第10話 父上、今日から俺の家臣です
木槍がぶつかり、乾いた音が甲府の街道に響いた。
武田信玄の突きは、義信が予想していた以上に鋭かった。四十を過ぎた身体とは思えぬ踏み込みで間合いを詰め、穂先をわずかに揺らしてこちらの反応を探ってくる。
義信は槍を斜めに構え、父の突きを外へ流した。
しかし、信玄は深追いしない。息子が反撃しようとした瞬間には槍を引き、すでに次の構えへ移っていた。
「どうした、義信。天下を取ると申した男が、守ってばかりか」
「父上こそ、随分とお元気ではありませぬか。もう少し楽をさせていただけると思っておりましたぞ」
「わしを年寄り扱いするには、まだ早いわ!」
信玄が笑い、再び踏み込んできた。
今度は上段からの打ち込みと見せかけ、途中で槍を返して脇腹を狙う。義信は身体を捻ってかわしたが、木槍の先端が着物を掠め、脇に鈍い痛みが走った。
あと半歩遅ければ、まともに打たれていただろう。
義信は口元を吊り上げた。
前世で六十五年を生き、武田流古武道の師範として幾千もの稽古を重ねた。それでも戦場をくぐり抜けてきた父の間合いには、道場で培った技術だけでは測れないものがある。
信玄は息子の身体だけを見ていない。足の置き方、呼吸の変化、重心の移動を読み、次にどこへ動くかまで考えている。
敵の意図を見抜き、先回りして有利な場所へ誘い込む。
戦場で見せる信玄の軍略が、そのまま槍の扱いにも表れていた。
「さすが父上。これは楽しゅうなってきましたな!」
「まだ笑う余裕があるか!」
再び槍が交わった。
義信は正面から受けず、父の攻撃に合わせて左右へ動く。足元の土が削れ、草履の裏に小石が当たった。
周囲には武田家の武士たちが集まり、誰一人として声を発しない。
馬場信房は信玄の背後で腕を組み、飯富三郎兵衛は兄の虎昌と離れた位置から二人を見守っていた。
義信の郎党たちも、すでに武器を下ろしている。
父と息子の勝負。
だが、それだけではない。
この場で何が起きるかによって、武田家の行く末が変わる。
誰もがそれを理解していた。
◇
先に勝負を仕掛けたのは義信だった。
これまで父の間合いを測っていたが、いつまでも守っていては勝てない。
義信は槍を短く持ち直し、信玄の右側へ踏み込んだ。
信玄が穂先を向けてくる。
義信はそれを押し流し、相手の手元へ槍を滑らせた。
狙いは腕だ。
しかし、信玄は義信の動きを読んでいた。
わずかに身体を引き、槍の柄を立てて受け止める。そのまま石突きを返し、義信の胸元へ突き出した。
義信は肩を捻ってかわしたものの、足元の土を大きく蹴り上げることになった。
「どうした。わしの手元を狙ったつもりであろう」
「お見通しとは、恐れ入りました」
「そなたの考えることなど、わしには分かる」
「それは困りましたな。父上には、もう少し鈍くなっていただかねば」
軽口を叩きながら、義信は呼吸を整えた。
確かに父は強い。
しかし、信玄もまた義信の動きに警戒を強めていた。
武田の嫡男として幼い頃から武芸を学んできた息子ではあるが、今の義信は明らかに以前とは違う。
力任せに槍を振らず、相手の動きを利用して体勢を崩そうとしてくる。とりわけ間合いを詰めたときの身体の使い方が巧みだった。
不用意に懐へ入れれば、槍を持ったまま投げられかねない。
信玄は構えを低くした。
「義信。そなたが腕を上げたことは認めよう。だが、槍でわしに勝ったところで、武田の家督が手に入ると思うなよ」
「無論です。家督は木槍一本で決まるほど軽いものではありますまい」
「分かっておるなら、なぜここまでした」
「父上が俺の話を聞いてくださらぬからです」
義信は正面から答えた。
「兵を取り上げ、家臣を遠ざけ、屋敷へ閉じ込められた。あのまま大人しくしていれば、俺は何もできずに廃嫡されていたでしょう」
「そなたが家督を諦めれば済む話じゃ」
「それだけは承服できませぬ」
信玄の眼光が鋭くなった。
「ならば、力ずくで奪うか」
「そのために、こうして父上の前へ立っております」
義信は槍を構え直した。
「ただし、父上。俺が欲しいのは、父上に勝ったという名誉ではございませぬ。父上とともに天下を取ることです」
「わしを従わせて、か」
「はい。天下を望むなら、武田信玄ほどの名将を使わぬ手はありますまい」
信玄は思わず口元を緩めた。
「どこまでも強欲な奴よ」
「父上の息子ですからな!」
義信は豪快に笑い、地面を蹴った。
次の瞬間、槍の穂先が信玄の右肩へ伸びる。
信玄がそれを受け流そうとしたところで、義信は自らの槍を引いた。
攻めると見せかけ、退く。
信玄の身体がわずかに前へ出た。
義信が待っていたのは、その瞬間だった。
右足を大きく踏み替え、父の槍が届く間合いの内側へ入る。信玄は即座に柄を返したが、義信はその手元を左腕で押さえた。
木槍同士が激しくぶつかった。
義信は力で押さず、信玄が踏ん張る方向へ身体を回した。
相手の重心が外れる。
そこへ腰を入れ、父の身体を支えるようにして足を払った。
「ぬっ!」
信玄の右膝が地面についた。
義信は木槍を短く持ち替え、石突きを父の胸元で止めた。
ほんの一瞬、風の音だけが聞こえた。
「……そこまでにございます、父上」
義信は息を整えながら、静かに告げた。
信玄は胸元の木槍を見つめ、やがて顔を上げた。
「わしの負け、か」
「武芸の勝負では、ですな」
義信はすぐに槍を引き、父へ手を差し出した。
「ですが、父上。これで家督を譲れなどと申すつもりはございませぬ。そんな決め方では、民部殿も三郎兵衛も納得せんでしょう」
信玄は差し出された手を見つめた。
「では、何を望む」
「父上ご自身の判断です」
義信は父の眼を正面から受け止めた。
「俺に武田を任せられると思われるなら、家督を譲っていただきたい。まだ早いとお考えなら、その理由をお聞かせください。俺はそのうえで、もう一度勝負いたします」
信玄はしばらく黙っていた。
やがて息子の手を取り、ゆっくりと立ち上がった。
◇
「民部。そなたなら、今の義信をどう見る」
信玄は周囲に控える重臣たちへ向き直った。
突然問われた馬場信房は、慎重に言葉を選んだ。
「武芸については、申し分ございませぬ。しかし当主となるには、なお確かめねばならぬことが多うございます」
「もっともじゃ。義信、そなたも聞いたな」
「はい。俺も民部殿と同じ考えです」
信房が驚いて顔を上げた。
義信は木槍を地面へ置き、重臣たちを見渡した。
「俺は、父上を倒したというだけで皆に従えとは申しませぬ。父上が築いた武田家を、俺が継いでどう動かすのか。それを示さねば、皆も安心できんでしょう」
「では、若殿。御館様が家督を譲られたとして、最初に何をなさいます」
信房の問いに、義信はすぐ答えた。
「まず、俺についてきた者と父上に従った者の争いを止める。兵部の郎党も、三郎兵衛の兵も、同じ武田の者だからな」
「謀反に加わった者を、罪に問わぬと?」
「勝手に屋敷を出たことも、父上の兵へ武器を向けたことも、責任は俺が負う。家臣を無理に従わせたわけではないが、俺が始めた争いだ。それを忘れるつもりはない」
義信は続けた。
「ただし、略奪や私怨による殺傷まで許すわけではない。もし俺の郎党にそのような者がいれば、厳しく裁く」
信房は小さく頷いた。
「では、御館様に従って若殿を捕らえようとした者は」
「褒めてやってほしい。父上の命令を守っただけの者だ。三郎兵衛などは、俺に槍で負けても命令を曲げなかった。ああいう男こそ、武田には必要だろう」
三郎兵衛の肩がわずかに動いた。
信玄が口を開いた。
「義信。わしに従ってきた者が、そなたの命令を拒んだらどうする」
「新しい当主として命じた後も従わぬなら、理由を聞きます。納得できる諫言なら改めましょう。しかし、父上の命令と俺の命令を勝手に使い分けるような者は、役目から外します」
「ほう。わしの命令でもか」
「もちろんです」
義信は言い切った。
「父上には軍を任せますが、武田家の最終的な決定は当主である俺が下す。そうでなければ家督を譲っていただく意味がありませぬ」
信玄の表情が変わった。
単に父を軍の先頭へ立たせ、裏で好き勝手をしようという話ではない。
義信は、当主となった自分が全責任を負う覚悟を示している。
「四郎。そなたはどう思う」
信玄に呼ばれた勝頼が、一歩進み出た。
勝頼は父に従うため、馬場信房とともにこの場へ来ていた。兄の武勇を目の当たりにしても、軽々しく態度を変えることはなかった。
「父上。兄上が武田の当主となられるのであれば、私はその命に従います。ただし、諏訪の家を預かる者として、領地と家臣のことは守らねばなりませぬ」
「義信。四郎はこう申しておるぞ」
「当然だ。四郎にはこれまでどおり高遠を任せたい。諏訪の家を継いだ者として、信濃を支えてもらわねば困る」
義信は弟へ顔を向けた。
「ただし、四郎。お前にも遠慮はせんぞ。俺が誤ったことを言えば、兄弟だからと黙っておらず、正面から言ってくれ」
「……兄上は、そのような家臣をお望みなのですか」
「当たり前だ。何でも従いますと言う者ばかり集めていては、戦で負けるぞ」
勝頼は父と兄を交互に見た。
信玄のもとで武将として育てられた自分にも、兄の言葉が軽いものではないと分かった。
「承知いたしました。兄上が当主となられるなら、この勝頼、諏訪の家とともにお支えいたします」
義信は大きく頷いた。
「頼りにしておるぞ、四郎」
◇
信玄は息子たちのやり取りを、黙って聞いていた。
自分が父の信虎を駿河へ追放したのは、二十年以上も前のことになる。
あのときは、家臣たちの支持があった。
だが同時に、父を追放するという重い決断を下さねばならなかった。
今度は自分が、その立場に立たされている。
息子は家督を求め、父へ槍を向けた。
普通なら、許しがたい行為だろう。
しかし義信は、父を殺そうとしなかった。兵を集めて甲府を焼くこともせず、自ら危険を冒して父の前に出てきた。
そして今、父への忠義を貫いた家臣まで重用しようとしている。
信玄はゆっくりと息を吐いた。
「義信。そなたに一つだけ聞こう」
「何でございましょう」
「わしが家督を譲った後、そなたの考えに反対したらどうする」
「話を聞きます」
「それでも意見が合わねば」
「最後は俺が決めます」
「わしが従わぬと言えば?」
義信は少し考え、口元を緩めた。
「父上ほどの名将が、主君の命令を無視するとは思いませぬが」
「わしを信用しすぎではないか」
「いいえ。父上が約束を守るお方だと知っているだけです」
義信は続けた。
「家督を譲ると決められたなら、その後で軍を集めて取り返そうなどとはなさらんでしょう。もしそんなことをされるなら、俺はもう一度父上を倒すまでです」
「……随分と自信があるようじゃな」
「二度勝つより、一度で終わらせる方が楽ですが」
義信が笑うと、信玄もつられて口元を緩めた。
しかし次に口を開いたとき、その声は厳しいものだった。
「義信。家督を譲るなら、三つの条件がある」
義信は背筋を伸ばした。
「お聞かせくだされ」
「まず、わしに従った家臣を処罰せぬこと。次に、これまで約束した国衆の所領を、そなたの都合だけで奪わぬこと。そして最後に、わしを軍に用いるというなら、任せた戦場では必要な指揮を認めることじゃ」
「承知いたしました。ただし、こちらからも一つ条件がございます」
「申してみよ」
「父上には、当主である俺の命令に従っていただきます。兵を動かす方針や大きな外交の決定は、俺が責任を持って下します。軍を任せる場合は、その範囲と役目を明確にいたしましょう」
信玄は頷いた。
「よかろう。ただし、そなたが愚かな命令を出したら、わしは遠慮なく諫めるぞ」
「大歓迎です。父上ほど口うるさい家臣は、ほかにおらんでしょうからな」
「この大馬鹿者め」
信玄が笑った。
そして、居並ぶ家臣たちへ向き直った。
「皆、聞け」
その声に、武士たちが一斉に姿勢を正した。
「わしは武田の家督を、嫡男義信へ譲る」
誰かが息を呑んだ。
馬場信房が顔を上げ、飯富三郎兵衛は驚いたように目を見開いた。虎昌に至っては、言葉もなく義信と信玄を見比べている。
信玄は続けた。
「義信はわしへ槍を向けた。家中を乱した責任もある。だが、あやつは武田を壊すために動いたのではない。わしを超えて、さらに大きくしようというのだ」
信玄は息子を見た。
「その覚悟を、わしは認めよう」
義信は深々と頭を下げた。
「父上。ありがとうございます」
「ただし、勘違いするな。わしが負けたのは槍の勝負だけではない。そなたが武田を率いるなら、わしもまだ働けると考えたからじゃ」
「承知しております」
「ならば、今後はそなたが責任を負え。天下を取るなどと申した以上、途中で投げ出すことは許さぬぞ」
義信は顔を上げ、晴れやかに笑った。
「望むところにございます!」
◇
その日のうちに、甲府の館では重臣たちによる話し合いが行われた。
信玄が家督を譲ると宣言しても、それだけで領国の統治が切り替わるわけではない。
各地の城将へ命令を伝え、一門衆の承認を得る必要があった。家中の重臣たちも、義信がどこまで権限を持つのか、明らかにしておかなければならない。
信玄は馬場信房らへ命じ、家督譲渡の書付を整えさせた。
そこには義信が武田家の新たな当主となること、信玄は隠居の立場から軍事を支えること、従来の家臣や国衆の権利を原則として維持することが記された。
信玄が花押を据えた書付は、義信の前へ運ばれた。
義信はそれを受け取り、しばらく見つめた。
前世で同姓同名の武田義信を研究していた頃、こんな光景を見る日が来るとは思いもしなかった。
史実では父に謀反を疑われ、幽閉の末に命を落とす男。
その義信が、父の生きているうちに家督を継ぐ。
歴史は確かに変わった。
「義信。何をぼんやりしておる」
信玄に声をかけられ、義信は顔を上げた。
「いえ、父上。これほど立派な家督を譲っていただけるとは、ありがたいことだと思いまして」
「家督は飾り物ではないぞ」
「承知しております。明日からは父上にも、これまで以上に働いていただきますので」
「……わしを休ませる気は、最初からないらしいな」
「父上が休まれては、武田の戦が弱くなります」
信玄は呆れたように息を吐いた。
その様子を見ていた馬場信房が、ようやく小さく笑った。
「御館様。いえ、義信様。これからは、我らも呼び方を改めねばなりませぬな」
義信は頷いた。
「父上のことは、これまでどおり御隠居様とお呼びすればよい。軍を率いるときは、その役目に応じて命令を出していただく。俺と父上の命令が食い違うことのないよう、軍務の取り決めも整えよう」
「承知いたしました」
信房は深く頭を下げた。
続いて三郎兵衛が進み出た。
「義信様。某はこれまで、御隠居様の命令に従い、義信様を捕らえようとして参りました」
「知っておる。見事な働きだったぞ」
「……お咎めは、ございませぬか」
「何を咎める。お前は主君の命令を守っただけではないか」
義信は三郎兵衛の肩を叩いた。
「これからも、その忠義を忘れるな。俺が当主になったからといって、昨日までの働きを責めるような真似はせん」
三郎兵衛は深く頭を下げた。
「ありがたき幸せにございます」
その隣では虎昌が膝をついていた。
義信は傅役へ顔を向けた。
「兵部。随分と心配をかけたな」
「若殿……いえ、御館様。この虎昌、まさか今日このような日を迎えられるとは……」
老将の声がわずかに震えていた。
長年仕えてきた信玄へ背きかけ、主家を割る危険まで冒した。
その果てに待っていたのが、父子の和解と家督の譲渡である。
虎昌は涙を見せまいとしたが、義信には分かった。
「兵部。お前にもまだ働いてもらうぞ」
「無論にございます。この命、御館様のために!」
「命を預かるのはありがたいが、簡単に死なれては困る。父上もそうだが、俺には働き盛りの家臣が多すぎるのだ」
周囲から笑い声が上がった。
それまで張り詰めていた評定の間にも、ようやく穏やかな空気が戻ってきた。
◇
翌朝、躑躅ヶ崎館の評定の間には、武田家の重臣たちが改めて集められた。
新しい当主として上座へ進んだ義信は、居並ぶ武将たちを見渡した。
右手には信玄が座り、その後ろに馬場信房、飯富虎昌、飯富三郎兵衛らが控えている。
勝頼も、高遠へ戻る前に兄の最初の評定へ加わっていた。
義信は一度、大きく息を吸った。
「皆、よく集まってくれた。昨日までの騒ぎで、心配をかけたことを詫びたい」
重臣たちが頭を下げた。
「しかし、俺はこれからも遠慮せずに動くぞ。父上が築かれた武田家を守るだけでなく、さらに大きくするつもりだ」
義信は地図を広げた。
「まずは北信濃の守りを固める。上杉輝虎を侮るな。あの男は一度退いたからといって、簡単に信濃を諦める相手ではない」
信玄が頷いた。
「そのとおりじゃ」
「父上には、北信濃から上野にかけての軍事について、引き続き力を貸していただきたい。具体的な軍勢の編成は、民部らと相談して決めましょう」
「承知した。だが義信、上杉を抑えるには相応の兵が要るぞ」
「もちろんです。父上に戦えと言っておきながら、兵を渡さぬような真似はいたしませぬ」
義信は笑った。
「ただし、無用な合戦は避けていただきたい。父上の軍略を使うなら、もっと大きな戦で使いたいのです」
「わしが戦好きのような言い方をするな」
「違いましたかな」
信玄は苦笑し、周囲の家臣たちも笑った。
義信は続けた。
「四郎には高遠を守ってもらう。兵部には俺のもとで軍勢の編成と人の扱いを助けてもらいたい。三郎兵衛にも、いずれ大きな軍を任せるつもりだ」
三郎兵衛は驚いたように顔を上げた。
「某に、でございますか」
「ああ。父上への忠義を貫き、俺を相手に槍を取った男だ。その胆力を遊ばせておく理由がない」
義信は家臣たちを見渡した。
「それから、甲斐の病についても改めて調べさせる。腹の膨れる病で働けなくなる者がいると聞いた。原因が分からぬからと放っておくつもりはない」
信房が頷いた。
「若殿……いえ、御館様が以前からお調べになっていたことでございますな」
「そうだ。天下を取るには兵が要る。兵が育つには、民が健やかに暮らせる国でなければならん」
義信は地図の中央へ指を置いた。
「だが、まず何よりも大切なのは、武田家の力を一つにすることだ。父上に従ってきた者も、俺を支えてくれた者も、今日からは同じ武田の家臣として働いてもらう」
信玄が立ち上がった。
重臣たちが一斉に姿勢を正した。
「皆、聞け。武田家の当主は、義信じゃ」
信玄の声が評定の間に響いた。
「わしは家督を譲り、これよりは義信を支える。そなたらも、武田の家を守るために力を尽くせ」
家臣たちは深々と頭を下げた。
義信はその光景を見つめ、胸の奥に熱いものが込み上げるのを感じた。
昨日まで敵として槍を向けていた男たちが、今は自分の前に膝をついている。
そして、誰よりも恐ろしい敵だった父が、自分の力となってくれる。
これほど頼もしいことがあるだろうか。
義信は立ち上がり、腹の底から笑った。
「よし! 父上、皆の者! これから忙しくなるぞ!」
信玄が呆れたように息を吐く。
「義信。まだ家督を継いだばかりじゃ。少しは落ち着かぬか」
「父上、天下は待ってくれませぬぞ」
「分かっておる。だが、わしにも少しは休む暇を与えよ」
「では、越後の上杉を抑えた後に、ゆっくり休んでいただきましょう」
「……お前という奴は、父親を何だと思っておる」
義信は満面の笑みで答えた。
「武田家で一番頼りになる家臣にございます!」
評定の間に笑い声が広がった。
信玄はとうとう諦めたように首を振り、それでも口元には笑みを浮かべていた。
かつて父を追放して家督を奪った男が、今度は息子に家督を譲り、その下で天下を目指す。
史実には存在しなかった、新たな武田家の姿だった。
義信は地図へ視線を戻した。
越後には上杉輝虎。駿河には今川氏真。相模には北条氏康。そして西には、織田信長が勢力を伸ばしている。
相手に不足はない。
「さて、父上。まずはどこから天下を揺さぶりましょうか」
信玄は地図を眺め、息子へ問い返した。
「それを決めるのが、当主の務めであろう」
義信はにやりと笑った。
「まったく、そのとおりですな」
そして、一同へ向き直った。
「では、最初の命令を出す。今川へ使者を送るぞ。氏真殿には、武田の当主が代わったことを知らせねばならん」
信玄が眉を上げた。
「今川から始めるのか」
「はい。ただの挨拶では済ませませぬぞ。今川には今川の働きをしていただく。三国の盟約を立て直し、武田が西へ進む足場を整えます」
義信は父の顔を見た。
「そして父上。織田信長という男、あれは放っておけば恐ろしい相手になります」
「美濃を狙っておる織田か」
「ええ。あの男が美濃を手に入れる前に、こちらも動きたい」
信玄の眼に、久しく見せていなかった強い光が宿った。
「面白い。では義信、そなたの天下取りとやら、見せてもらおうではないか」
義信は大きく頷いた。
「お任せくだされ、父上!」
父を倒し、父を家臣にした男が、いよいよ天下へ目を向ける。
甲斐の武田家は、この日から新たな道を歩み始めた。
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