前へ出て、直接決着をつけたいとな」
三郎兵衛は義信を見つめた。
「若殿。それでは、御館様の兵に囲まれますぞ」
「もう囲まれておるようなものだろう。今さら少し増えたところで、大して変わらんさ」
義信が豪快に笑うと、三郎兵衛はとうとう苦笑した。
◇
義信が街道脇へ兵を下げた直後、北側から別の武田勢が現れた。
こちらも数十人。信玄が別の道から回した兵である。
義信はその姿を見ると、感心したように頷いた。
「やはり父上は抜け目がない。三郎兵衛だけではなく、別の兵にも回り込ませておられたか」
虎昌の顔は険しかった。
「若殿。これで完全に囲まれました。もはや逃げ道はございませぬ」
「最初から逃げるつもりはないと言っただろう」
「しかし、御館様が捕縛を命じられれば……」
「そのときは、そのときだ。だが父上も俺の考えを聞かずに斬るほど短気ではあるまい」
義信は周囲を見渡した。
三郎兵衛の隊と、新たに現れた兵を合わせれば、こちらの数倍になる。
それでも義信は、槍を構え直そうとはしなかった。
むしろ郎党たちへ武器を下ろすよう命じた。
「兵部。皆を休ませろ。傷のある者には手当てをする。相手が攻めてこぬ限り、こちらからは手を出さん」
「若殿、本当にそれでよろしいのですか」
「よい。父上の兵を倒すために甲府へ戻ったのではないからな」
義信は三郎兵衛へ向き直った。
「使者が戻るまで、ここで待たせてもらうぞ」
三郎兵衛は複雑な表情で頷いた。
やがて義信は、兵たちの間を歩き始めた。
顔色の悪い者には水を飲ませ、怪我をした者には傷口を確かめる。昨夜から十分に眠っていない者も多く、槍を抱えたまま座り込む若者もいた。
「無理に立っておらんでよい。相手が動けば俺が起こす」
「若殿……申し訳ございませぬ」
「謝ることではない。疲れた身体では、いざというときに動けんからな」
義信が肩を叩くと、若者はようやく笑みを浮かべた。
それを見ていた三郎兵衛は、黙って自分の兵へ目を向けた。
義信が率いてきた三十余人は、数倍の敵を前にしながら逃げようとしない。
彼らが義信を信じていることは、疑いようがなかった。
◇
躑躅ヶ崎館へ報せが届いたとき、信玄は馬場信房と軍勢の配置を確かめていた。
「義信が三郎兵衛を組み伏せたと?」
「はっ。槍を交えた末、組み打ちに持ち込み、三郎兵衛殿を押さえ込んだとのことにございます」
信房の報告に、信玄はしばらく黙った。
息子の武芸が上達していることは知っていた。
しかし三郎兵衛を正面から破るほどとは思っていなかった。
「三郎兵衛に怪我は」
「大きな怪我はないとのこと。また、義信様は勝負の後も兵を退かせようとはなさらず、御館様との面会を求めておられます」
「……わしと会いたい、か」
信玄は扇を置いた。
義信の動きは、予想していたものとは違っていた。
てっきり西へ逃れ、兵を集めて甲府へ攻め込むと考えていたのだ。
ところが義信は、わずかな郎党だけを連れてこちらへ戻り、追討隊を前に足を止めている。
「民部。そなたなら、どうする」
「某ならば、まず兵を集めます。あの人数で御館様の軍勢と戦うのは、無謀にございます」
「義信は、そうせなんだ」
「はい」
「なぜじゃと思う」
信房は少し考えた。
「……御館様が、若殿のお命を奪うことを望んでおられぬと知っているからではございませぬか」
信玄は苦笑した。
「わしの命令を逆手に取ったというわけか」
義信は父を殺すつもりがないと言い続けていた。
だからこそ、信玄も息子を生かして捕らえるよう命じている。
その命令が、追討隊の動きを制限していた。
弓を放てば義信を殺してしまうかもしれず、槍で囲めば武田の兵同士が傷つく。
義信はその事情を見抜いたうえで、堂々と甲府へ向かってきたのだ。
「……あやつ、なかなか面白いことを考えおる」
信玄は小さく笑った。
しかし、すぐに表情を引き締める。
「民部。義信をこのまま放置すれば、家中の者はどう思う」
「若殿が御館様の命令に背いても許されるとなれば、規律が乱れましょう」
「そうじゃ。わしは武田の当主である以上、息子に好き勝手な振る舞いを許すわけにはいかぬ」
信玄は立ち上がった。
「だが、義信を捕らえるために兵を死なせるのも馬鹿げておる。あやつがそこまで申すなら、わしが会いに行こう」
信房が顔を上げた。
「御館様ご自身が?」
「兵を伴って参る。義信が何を考えているのか、わしの眼で確かめたい」
信玄は扇を手に取った。
「もっとも、話を聞いたからといって家督を譲るつもりはないぞ」
◇
昼を過ぎた頃、義信たちの前に新たな一団が姿を現した。
先頭には馬場信房、その後ろには武田家の旗を掲げた武士たちが続いている。
そして中央の馬上には、信玄の姿があった。
「若殿、御館様にございます!」
虎昌が声を上げた。
義信は立ち上がり、衣服についた土を払った。
「ようやく来られたか。父上も随分と人を待たせてくださる」
「若殿、くれぐれも軽率なことはなされませぬよう」
「分かっておる。お前も刀を抜くなよ」
義信は槍を虎昌へ預け、ゆっくりと前へ進んだ。
信玄も馬を下りた。
父と息子の間には、幾十人もの武士がいる。
どちらかが命じれば、たちまち戦になる距離だった。
「義信」
「父上。わざわざお越しいただき、恐れ入ります」
「よくもそのような顔で挨拶できるものじゃな」
信玄の声には怒りがあった。
「謹慎を破り、兵部を連れ出し、わしの兵を退けた。そのうえ、わしを呼びつけるとは」
「呼びつけたつもりはございませぬ。父上に会わせてほしいと願っただけです」
「同じことじゃ!」
信玄が声を荒らげると、周囲の兵たちが身を固くした。
義信は父の怒りを正面から受け止めた。
「父上。俺はまだ、武田の兵を一人も殺しておりません」
「それが何じゃ」
「俺が本気で父上を殺すつもりなら、もっと別のやり方を考えたでしょう。ですが、俺が欲しいのは父上の首ではない。武田家の家督です」
「そのために謀反を起こしたのか」
「はい」
義信は迷わず答えた。
「父上が俺を廃嫡なさるというなら、黙って従うわけにはまいりません。兵部も、俺に従った者たちも、いずれ命を失うことになりましょう」
信玄の眼が鋭くなった。
「わしが、そのようなことをすると決めつけるか」
「決めつけてはおりませぬ。ですが、家中をまとめるために厳しい処分が必要となれば、父上は躊躇なさらぬでしょう」
義信は一歩進んだ。
「俺は、その前に決着をつけたいのです」
信玄は息子を睨みつけた。
「どう決着をつけるつもりじゃ」
「まずは、この場で俺と父上が向き合う。家臣たちには手を出させませぬ」
「……そなた、わしと一騎討ちを望むか」
「それも一つの方法でしょうな」
義信はにやりと笑った。
「ただし、父上が武芸に負けたからといって、家臣たちがすぐ俺を当主と認めるとは思っておりません。必要なのは、父上ご自身が俺の力を認めてくださることです」
信玄はしばらく黙った。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「義信。そなたは、わしを従わせることができると思っておるのか」
「思っております」
「わしが、そなたの下で軍を率いるとでも?」
「はい。父上には今まで以上に働いていただくつもりです」
信玄は息子を見つめた。
そして、とうとう声を立てて笑った。
「はっはっは! まったく、どこまで強欲な男よ!」
その笑い声に、周囲の武士たちは驚いたように顔を上げた。
「わしから家督を奪い、そのうえわしを家臣として使うと申すか。そんな馬鹿げたことを考える息子が、ほかにおるものか!」
「父上の息子ですからな。欲しいものは自分の手で取りに行く性分にございます」
「その性分、どうやらわしに似たらしい」
信玄は扇を閉じた。
笑みは消えたが、その眼には先ほどまでとは違う光があった。
「よかろう、義信。そこまで言うなら、わしも逃げはせぬ」
信玄は周囲の家臣たちへ向き直った。
「皆、聞け! 義信はわしから家督を奪うと申しておる。わしも、簡単に譲るつもりはない!」
武士たちが一斉に姿勢を正した。
「されど、ここで武田の兵同士が殺し合えば、喜ぶのは上杉や北条、織田の者たちであろう。ゆえに、まずはわし自身が義信を相手にする!」
馬場信房が慌てて進み出た。
「御館様! お待ちくだされ!」
「民部、控えよ。これはわしと義信の問題でもある」
「されど、御館様のお身体に万一のことがあれば……」
「心配するな。わしも、まだ息子に負けるつもりはない」
信玄は義信へ顔を向けた。
「義信。わしを従わせたいなら、まずはその腕でわしを納得させてみよ」
義信は笑みを浮かべた。
「望むところにございます」
信玄が近習へ命じると、二本の木槍が運ばれてきた。
互いに真剣を抜けば、取り返しのつかぬことになる。父も息子も、相手を殺すつもりはなかった。
それでも、負けた側が無傷で済むとは限らない。
義信は木槍を受け取り、軽く振って重さを確かめた。
信玄も同じように槍を構える。
周囲の家臣たちは、誰も声を出さなかった。
甲斐を治める武田信玄と、その嫡男である武田義信。
父と息子が、家臣たちの見守るなかで向かい合った。
「義信」
「はい、父上」
「わしは、そなたに甘くはないぞ」
「存じております」
義信は腰を落とした。
「ですから俺も、遠慮なく参ります」
信玄の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「来い、義信!」
父の声が響く。
義信は地面を踏みしめ、木槍を構え直した。
六十五年の人生で積み重ねた武術の技と、若い身体に宿る力。そのすべてを使い、戦国屈指の名将へ挑む。
目の前の父は、決して容易に越えられる相手ではない。
だからこそ、義信は笑った。
「父上! 家督をいただいた暁には、越後の上杉をお任せいたしますぞ!」
「まだ勝ってもおらぬわ、この大馬鹿者!」
信玄もまた笑った。
次の瞬間、二人の槍が動いた。
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